薔薇の踊子
1-15
帰りの車の中、疲れたのか、柚希はすやすやと夢の中だった。川端は終始無言で、恵もかすかに目を閉じると、眠ったふりをしてみせた。そうすると、川端が口を開いて、
「『ロミオとジュリエット』はどうですか?」
急に尋ねられて、恵は驚いて目を開けたが、しばらくの間黙って、
「順調ですわ。」
そうと、ルームミラーの中の川端に答える。川端は頷いて見せて、
「それならよかった。今ね、屋敷の中では毎日がプロコフィエフです。」
「振付を考えてくれてるんですわ。」
「古典だから、大変でしょうね。でもね、今日観た『アンナ・カレーニナ』も、昼間に話した龍の伝説も、『ロミオとジュリエット』みたいなものだね。その変形だね。」
川端はそう言うと、ちらりと恵を見た。恵は何も言わずに、燃えるような高速道からの空を見る。夕焼けが沈もうとしていて、火が満ちるようだった。
「報われない愛の話。古今東西、どこにでもある。だから普遍的な作品になる。立場の違いがね、まぁそういう悲劇を生むんでしょうね。」
恵は何も言わなかった。その、川端の一言一言が、加奈子の言葉のように、鋭く恵の心を裂いた。
「今日はありがとうございました。とても素敵な舞台でしたわ。」
恵がそう言うと、ルームミラーに映る川端は目配せをして、
「秋の学祭はいつだったかな?」
「九月ですわ。九月の十五日。」
「それならまだ暑いかもしれないね。まだ秋とは言えないね。」
「おじ様は、何をなさっているの?」
恵は、また妙な話を振られぬように、それとなく川端に言葉を投げた。
「僕は作家です。小説を書いています。まぁ文芸誌にいくつかね。それで食べています。」
「何て御本?」
「あなたが知らないような本です。子供が読むような本じゃない。」
「まぁ、子供じゃありませんわ。」
「恋をしているのならね。そうなんでしょう。」
川端はまた意味深に言って、ステアリングを流すように切る。
「ああ。そうだ。近々ね、公武からバレエの公演に誘われると思います。是非一緒に行ってやってください。」
「何の公演ですの?」
「マシュー・ボーンの『白鳥の湖』。スワン・レイクです。近々来日公演がある。五年ぶりだったかな。そのチケットをね、手に入れたから、君と行きたいんでしょう。」
「関西の公演なんですか?」
「東京だったかな。君にね、色々と見せてあげたいんでしょう。色々なバレエ。特に、振付が面白い作品群をね。君は、バレエを何年もしてきたから、僕よりもたくさんのダンサーの踊りを知っているでしょう?」
「そんなに……。親交のあるバレエ団の公演や、コンクールくらいですもの。」
「公武は、これも複製人間特有の面白さですが、ニジンスキーの記憶が、細胞の中にあるというか、遺伝子の中に組み込まれているというか、まぁ、覚えているんですよ。それは二十世紀初頭のロシアバレエです。パリ・オペラ座でのバレエ・リュスの公演です。」
ルームミラーの中の川端の目が嬉々としている。それに反して、恵の心は冷えていくようだった。
「だから、本当には観たことのない踊りの数々が……。要は、その目では観たことのない踊りですね。その踊りが、彼の盲目に焼き付いている。それは、昔彼が踊ったパートナーのタマーラ・カルサヴィナの『ぺトルーシュカ』のバレリーナ。美しく舞う、稀代の舞姫アンナ・パヴロヴァの『瀕死の白鳥』。それが、時折思い出されるようなんですよ。屋敷の一室で、ピアノの鍵盤を爪弾きながら、その音に合わせるように、彼の記憶の浮遊と沈殿が始まる。濾過されていない記憶が渦を巻いて、そうして、目の裏側に浮かぶんだそうです。」
いよいよ、川端の声音は芝居がかってきていたが、恵は、その川端の話を聞く度に、車内に流れているカーステレオの音は霞がかって、ピアノの鍵盤の音色が脳内に響く。公武の部屋で観た、百年もの遠い昔に撮られたセピアのダンサーたちが、オートマトンのように動き出して、次第に滑らかにその足を滑らせていく。公武の見ている光景を、恵も幻視するかのような心持ちになる。
「公武は、やはり彼の中にあるそういう記憶が成せるせいか、少しばかり、バレエ・リュスに執着があるようだ。彼はそこに自分の踊りがあるんじゃないかと思っている。」
バレエ・リュス。今、彼らの公演をその目で観たという人間は、どれほどいるのか。もういないかもしれない。一世紀前のバレエ団。ただ写真と資料だけの中のバレエ団。その中でも異彩の天才が、恵のパートナーなのだと考えると、恵は背筋が粟立つのを感じた。
「だからかもしれない。マリインスキーや、パリ・オペラ座のような伝統に生きる最高のダンサーたちよりも、かすかにはみ出したエイフマン・バレエや、ニュー・アドベンチャーズのような、一人のカリスマが統率するバレエ団に興味を抱くのは。」
ピアノの鍵盤の音色は遠くなっていって、代わりに柚希の寝息が聞こえた。耳朶にかすかにかかる、温かな娘の甘い匂いに、恵は目覚めるようだった。
「公武は、孤独な少年ですから……。仲良くしてやってください。」
「それはどういう……。」
「言葉通りの意味です。彼は高校でも一人だ。まぁ、僕の知る限りはね。」
沈黙が流れた。公武は、そういえば友人の話をあまりしなかった。幾人かの話はしたが、彼の友人を見たことはなかった。
「複製人間であるということは、まぁ、そういうことなんでしょうね。まだ頭の固い世代がたくさんいるんですよ。そうして、そういう連中っていのは、隠していてもどこかから噂を聞き付けて、焚き付けて、そうして、阻害するんです。」
車は高速道を降りると、そのまま山の手に向かって走っていく。山に灯る小さな火を縫いながら車は走っていって、遠くに、アステカの舟が見えた。そうして、まずは柚希の家に着き、彼女を下ろすと、すぐ近くの恵の家へと向かう。
「前に話していたことを覚えていますか?」
恵は、川端に向かって、呟くように脣を開いて尋ねた。
信号待ちで、赤信号を見つめながら、川端は小首を傾げる仕草をしてみせた。
「公武さんには、魂があるわ。私はあると思っていますわ。」
川端は何も言わずに、ただルームミラーに映る恵をちらりと見て、そうして信号が変わると、そのままアクセルを踏んだ。
家に着くと、加奈子が疑り深い目で恵の顔をちらりと睨んだ。しかし、恵は知らぬ振りを決め込んで、部屋に戻るとベッドに倒れ込んだ。すぐに車のエンジン音が聞こえて、そうして、恵は慌てて飛び起きると、加奈子を呼び止めた。
「今からえりちゃんのお迎え?」
「そうよ。」
「ねぇ、私も行く。」
恵はそのまま、車の後部座席に乗り込むと、すぎに窓の外に視線を向けた。加奈子は、娘の急な火の点きように驚いて、何も言わずに、ただ車を走らせた。窓外には、かすかにアステカの舟が見える。
レッスン場につくと、ラ・バヤデールのガムザッティのヴァリエーションが流れている。そうして、絵里奈と、深雪と、真帆の三人が舞を舞っている。それぞれ通しで踊っているが、グラン・パ・ド・シャの足が、絵里奈は他の二人よりも一段と高い。足が飛び抜けて長いわけではないのに、跳躍と、身体の線の美しさが、それをより際立たせているのだろうか。そうして、最後に、三回連続のグラン・パ・ド・シャ。絵里奈の跳躍は、一人だけどこまでも飛んでいきそうで、鳥の羽が生えたようだ。そうして、鳥と考えると、秋の公演の『白鳥の湖』にも同様に、グラン・パ・ド・シャが多く含まれている。それを見越してだろうか、踊りが終わったときに、国元の顔がかすかにほころんだ。
「絵里奈、よかったわ。深雪と真帆は、ジャンプの時に形が崩れてるわ。そのまま着地までしっかりと顔と足は引き上げて、バランスを崩さないようにね。」
絵里奈は、満足そうにほほ笑んでいる。そうして、母と妹の顔を見つけて、思わず歯を出して笑った。私が男なら、惚れちゃうかもなと、恵は思いながら、近づいてくる絵里奈に笑顔を送った。
「きれいなグラン・パ・ド・シャ。」
「ありがと。」
「ガムザッティのヴァリエーションを踊るの?ローザンヌ用?」
「うーん。まだ、国元先生と相談中。今月中には決めようと思ってる。でも、多分クラシックはガムザッティかな。コンテの振付はまだ全然よ。」
「めぐ、来たり来なかったり、お前は自由人だな。」
話に入り込むように、吉村が割って入った。恵は舌を出して、
「ごめんなさい、先生。今日は約束があったの。」
「絵里奈がどんどん先に行くな。お前も来年はローザンヌを受けるんだろう。」
吉村は、さも当然のように、そう発言して、
「コンテなら、国元先生に指導してもらえ。もう二ヶ月でビデオ審査の締切が来るんだからな。」
吉村はそれだけ言うと、タオルでうなじを拭きながら、そのままレッスン場から出ていってしまった。その後ろ姿を見つめながら、絵里奈が、恵に目配せをした。加奈子は、国元と話し込んでいて、絵里奈と恵のことが、視界から抜けていた。
レッスン場を出て、更衣室に入ると、恵が切り出した。
「本当に、えりちゃん良かったわ。あんなきれいなグラン・パ・ド・シャ。それも、回数を重ねるほどにきれいになるんだもん。」
「でも、覚えることが多いから、大変だわ。」
「でも、本当に目を惹いたもん。今日ね、びわ湖ホールでバレエを観てきたの。」
「びわ湖ホール?滋賀県まで行ってたの?」
絵里奈は驚いたように大口を開けて、
「そう。それでね、観てきたの。エイフマン・バレエ。『アンナ・カレーニナ』。そこでも群舞でね、グラン・パ・ド・シャがあって、みんなすごい飛ぶのよ。背が高いから大きく見えて。みんなえりちゃんよりも10㎝は高いわ。それなのに、今日のえりちゃん、あの時のグラン・パ・ド・シャよりも大きくて……。」
喋っていて、恵は感極まるようだった。絵里奈の実力は日に日に上がっている。そうして、今日刺激を外で受けて、また今この場でも受けた自分はどうなのだろうかと、不安が心を揺らす。
「褒めてくれてありがとう。すごく嬉しいわ。でも、いいなぁ。めぐちゃん。エイフマン・バレエなんて、チケット高かったでしょう。」
そういえば、今日渡されたチケットには、S席一万二千円と書かれていたのを思い出して、恵は笑った。
「そう。公武さんがね、熱を出していたの。それでね、行けなくなくなった代わりに、おじ様に、私と柚希の二人で連れて行ってもらったの。」
「公武さんの家に行ったのね。」
墓穴を掘って、恵は狼狽えたが、しかし、口を噤んだ。そうすると、絵里奈はため息だけをついて、
「お母さんにばれたら大変だわ。私は言わないし、秘密にするわ。でも……。」
恵は、急にやるせなくなって、心がまた壁を作ろうとした。今日、ここに来たのは、絵里奈の話を思い出して、国元にコンテンポラリーの振付の相談をしたかったからだった。唐突な思いつきだったけれども、しかし、絵里奈と話をしていて、言われた言葉が、恵の心の底で燻っていたからでもあった。絵里奈は、頑是無い子供に戻った恵の顔を見つめて、
「私は、めぐちゃんが行きたいなら構わないわ。公武さんの事だって知ってるしね。でも、嘘を突き通すなら、何か方法が必要だわ。ここで、公武さんと練習するのはどうかしら?」
絵里奈はそう言いながらレオタードを脱ぎ始めた。
「この教室でレッスン?」
「そう。だって、公武さんのお屋敷に行っていたら、絶対にばれちゃうわ。それなら、ここで練習すれば、ローザンヌのことだって、先生方に協力して頂けるし……。」
絵里奈はそう言いながら、タオルで身体を拭いていく。いつのまにか、絵里奈の女の印は、思った以上に膨らみを帯びていて、恵には驚きだった。
「じゃあ、先生方にはお話するってこと?」
「そう。内緒にしてもらってね。そうしたら、一日三時間は取れるわ。そうしたら、他の生徒たちにもすごい刺激になるわ。」
絵里奈は、あっけらかんとした表情でそう言うと、髪を括り始めた。恵は、頭の中で、その絵里奈の考えを、もう一度まとめてみると、確かにこれしかないと思える。恵はすぐに頷いて、絵里奈が着替え終わると、彼女の手を引いて、国元の下に向かった。国元はまだ加奈子と話していて、時折、モントレーだとか、審査員長だとかの単語が耳に入ってくる。絵里奈と恵は踵を返して、元来た道を戻ると、丁度吉村が自販機の前でコーヒーを飲んでいた。
吉村は、二人の話を聞いて、快諾してくれたが、内緒にするにはどうかと思うと、加奈子には伝えた方がいいのではないかと、そう言ったが、しかし、五月蝿い年頃娘二人のお願いに根負けした形で、国元には自分から話しておくと、そう言ってコーヒーを啜った。
「しかし、めぐもようやく本腰を入れる気になったか。去年の暮れ頃から今まで、どうなることかと思ってはいたが。」
吉村の声は実感が伴っていた。そういえば、以前恵がキャラクターダンサーに向いていると言っていたのは吉村だったことを思い出して、彼の顔を見た。吉村は、カップに視線を落としていて、どこか和やかな表情である。公武も、吉村も、恵自身の個性を尊重してくれていて、その個性から羽ばたく踊りに期待してくれているのだろうか。
「吉村先生、めぐちゃんの踊り、今は本当に見違えたわ。全部の動きがね、一回りずつ大きくなっていて。」
絵里奈がそう言ってくれて、恵は恥ずかしくもあったが、嬉しさが勝った。そうして、公武とここで踊るのならば、加奈子が迎えに来る時間や、見学に来る日をきちんと把握しなければならないと思い、早速吉村にそのことを伝えると、そのまま公武にはLINEを送った。
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