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現代アジアの華人たち|番外編「ノモンハンへ行く」

 漢字、言語、食、風習――。中国ルーツの文化に生きる〝華人〟は、広くアジアの各地に暮らしています。
 80年代、90年代生まれの、社会で活躍する華人や中国研究者の言葉を通して、私たちの前に見えてくるものは何でしょうか。
 今回は番外編として、河内滴かわうちしずくさんが留学中に訪れたノモンハンでのエピソードを綴ったエッセイです。

☞ 連載「現代アジアの華人たち」

写真・文:河内滴

 寝台列車は長春ちょうしゅん駅から12時間以上かけて内モンゴル自治区東部にあるハイラル駅へ到着した。車窓からは時おり凍った水たまりが見えたほど、4月下旬でもこのあたりはまだ随分冷え込んだ。
 駅の外に出ると、澄み切った空気と目が痛くなるほどくっきりとした青空が広がっていた。大気汚染が頻繁に問題になる北京に住んでいたので、清潔な空気に触れられる喜びを感じた反面、その清潔さはどこか無菌加工を施した実験室のそれに近いような印象も抱いた。

 旅の目的地は、1939年に当時の満州国とモンゴル人民共和国との国境沿いで起きた「ノモンハン事件」の記念館だった。
 中国で中国近代文学を研究していると、どうしても「日中戦争/抗日戦争」という大きなテーマを避けて通ることができない。単に学問上の知識としてだけでなく、普段の生活のなかにおいても、その戦争についての認識や態度をときには言葉を通して、ときには言葉にはならない〝気配〟を通して、問われることが多々あった。いつしか、中国にいる間にできる限り関連する場所に足を運んで、自分なりに学び考えていきたいと思うようになったのだった。

ハイラル駅

 漢語とモンゴル語が並列表記された店の看板を眺めながら、僕はまずハイラル駅近くのドミトリーへ向かった。大きな荷物はここに置いていき、長距離バスに乗って記念館から一番近くの「新バルグ左旗さき」という町を目指す。
バスの発車場でチケットを購入してから、近くの小さな飲食店で朝食をとった。せいろに入った蒸したての羊肉の小籠包ショウロンポウを平らげ、モンゴル風の甘くないミルクティを飲み干すと身体は芯から温まった。

 バスの出発の時間が近づいてきたので、お会計を済ませて乗り場に向かった。しかし、出発時間になっても、それから10分、15分と過ぎてもバスは一向に来る気配がなかった。僕は近くにいた同世代の男性に新バルグ左旗行きのバスはもう出てしまったのかと訊ねてみた。男性の髪は短く刈り上げられ、がっしりとした体つきで、腕が特に太かった。

「そのバスなら1時間以上遅れて到着するってさっきアナウンスがあったよ」とその男性は教えてくれた。「俺もそれに乗るんだ。バスが来たら教えてやるよ」
「ありがとう。乗り損ねてしまったのか、心配になったものだから」と僕は礼を言った。
 結局、バスは1時間半ほど遅れて到着したが、そのことに文句を言う人は誰もいなかった。バスが近づくと、さっきの男性が僕に目配せをしたので、僕は軽く頭を下げた。

 バスはフルンボイル草原に敷かれた細長い一本道をただただ真っ直ぐに進んでいった。360度、青空の下には草原の景色と地平線が延々と広がる。時々、遊牧民の住むゲルや放牧された羊や馬のほかに、どこか居心地が悪そうに直立する風力発電機が見えた。しかし、大部分の時間、景色にはほとんど何の変化も起きず、果てのない草原が続くばかりだった。

 車内に流れるバラエティ番組の笑い声を遠くに聞きながらそんな眼前の光景を眺めていると、それは壮大さを越えて、次第に恐怖の念を僕に抱かせた。もし、日も落ちた真っ暗な草原のなか、何の電子機器も持たないでここにひとり取り残されてしまったら、生き延びることなど到底できないだろう。牧歌的なこの草原と都市で暮らす自分との間には、実際の数値以上に距離があるように思えた。

フルンボイル草原に伸びる一本道

「お前、ひとりで旅行してるのか?」、途中の休憩地点でさっきの男性が声をかけてきた。
「そうなんです。この近くでちょっと見ておきたいところがあって」、僕はわざと曖昧に答えた。
「外国人だろう? 一体どこから来たんだ?」
 僕たちは互いに簡単な自己紹介をした。男性の名前はハオ(豪/Háo)と言い、黒龍江こくりゅうこう省の出身で国営の石油会社に勤めていた。新バルグ左旗で会議に出てから、翌朝には陸路でモンゴルに入り、そこで長期にわたって石油の採掘作業にあたるそうだ。
「あんまり大きな声じゃ言えないけどな」とハオは周囲をちらりと見てから声を潜めた。「このあたりは治安があまり良くない。外国人、特に日本人がひとりで旅行に来たことは周りに知られないようにな」
「ありがとう。十分に気をつけるよ」と僕は言った。

 そこからさらに1時間ほど走ってバスは新バルグ左旗の中心部に到着した。予定では午前10時には到着するはずだったが、この時点ですでに正午を過ぎていた。事前に調べていた情報ではここから記念館までタクシーで1時間ほどかかるそうだ。帰りのバスの時間を考えると、すぐにここを出発しなければならない。
 ところが、バスを降りるなりハオに呼び止められた。「ちょっと俺についてこい。この村で一番うまい牛肉麺を食わせてやるよ」
どうしたものかと迷ったものの、ひとまず一緒に食事をすることにした。

 ハオが泊まるホテルはバスの停車地のすぐ目の前にあった。荷物を置いて身軽になったハオと一緒に、土ぼこりの立つ道を歩いてお店へ向かった。
 牛肉麵は透明なスープに入った太麺の上に牛肉がどっさりと盛られたシンプルなものだった。葱やパクチーなどの薬味も入っていない。北京でよく食べていた蘭州らんしゅうラーメンのようなものを想像していただけに少々面食らったものの、お腹は空いていたのでいっきにそれを完食した。塩と素材の味しかしない薄い味つけだったが、大盛りの牛肉を噛みちぎっていると、不思議と元気がみなぎってくるような気がした。

「お前はこれからどこに行くつもりなんだ」と付け合わせのイカ料理をつつきながらハオが訊いた。そこで僕は正直に今回の旅の目的を伝えた。
「そうか」と短くハオは返事をし、それからしばらく黙々とイカを噛み続けていた。昼食代はハオが支払ってくれた。

 お店から出るとハオは手持ち無沙汰のタクシーの運転手を探して次々と声をかけてくれた。自分で探すから大丈夫だよと僕が伝えても、ハオはひとりまたひとりとあたってくれた。しかし、彼らが提示した金額は500元(約1万円)前後で、僕は頭を悩ませた。その金額は、僕が帰りに予約していた航空券のチケット代とほとんど変わらなかったのだ。

 次にハオが見つけてくれたドライバーは、記念館まで行くことはできないが、すぐ近くにあるガンジュル廟というチベット仏教の寺院までなら連れて行けると言った。彼が提示した値段もかなり良心的だった。
「このルートにしたらどうだ? これなら俺も一緒に回ることができるぜ」とハオは言った。どうやら会議には参加せずに、観光に付き合ってくれるようだった。
 寝台列車とバスを乗り継いでようやくここまで来た長い道のりを思うと、記念館へ行かないという選択は心惜しかった。だけど、それ以上にハオの真心を無下にすることもできなかった。この出会いもきっと何かの縁なのだと思い、僕は行き先を記念館からガンジュル廟へ変更した。

 ガンジュル廟へは20分ほどで到着した。その道中でハオはドライバーともあっという間に打ち解けた。

 廟の入口へと続く道の脇には、当時使われた関東軍のトーチカがそのまま置かれていた。その近くにはここでの戦闘の歴史を紹介した写真付きの簡素な看板が立っていた。トーチカののぞき穴には板が荒っぽく打ち付けられ、外壁もかなり剥がれ落ちていたが、作り自体は相当頑丈であることが見て取れた。
 トーチカには人間の息遣いがまとっているように僕は感じた。それがこれを作った人のものなのか、この中に身を潜めていた人のものなのかは分からないが、およそ80年前を生きた人の気配がこの瞬間リアルに伝わってきた。血なまぐささと言ってもいいかもしれない。トーチカに手を触れながらその周りをゆっくりと歩いていると、どこか遠くから銃声が聞こえてきそうな感覚さえあった。

トーチカの外観

 一方、ガンジュル廟はほんのつい数日前に改修を施したのかと思われるほどに、建物や門には塗料の色が鮮明に残っていて風化の痕跡がほとんど見当たらなかった。そのことで、かえってそこだけが周囲から浮いているような不自然さがあった。廟内には僕たちのほかに、数組の観光客がいるだけだった。フルンボイル草原を吹き抜ける強い風と、それが鳴らす廟内のいたるところに掛かる小さな釣鐘の音色だけがあたりに響いていた。不規則に鳴り響くその音色は太古の儀式で奏でられる音楽のようだった。

 ガンジュル廟に到着してから、ハオは時々ドライバーと短く言葉を交わすだけで、あとはほとんど口を開かなかった。道中での話を聞いていると、彼は仕事の都合でこれまでに何度もこのエリアに滞在したことがあるようだった。ノモンハン事件の歴史についてある程度知っていてもおかしくはない。何より彼自身が東北出身で、日中戦争について内心思うことも多くあっただろう。それでも、自分の仕事を放ってまでこの観光に付き添ってくれたのだった。

ガンジュル廟の内部

 廟内を散策し終えてから、近くの草原にある地下水が湧くスポットまでドライバーが連れて行ってくれた。目的地に到着すると、地元の人たちが空のタンクを手に長蛇の列を作っていた。どこにこれだけの人がいたのだろうと僕は驚いた。
「せっかくだからお前もここの水を飲んでみろ」とハオがにやにやしながら僕を促した。表情には少し明るさが戻っていた。
 正直なところお腹を壊すのではないかと気が進まなかったが、断れる雰囲気でもなく僕は黙って列に並んだ。やがて順番が回ってくると、ハオは嬉しそうにパシャパシャと写真を撮った。両手にためた地下水を一息に飲み干すと、癖も雑味もなく、乾いた喉がいっきに潤っていった。

 町に戻ったのはバスの発車20分前だった。ハオをホテルまで見送って、別れ際に厚く礼を述べ、互いの連絡先を交換した。彼はモンゴルへ向かい、僕はハイラルへ戻った。
 帰り道ももちろんバスはあの細い一本道をひたすらに進んだ。地平線に沈む夕暮れを見ながら、かつてこの広い草原を重い装備を背負って歩いた各国の兵士たちの姿を想像した。そして、国境線という概念を持たずに、長い間この草原で平和に暮らしてきた遊牧民たちを思った。胸の奥のほうがヒリヒリと痛み、深い溜息が何度ももれた。

夕焼けのフルンボイル草原

 翌日がハイラル滞在の最終日だった。チェックアウトを済ませ、「フルンボイル民族博物館」を見学し、残った時間で市内をシェアバイクで散策する予定だった。
 博物館ではこのあたりの草原の歴史が氷河期から詳しく展示されていた。さらに匈奴きょうど鮮卑せんぴといった遊牧民族が中国、そしてユーラシア大陸に与えてきたインパクトを概観することができた。展示の終わりの方には、昨日訪れたガンジュル廟が文化大革命期に熾烈な暴力にさらされた史実が写真とともに簡単に紹介されていた。

 博物館をあとにして市内を散策していたとき、自分の身体がかなり熱っぽくなっていることに僕は気がついた。夜の飛行機で北京に戻ることにはなっていたが、ドミトリーの管理人に連絡をいれて、宿泊期間を夕方まで延長して部屋で休ませてもらうことにした。

 ベッドに横たわって目をつむると、ハイラルに来てから目にした光景が脳内で繰り返し再生された。これまでに日中戦争の跡地や記念館にはいくつも訪れてきたけれど、この地には他のどの場所よりもむき出しの暴力があった。実際の戦場が語りかけてくる〝言葉〟は、記念館や博物館に陳列された資料の言葉や、あるいは書籍に記された言葉とは種類が全く異なることを初めて知らされた思いだった。それは想像することの難しさでもあった。

 結局、熱はほとんど下がらないまま空港への出発時刻が近づいてきた。重い身体を起こして、配車アプリでタクシーを手配した。数分後、ドミトリーの前にタクシーが到着した。
 体力を温存するために、車内でも静かに過ごそうと僕は思っていた。ところが、行き先を確認したドライバーが僕の中国語の返事を聞いて、「お前、ひょっとして外国人じゃないか?」と訊いてきた。

「そうです。日本から来ました」、僕はしぶしぶ会話に付き合うことにした。
「そうか、日本人か。俺の親友は日本人とモンゴル族のハーフだぜ」と中年のドライバーは嬉しそうに言った。
「日本人とモンゴル族のハーフ? このあたりの出身で?」と僕は訊き返した。
「そうだよ。ハイラルで生まれ育った。小さい頃からずっと仲がいいんだ」
「それはとても珍しいケースじゃないですか? この街に日本人はほとんど住んでいないと思うのですが」
「この街に日本人はほとんどいないさ。親友の親父は日本軍の元兵士で、母親がハイラル出身のモンゴル族なんだ」
 ドライバーは何でもない世間話をするみたいにそう話したが、僕は驚いて一瞬言葉に詰まった。窓の外では大きなトナカイのオブジェが天に向かって角を突き刺していた。

ハイラルの街並み

「もし良かったら、その人について詳しく聞かせてくれませんか?」と改まって僕は訊ねた。
「ああ、良いよ」、そう言ってドライバーは淡々と話し始めた。「あいつの親父は陸軍の兵士だったそうだ。抗日戦争の時にこの街にやってきて、実際の戦闘にも参加したらしい。そしてこの地で敗戦を迎えた。戦争が終わって多くの日本人兵士はここを去ったけれど、あいつの親父はなぜか日本に帰らなかったんだ。理由は俺も聞いたことがない」
 僕は昨日バスで通ったあの細い一本道を脳裏に思い出していた。
「戦争中か、戦争が終わってからなのかは知らないが、ハイラルでモンゴル族の奥さんと出会って、ふたりは結婚した。その夫婦の間に生まれたのが俺の親友なんだ。ハイラルに生まれ育って、今もハイラルで暮らしている。よくお酒を一緒に飲むよ。ところでお前、年はいくつだ? ちょうどあいつにも同じくらい年の娘さんがいるよ。お前、もう結婚はしているのか?」
「親友のご両親は今もご存命なのでしょうか?」と僕は訊いた。
「親父さんはもう亡くなった。母親はまだ生きている」
 
 帰り道のタクシーでこんな話を聞くことになるとはまったく想像していなかった。まだまだ聞きたいことがたくさんあったのだけど、あいにくタクシーは空港に到着してしまった。
「貴重なお話をありがとうございました。ご親友にもくれぐれもよろしくお伝え下さい」と僕は言った。
「伝えておくよ」と言ってドライバーは車から降りた。そして笑顔で僕に向かって丁重に手を差し出した。僕はその手をがっちりと握った。
 
 飛行機の出発を待ちながら、この旅行で出会った人たちと、出会わなかった人たちのことを僕はひとりずつ思い返していた。そして、今では「ノモンハン」という言葉が血にまみれたものだけでなく、ハオやドライバーとの思い出、さらには出会わなかった〝親友〟とその家族の歴史とも繋がっているのをたしかに感じ取ることができた。夜の空港の片隅で、80年前と今この瞬間が接続する音が聞こえた気がした。

 ふと気がつくと、さっきまであれほど重かった身体は嘘のように軽くなっていて、おまけにお腹が減って仕方なかった。熱はいつの間にかすっかり下がっていた。

河内滴(かわうちしずく)
1991年、大阪府生まれ。2020年1月北京大学大学院中文系修士課程(中国近代文学専攻)修了。同年2月より都内の雑誌社に勤務。2022年2月からはフリーのライター・翻訳家として活動。

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