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映画「春江水暖〜しゅんこうすいだん」感想

基本的に字幕や吹き替えなどが気になったりとか、顔を見分けるのが苦手だったり、その景色やイベントなどがわからないという理由で邦画しか見ないけど、満足するほどに邦画は観たので。趣向を変えて、近場でやっている&レイトショーがあった&好きなブロガーさんが絶賛していたこともあり何となしに観てみました。

この映画がすごい不思議で・・・・なんかこう、遠くから人の人生をボーーっと眺めてる。みたいな感覚になる。海外ものだから社会情勢とか、説明されるもののあまりリアルに感じないからなのかそもそも言語が違うからか、字幕で意味はわかっても、こう、どこか遠い世界のように思える。だけど人間として普遍的な時の流れとか、親子の関係とか、わかる部分もあるので、さっぱりわからんわけでもない。
何となく。

邦画を見てると、それぞれの人物の「心の小さな機敏」みたいなのが
注目したい部分だったりするし、そうじゃない場合は、迫力で圧倒するみたいな感じがあるので、この「何となく・・・・」みたいな感覚が味わえるのは、私にとっては新鮮だった。邦画以外は食わず嫌いしてたけどいいかも。

しかも、この作品に関しては、なんか特に、って感じがした。時の流れが緩やかだけど、四季が感じられる壮大さがあり。だけどフォーカスするのは「一つの家族」だけなので、散漫にならずストーリーを思いのほか認識できる。「親が子どもに口出ししすぎ問題」とか「介護問題」「兄弟間で誰が親の面倒みるかとか、嫁も含めたいざこざ」「兄弟間で借金があったり・・・」とか、こう、割と普遍みがあるので遠いけど近い。みたいな距離感で伝わってきて、それがすごい。最初は不安ってか「えっ。わかんない。顔も区別つかない。どういうニュアンス?」って、置いて行かれそうになるけど、何となく慣れてきて登場人物も限られてるわけなので、後半になるにつれ、わかってくる。

公式にも「絵巻のような・・・」と表現されているように、映像表現も、横にずーっと流れていくような感じなので、すごい、ある種、退屈なんだけど、それがこう、最後になるにつれて、大きなメッセージみたいな感じになってて、何となく
ゆっくりとした時の流れとして伝わってくるのね。

そうして「ボーッ」としてる中で、自分の人生のことを考えたりとかして。家族のこととか。仕事のこと。自分の目的とか、意思とか、尊厳って何だろうな、とか・・・。なんか、最近ボーッとすることが苦手になってきて。
暇さえあればSNSを見てるので。。だから貴重な時間だった。

と、前置きが長くなったけど・・・・ この話を見ながら思うことがいろいろあった。

 おばあちゃんと、長男~四男までが出てくる。 長男・次男には嫁もいるのね。
その長男の嫁は娘の結婚相手を認めてなくて。 挨拶に来るけど追い出しちゃうのね。 その嫁はしかも母親の介護も急に引き受けるわけ。 「自分の母の介護が終わったら、次は義母かよ」って 夫にキレ散らかすんだけど、夫も精一杯言葉で労い、感謝を述べるんだけど 、「けっ、口だけだね」とか言って。 でもそのすぐ後に夫は酔っ払って寝ちゃうのよね。 来客をもてなすのにお酒いっぱい飲んじゃってね。
で、その寝顔を見て「見て~この顔(笑)ほんま笑えるわ~」って 表情が柔らかくなって。娘に話しかけたりするのよね。 その、喧嘩したり、また仲直りしたり、って当たり前の 家庭の様子が写ってる、って感じがあまりにも自然で 。俳優さんじゃなくて、監督の親戚がキャスティングされているという・・・ 。同じような境遇のおばさんなわけ。だからあんなリアルやったんや・・・ 。って。体型とか髪型とかビジュアルが本当に一般人だから、あとでパンフ見て「そらそうか」と思った。

こういうやりとり見てると、 なんか「自由に生きたい」とか「ジェンダーロールの押し付けだ!」 とかTwitterをみすぎてこう、もう、自分がどんどん煮詰まってきてるんやな、って気づくよね。なんか本当に普通の暮らしってこんなんだよな、みたいな。 別に考えが浅いわけじゃなくて、意思が弱いとかじゃなくて・・・ なんていうか「こんなんだよな・・・」って思いました。

ここからは自分の話になりますが、ばあちゃんが生きてる時に 「孫(私の弟)が関東の嫁に取られちゃって(関東に引っ越すことになり)寂しい」 って言った時に、どうして寄り添ってあげられなかったんだろう。 いつも思う。 「弟の幸せを考えてあげて。そんなこと言わんでよ」って。 せっかくだから祝福してあげて欲しいって、その時は弟への気持ちが強かったんよね。 だけど、愚痴ぐらいこぼしてもよかったやん。本人に言うわけじゃなし。 って今になって思う。 もうばあちゃんはこの世にいないから。何も寄り添うことができない。 こうやっていろいろ「気づい」ても意味なくて悲しいな、って思う。

昔の人の価値観というテーマでいつも思い出すことは、なんか、今までずっとこの世代の人たちは自由に恋愛もできなくて、職業の選択もできなくて辛かっただろうな・・・今からでも私の力で心を解放してあげたい(なんと言う過信)とまで思ってたけど、その時はそんなもんだった。って、こう言う感覚なんかなぁ。って思う。みんな普通に生きてく。それだけ。


「好きなことを仕事に」とか「一億総クリエイター時代」みたいに、表現することや、クリエイティブなことをすることや自分の生き方を自由に選択することが、幸せで、そうやって今まで閉ざされていたものが拓けて行って。時代が進んで、一人ひとりの幸せを感じられる、そんなふうに少しずつ時が進んでいってるんだ、って疑わずにいたけど、それをじいちゃんやばあちゃんに押し付けるのって違うのかもな、って今の時代の価値観だけど無邪気に信じてた自分について思い直したりする。  もちろん辛いこともあっただろうけど、それも一つの人生なのに、辛い・悲しい、って言う視点だけではあまりにもこどもじみてるのかもな。

逆に自分が表現したいとか、自由に生きたいって思うことすら、そもそもただの「時代性」なのかもしれないとも思えて、何十年経った時に「自分の意思」「自分の考え」「自分の選択」とか思い込みに過ぎず、虚しいぞ、と思えたりするんだろうか。「雰囲気にのまれてたなぁ、あの頃。古い価値観」みたいに。すでにその境地にいる人もきっといるのだろう。

映画の話に戻りますが、この、母と娘の喧嘩の時、すごい、母がキレたときに意地はってもう、「絶許」ってなる時の、表情。ほんまこの!頑なな感じは「うわぁ、、、ありそうすぎてみてられん」ってなったよね。もう。理不尽なまでに頑な。「フンっ」ってことのこと。正直ただの意地。それも・・・なんか、娘との純粋な関係性というよりも、「こっちは家のことでこんな苦労してんのに、あんただけ何言ってんねん???!!」みたいなのがすごい前後の話からしても伝わってくるのよね。自分の母なら「頭おかしいんか、人の話聞けや」っていつもガチギレしてしまうような場面だけど、観客としてみてると「おかんも辛いよね」ってなるから不思議。(肩持ちたくなる程まではいかない。やっぱ自由にさせてくれと言う視点で見てまうので)そしてその後、この映画の特徴でもある、「時の流れ」描写により、なんとなく四季が流れていくうちに、仲直りしてたりして、それもリアルだったりして、「まーそんなもんよね」って言う気持ちになり、「人生・・・・」って言うこう、俯瞰した気分になった。

長男の嫁は反対してたけど、長男は割と娘の意思を尊重してて、それの絶妙な感じもすごい暖かい感じがした。最初、唐突に職場に訪れて年収聞いたり、「えっこのおっさん正気か」とびっくりしたけども、なんか、最後はすごいいい関係というか。小説の話をし合うとことかすごい、「よかったねぇ」となったね。

一方、三男もかなり癖のあるやつで・・・三男の人生の選択が「何でそっちに行くかな」って、もうずっとヤキモキしかなかったわ。おかんが好きなのは伝わったけどもね。次男、四男もそれぞれに、三者三様というか。なんかみんなそれぞれだけど、一緒に、いい大人がバスケしたりして、謎に仲良い瞬間とか。おもろい。

以上、まとまりないけど終わり。

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