氷
1-1
はじめ、氷の彫刻に触れたのだと思った。しかし、ただ娘の目を見ただけだった。冷たいほどに透き徹る真白な肌に、計は目を奪われていた。そうして、彼女が纏っている白い長袖のワンピースが、娘の脣の紅をあざやかに見せていた。
窓を隔てて、見つめた目だったが、硝子で別たれたとも思えないほどに、迫る目だった。星々が何度も流れていた。
「美しい娘だろう。」
川端が目を細めた。計は頷きもせずに、娘を見つめ続けた。娘はかすかに会釈をすると、そのまま二階に上がって行った。
「恵。きれいな名前だろう。」
川端はそう言うと、指に挟んだ煙草の煙を燻らせながら、ドアを開けた。銀座の一角にある画廊である。この画廊に、計は何度も通っているが、あのような娘はいただろうか。
画廊では、ちょうどウィーン幻想派の絵画展を行っていた。それらの絵画が目当てで、計は東京に来ていた。川端からの手紙である。計は、再来月の美術グラフ誌に、これらの絵画の特集ページの執筆を任されていた。絵を見る前に、絵のような娘に出会った格好になる。その計の心持ちを見抜くように、
「ちょうどあの娘を、茜が絵に描いていてね。」
「二階で描いているんですか?」
川端はかぶりを振って、遠くを見るような目だった。そうしてそのまま煙草を灰皿に押しつけると、何も言わずに画廊の中心に置かれた椅子に腰を下ろした。
「何度目です?」
「これで三度目だね。今更ウィーン幻想派もないもんだけれど、やはり美しいね。」
川端は視線を周囲に走らせた。計もそれに倣った。いくつも絵画が、中心にいる二人を見つめていた。エルンスト・フックス、アリク・ブラウワー、ヴォルフガング・フッター、ルドルフ・ハウズナー。不気味な地獄か、それとも天国か、奇怪なものたちが、幻想の世界に遊んでいる。彼らの描く絵には、奇怪で歪だが、なにやら一つに目には見えぬルールか統率めいたものが感じられて、見ているうちに、計は自分の中の狂気に触れるようだった。絵を媒介に、自分の中の新しいものを、取り出されて渡されるかのようだ。
「売れるんですか?」
「売り物じゃないよ。全部返すんだ。バブルの頃なら売り捌けただろうけれど。」
「売るならいかほどですか?」
「作者によるけど、数百万から数千万だろうね。億を出す人間はいないね。もう過去の遺物で、今でも好事家の遊びだろう。」
特に多く掛けられているのはエルンスト・フックスで、ウィーンのエルンスト・フックス美術館から借り受けたものだった。川端は、生前のエルンスト・フックスとも親交があって、その関わりからから、幻想派一派の絵画も多く取り扱っていた。美術品評者でもある川端は、自分の画廊で扱う絵画に、奇妙な色合いを持つものを好んで扱っている。だからだろうか、この画廊は一般的な美術愛好家とは違う、より深いものを好む好事家が主な客だった。計もその一人である。
計は美術に関する評論や随筆で食べている。そうして、彼は美しいものを書きたいと、常々思っている。評論や随筆のようなものが美しいものだとは、賛同を得られない考えかもしれないが、仮にそうだとしても、美しいものは、もうこの世界にごまんとあって、だとすれば、自分の作るものに価値はあるのだろうか、このような美術品の山に囲まれていると、その思いが改めて一層に濃くなる。そして、そのような思いを抱えながらエルンスト・フックスの絵画を見つめていると、その不気味な世界に取り込まれそうになって、目眩がちだった。
計は川端の隣に腰を下ろすと、壁から自分を見つめる異界を改めて睥睨した。そうすると、部屋の片隅に置かれた、球体関節人形が目に入ってくる。それらの人形は、今し方死んだばかりの人のようだ。
階上から音が聞こえて、次いで笑い声が重なった。計が思わず上を見上げると、川端もそれにつられた。天井を見つめていると、今度はステップを踏むように、音が落ちてくる。
「恵はバレエを習っているんだよ。」
「茜さんと一緒ですね。おいくつですか?」
「二十だね。外見上はね。」
「同い年ですか。」
「ほんとうは二つだけれどね。とてもそうは見えない。」
川端は首を下ろすとかぶりを振って、静かな目で計を見つめた。計はその目をそのまま見つめ返した。川端の目は、作り物めいて見えるが、それはどうやら、猛禽のような目が磨かれた硝子のようにきらきらと輝くからだろう。剥製のようでもある。しかし、その剥製めいた川端こそが人間で、さきほどの美しい少女が人形だと言うのならば、計には現と夢の狭間などあってないように思えた。
「人形を絵にする。妙なことですね。」
「そうして、描いているのも人形で、売り捌くのも人形、買いに来るのも人形ならば、もう人間と変わりがない。それならば、何も問題がないように思えるね。」
川端は疲れたように目頭を揉んだ。冷めて、覚めた目を計に向ける。そうしていると、階段を降りてくる足音が聞こえた。二人の娘が顔を出した。先程の真白の顔は、暖房に当てられたのか熱を帯びて、ほほが林檎のように赤く甘い。脣はそれよりも赤く薔薇の花びらで化粧をしている。美しい赤色だった。その娘の目が、計を射貫いた。そうするとその後ろから目がまた二つひょいと現れて、計を見つめた。それはなだらかな稜線を描いた目ぶたで、恵の切れ長の細い月の白さとは違う、やわらかい目ぶただった。二つが並ぶと、美しい娘盛りだった。
「お久しぶりですわ。」
やわらかい目ぶたが細くなった。その目からきらきらと零れる光が、計には犯罪めくほどの純潔に思えた。
「やぁ。もう二十になったんだね。」
やわらかい目ぶたの持ち主、川端茜がほほ笑んで、にこやかに髪を指で梳った。やわらかい黒髪が流れるよう揺れて、黒が匂った。これが人間の匂いかと、計には不思議な思いだった。
「懲りずに絵を描いていますわ。今は、恵ちゃんの絵を……。」
茜が恵に目配せすると、恵はその細い目を一層に細めて、新月のようにすると、かすかな笑みで計に挨拶をした。計は彼女の目を見つめたまま、椅子から動こうともせず、観察するかのように、身を乗り出した。
「あら、何ですの?」
恵が訝るように計を見ると、計ははっとして、ばつが悪そうにほほ笑んだ。そのほほ笑みで、恵も警戒を解いたようで、しかし、口元は緩まなかった。
恵の言葉を引き取るように、茜が口を開いて、
「いつ京都から?」
「昨日。浅草に泊まってね、浅草寺に行って、それから銀座に。昨日は一日隅田川を眺めていましたよ。」
「いつお戻りになるの?」
「明日には。川端先生から、ウィーン幻想派の展覧会の招待状をもらってね。それを目当てに来たんですよ。仕事に繋がって、ありがたいことです。」
「京都に戻りたいですわ。」
「戻ればいいでしょう。」
「京都のね、寺社仏閣や、自然の絵、そういうのを描きたくなる日が、ここのところ多いんですの。住んでいたころは、そんな風に思うことなんて、なかったんですけれど、東京が、ビルやマンションばかりだからかしら。妙に、懐かしく思う日が多くて……。それに、私の見た景色を、恵ちゃんにも見せてあげたいと思うことが、増えましたの。」
茜は、懐かしそうに目を細めた。両手を合わせながら話す様は、子供のようで、幼子の頃から世の悪徳と隔てた場所で育てられてきたことを、計に想像させた。そのような娘が、このコンクリートの中で生活してきて、何かしらの変化を帯びているかと思えたが、計が教師として彼女を教えていたころと、大差がない。そうして、茜が話をする間、恵はつまらなそうに、小さな画廊の壁に掛けられた、妙な世界の絵を見て回っていた。ちょうど、川端と計が座る中央のソファを地球に見立てたとしたら、月が回るように、時折ステップを踏むかのように軽やかな足取りで、くるくると画廊の中を巡る。その顔は、時折人形のようで、一つだけ置かれた球体関節人形の方がまだ人間めいて見えるほどに冷たい。それは先刻目で触れた氷の感触を計に思い起こさせた。
桃色が灯って、茜が計を見つめている。茜は、少女のようにきらめいていて、桜の花びらで化粧するかのようである。薔薇と桜とはどちらも女の色ではあるけれども、二人の娘の互いの心象風景そのもののようであるかにも思えて、計は感じを受けた。
「今はどんな絵を描いているの?」
「人物と動物。ほとんど恵ちゃんを描いているわ。恵ちゃんが、佇むだけの絵。そこに、色々な動物がいるのよ。」
「裸婦かい?」
「いいえ。服は着ているわ。お姫さまのイメージね。」
「君の方がお姫さまのようだよ。白雪姫や、シンデレラのような。」
そう言うと、恵が振り返って、計を見つめた。
「君はどちらかというと、そうだな、サロメかな。オスカー・ワイルドの。」
「知らないわ。」
恵はそっぽを向いてしまって、また絵を見つめ始めた。その横顔の線が、あまりにも儚く、細いのに、計は驚いた。腰回りは小さく、コルセットでも締めているかのようだ。片手の親指と人差し指で充分に挟めてしまう。
「後でご覧になるといいわ。置いてありますから。」
茜がそう言うと、計は頷いて、川端に視線をやった。川端は、暖房の効いた部屋にいるせいか、温かさに酔ったのか、うとうとと舟を漕いでいた。
「お疲れなんですの。執筆のお仕事に、展覧会の切り盛りもありますわ。」
「儲かってしょうがないかな。」
「そんなに高くで売れないんですのよ。」
「好事家は金に糸目はつけなさそうなものだけどね。」
そう言いながら、計は立ち上がると、一枚の絵の前に立ち止まる恵の横に立った。
「不思議な絵ね。」
「エーリッヒ・ブラウワーだね。」
「虹色みたいね。」
「そうだね。虹色の地獄かな。」
そう言って、恵を見つめると、その氷のような目の中に、虹色の虹彩がきらきらと輝いている。これが科学で作られた人形かと思うと、彼は人間の罪深いことにおどろいた。
「あなたは京都からいらしたの?」
「そう。もう帰るけれどね。」
「私も行ってみたいわ。」
「来ればいい。案内するよ。」
そう言うと、恵はかすかに口元を緩めて、その月のような目からくるくると長い黒い睫を瞬かせた。その黒が並ぶ様は、どこまでも続く回廊や螺旋めいて見える。その睫は冷たく濡れていて、部屋の照明を受けて星屑のように輝いていた。
「来ればいいよ。案内する。茜さんと一緒に来ればいい。家に泊めてあげよう。」
「まぁ、先生、そんなことおっしゃったら、本気にしますわ。」
恵はかすかにほほ笑んだ。計が振り向いて茜を見ると、茜もまた暖房で眠気が萌したのか、うつらうつらと、夢に入り込むように目ぶたを半分ほどおろしていた。
「年頃は変わらないね。」
「茜さんと?」
「ああ。君は外見の年齢は二十ほどだと、川端先生がおっしゃっていたよ。」
「製造は二年前よ。だから、ほんとうは二歳ね。」
「ずいぶんと洗練された二歳だ。」
「口説いてらっしゃるの?」
恵は挑発的に計を見つめて、そのまま階段へと向かった。この画廊の、一番の特徴である螺旋階段をゆっくりと上がりながら、時折、ついてこいと言わんばかりに、計へと視線を送った。計もそれにつられて二階へと上がると、そこには、恵を描いたキャンバスがあった。茜の言うように、裸婦ではない。赤いワンピースを纏った恵が、計を見つめている油絵だった。周りには、幾匹もの動物がいる。その動物たちは、猫や犬や狐、そして梟である。梟が、猛禽の目で恵を守護している。それは、川端の目にも似ているように思えて、茜の無意識がふと流れ出たように見える。それならば、この動物たちに茜もいるのであろうか。
「上手いもんだな。」
「才能があるのよ。」
恵は絵と向かい合って、絵に息を吹きかけた。そうすると、もうどちらがほんとうの恵かわからなくなる。鏡を見ているかのように思える。そうして、どちらもほんとうで、どちらも作り物であると思うと、また不可思議な感覚が計に昇ってくる。どちらも芸術の美しさだった。
「京都はどんなところですの?私、少ししか知りませんの。」
恵は絵を見つめたまま、計に尋ねた。
「古い都だよ。お寺や神社がそこかしこにあって、そうして町は碁盤の目になっていてね。きれいに統制された町だよ。」
「東京とはまるで違う?」
「違うよ。ここらはでかい建物ばかりでね。立派な建築が多いけれど、あんなにも果てしもなく大きなものが、ほんとうに必要なんだろうかと、ときどき思うよ。」
その言葉に、恵は頷いて、
「ときどき、伯父様と一緒に銀座の町を歩くんですの。ほんとうにきらきらと、美しい建物ばかりですけれど、たしかにおもちゃの街みたいね。たくさんのウィンドウが並んでいて、その中にきれいな世界がありますわ。ああいう、きれいに着飾ったマネキンがいくつも並んで遊んでいるのを見ると、自分を見るようで、笑ってしまいますわ。」
恵は計を見ることもなく、自分の中にある記憶の景色を見ているのだろうか、声が虚ろに移り変わっていく。計は、恵の言葉で、銀座の店に飾られた、ショーウィンドウの景色が心にいくつも浮かんできた。顔のないマネキンたちが、人間のように立ち並んで、それぞれにポーズを取っている。顔はなくとも、人間の動きを模していれば、それだけで動き出しそうな精密さだった。人を象ったものに、人間の心は奪われるのだろうか。そうして、それらの記憶がいじられた景色は、次第に幻想絵画の一つのようになって、彼の目の前の絵画に、折り重なるように降りてくる。計は、そのようなまぼろしを見つめながら、
「ほんとうに京都に来ればいい。案内するよ。」
「ありがとう。ねぇ、でも私、あなたの名前も知らないの。教えてくださらない?」
「そうだったね。昔なじみばかりで、君は茜さんと姉妹のように見えたからね。つい君も昔から知っているように思えてね。」
計の言葉に、恵はくすりとほほ笑んで、その白いほほにうすく紅が差した。
「私は川端恵。あなたは?」
「僕は計。佐山計。京都で三流雑誌に原稿を書いて日銭を稼いでいる。それから、いくつかの美術に関してのことにいろいろ手を出している。」
計が手を差し出すと、恵はほほ笑んで、しかし手を差し出すこともなく、ただ遠くを見つめて、その目は氷柱のように、冷たい美しさだった。
くるりと翻って、背を見せて階段を下りる中途、恵は計を見ることもなかった。人形の王女は、そのまま階下に姿を消した。かすかに、下からその小さくハスキーな声が聞こえてきて、甘い茜の声が連なると、音楽のようだった。
改めて絵を観ると、絵にはやはり魂がある。この絵の方が、ほんとうの恵よりも温かいようだった。そうして、奥に飾られている一枚の絵が、計の目に入ってきた。それは、藤原舞子の描いた『泉』と呼ばれる絵で、鏡に映る少女の耳に、猫の耳が生えているものだった。まるで、恵そのもののようで、計は目を細めた。そうしているうちに、ドアが開く音がした。計が階下に降りると、部屋では起きたばかりの川端が、目頭を揉んでいた。二人の娘の姿はなくて、ただ匂いだけが部屋に籠もっていた。
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