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和倉温泉のルーツは「地震と隆起」にあり

和倉温泉が今後の復興を考える際に、少しでも歴史から学ぶことがあればと思い、投稿します。


【とある能登の俳句から考えること】
和倉温泉編

春潮の遠鳴る能登を母郷とす
 能村登四郎

和倉温泉街の弁天崎源泉公園の句碑に刻まれている。

名前に能登が入る能村氏は、東京生まれ。
祖父は金沢にルーツがある。
この句のように、
彼は石川県の「能登」を母郷としている。という。

"春潮の遠鳴る能登"

みな目を閉じて浮かぶ能登の海は、
確かにこの句の中に閉じ込められている。


"関係人口"とか、そんな生温いこと言ってないで、
"能登を母郷とする人口"を増そう。

どこ出身でもいい。どこに住んでいてもいい。
能登を母郷と思ってもらえれば、
自然と後のことは付いてくる。

では、能登人にとって、「ふるさと・母郷」とは何か。
そこにまちづくりのヒントがあると思っている。


和倉は和倉らしく。

美味しいご飯、べた凪の七尾湾、イルカ、
スポーツ、水族館、人、温泉。
その真ん中で能登を感じてもらい「母郷」だと思ってもらえるように。

春潮の遠鳴る能登を母郷とす人が、ひとりでも増えるように。

そんな句碑に刻まれたメッセージがひっそりと今も和倉温泉に建っている。


和倉温泉の伝記の紹介


地震と和倉温泉が繋がる伝記。

※七尾、田鶴浜、鵜浦、能登島は、
地震と海底の「隆起」の伝記が特に多く残っていて、
大昔から災害や飢饉と共にあった地域。

和倉温泉の起源は、里人の伝承によると、
大同年間、奥原丘陵の薬師嶽の西、円山の渓間「湯の谷」(廃業したホテルなおきの前)に、
湯が噴出したのが始まりだそう。

「魚太とお班」という伝記を紹介する。
(昭和3年刊行 石川縣鹿島郡誌より引用)


そもそも和倉温泉の始まりは、記録では
「永承3年(1048年)、地震で海中に転じる」とある。

まさに、和倉温泉は、
地震から始まった温泉だと言っても過言ではないだろう。

温泉が湧く浦だから、和倉。

(記録ではその時代、同地方に大きな地震はないようなので、
むしろ海中に湯が沸いたのを慶長年間に発見したのではないかとか、諸説は色々あるよう)

ただ、伝記を読んでいると、
「それは地震の記録だな」と思う揺れの話があったりする。

伝記として書き記した古人からのメッセージだと思うと、
それはそれでエビデンスなのではないかと思うのです。


永承年間(1046〜1053)に、
湯が転じたことに由来する伝説「魚太とお班」

※内容に差別的な表現が含まれます。
それも忌まわしき歴史として、伝えていくのも大事なことだと思いますので、そのまま表現します。


魚太とお班

永承年間に、湧浦(わくうら:和倉になる前の呼名)に、魚太とお班という夫婦がいた。魚太は漁師で働き者だったが、お班の方は多少ずぼらな性格だった。

 ある日、魚太が漁に出るのを見送った後、お班は薬師嶽(廃業したホテルなおきの前)麓の湯の谷へ洗濯に行った。ここには古くから次のような言い伝えがあり、守られてきた。

それは「あの谷では、女物の洗うな、もし洗うと七尾市の崎山地区の上湯川みたいに、湯が水に変わってしまうぞ」というものだった。

(---予備知識 上湯川の冷水 石川縣鹿島郡誌から引用---)
 七尾市の上湯川杉田橋の川中に冷泉が湧き出ています。もともとは温泉でしたが、
某家の妻女が、オムツを洗濯していたために、バチがあたって、冷泉となってしまったといいます。
※女の不浄を洗うとバチが当たる。という差別の歴史は能登にも多く存在します。
(--------)

 その言い伝えをお班も知っていたが、
お班は、単なる言い伝えに過ぎぬだろう、実際洗ったところでまさかそういうことはあるまいと考え、自分の腰巻を洗ってしまった。

 その途端、湯は水に変わるどころか、一滴も湧かなくなった。

 不浄のものを洗ったとしてそばに祀ってある少比古那命(すくなひこなのみこと)が怒ってしまったのだ。

 事情を知った村人は怒り、魚太夫婦をなぐりはじめた。途方に暮れた夫婦は、毎朝少比古那命が祀ってある祠に詣で、「元通りお湯をお恵み下さい」とお願いをした。

 その願いが通じたのか、今度は、磯近くの海の中から湯が湧き出してきた。

 だが村人たちは、一夜明けて、海の中からブクブク泡だっているのが、湧き湯だとは知らずに、
「あれはお化け亀が息をしとるんじゃ」「お化け亀のうわさはオラも聞いとる。人が海へおちるともう体は浮かばぬそうだ。」「甲羅の幅は百間近くもあるそうだ」「そりゃー大変じゃ、泡が見える間は、に漁にも出られないわな」
などと大騒ぎである。

 魚太もそのお化け亀の伝説は知っていたが、
「そんな馬鹿なことはあるまい」と考えた。
泡だっている海に、足の折れた白鷺が飛んで行き、しばらくの期間浮いて休んでいるのを見たからだ。

白鷺は、言い伝えにあるお化け亀に飲み込まれることもなく、
逆に足も湯治できたらしく、しばらくしてから飛び立って去っていった。

 確かめるため、魚太とお班夫婦は、二人して舟で泡が立つところまで漕いで行き、海へ手を入れてみた。

すると熱かった。

魚太夫婦は願いがかなってお湯が湧いたと知りました。
信心深くなり、それからは夫婦は毎日の少比古那命の御参りをしたそうだ。

 それから600年余り後、お湯が海水に混ざり、温度が下がるのを防ぐため、湯壷を海中に築いた。

 伝承によると、湯が湧き出ては工事が出来ないので、少比古那命の御神体を横にして休ませたところ湯が止まり、おかげで工事がはかどったといいます。
そして工事完了後、ご神体を元通りに立てたところ、再び湯が湧きだしたとか。


災害と観光と母郷。
和倉温泉はこれまでも、これからも

災害と観光と母郷。
和倉温泉はこれまでも、これからも。

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