幻の写真家。

写真を撮ることが好きです。
以前も書いたけど、高校では、教室のロッカーにインスタントカメラを常に置いていたから、かなり前から好きだったのだと思います。

フィルムの、味わいある雰囲気が好きで、一時期はLOMOとかHOLGA等の、トイカメラにはまっていました。
しかし、フィルム現像できるお店はどんどん少なくなっていき、私自身も仕事が多忙になっていき、フィルムカメラからは遠ざかることになり。
と機を同じくして、スマホカメラの性能が良くなり、加工アプリも登場し、手軽に、自分の好きなテイストの写真を生み出せるようになりました。

写真も、その人だけの「作品」だと思っています。同じ時に同じ場面を撮っても、人によって、全く異なる切り取り方をする。
そもそもがそんなものなので、加工も、特に邪道とは思わない。ありのままを残したい人も、曖昧を好む人も、いていいと思います。

Facebook全盛期(今もそうかもしれませんが、私は止めています)、私は、スマホで撮った写真を、ばしばし載せていました。
そこから、趣味友との繋がりができました。
繋がった友人の中に、県内では有名な書店で勤務している、サブカル女子がいて。彼女の企画が通り、その書店で、彼女と私の写真を飾らせてもらえることになったのでした! 「県内のスマホ写真家」みたいなふれ書きで。

その時の写真達。

あくまで無料の企画だったし、書店勤務の友人がいなければできなかったことだけれど、それはとてもとても嬉しいことでした。
次は、写真好きの同級生仲間で、グループ展を…という話も、ちらほらしていたり、していたのですが。

私の初めての写真展開幕の日、同僚が、悲しい死を選ぶ、という出来事があり。
私は、自分の写真に日の目が当たった場面を、観ることはありませんでした。
足を運んでくれた友達もいたし、会場写真を送ってくれたりもしたけれど。私にとっては、とても辛い感情と結び付いてしまい、以後、撮れなくなってしまいました。

もちろん、作品の展示も、その後はしていません。

私の写真を好きだと言ってくれる友達はいて、撮りに行こうと連れ出してくれたりもしました。
写真家・蜷川実花さんが、「悲しい時は、悲しいなりの写真が撮れる。その時だけの感情を写すから、いつだって撮っていい」というようなことをおっしゃっていて。そうだな、と思い、カメラを向けるけれど、納得いく写真が撮れない。自己否定感が、思いきり、写真にのっかってしまったとでもいうのかな。

Instagramが流行ると、写真好きとしてはやらねばならぬ、と、アカウントも作ったし、ライブ遠征などすると、やはり、瞬間瞬間を残しておきたい、と感情が動くようにはなってきて、撮る枚数は、再び増えてきてはいるのだけれど、
どうしても、あの頃の写真が好き。あの頃のような写真が撮れない。

まだ完全に、振り切れていないということでしょうか。
この道の先に、また、自分の写真が好きだと、「みてみて!」と、堂々と言える日が来るのでしょうか。
結局は、自分を赦し、認める、という事と、重なってくるのかな。