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美獣

1-2

自宅に帰ると、電灯の下に置かれた二羽の小鳥が、公武を迎えた。二羽の小鳥は、どちらも青いマメルリハである。牡と牝で、どちらもまだ公武よりも幼い。子供のような鳥たちだった。『彼』から公武への誕生日の贈り物だった。
 小さなマメルリハたちは、籠の中でひとかたまりになって眠っていた。すやすやと、音も立てずに眠るその姿は、平和そのもののようで、公武はおこさないように、そっとその場を離れた。
 公武の部屋には、他に何もない。ただ、二羽の小鳥と、自分の寝るためのベッドがあるだけである。公武は、稽古を終えるといつもここに来て、ただ一人で眠るのである。この部屋に、ときおり『彼』が訪れることがあるが、しかし、それはほんとうに『彼』の気まぐれのようで、公武には『彼』がいつ来るかなど、知る由もなかった。 
 ベッドには何冊かの本が置かれていて、眠るまでの僅かの時間、その本を読んで過ごす。すべて『彼』から渡される本である。小説家だが、自分の書いたものはおろか、小説の類は一冊も公武に渡さなかった。渡したのは、バレエの写真集だった。『牧神の午後』のニジンスキーのまとめられた、大判の真っ白な表紙の本だった。
 小さなライトの下で、その本を眺めていると、彼には不思議な思いだった。生まれた頃から日本語に親しんでいたからだろうか、一年たらずで言葉は覚えたけれども、難しい言葉は、彼にはわからなかった。この写真集にも、ところどころに、彼には理解出来ない言葉、まだ知らない言葉が書かれている。しかし、見ている内に、心に流れ込むようだった。彼の預かり知らないところで、科学が花咲いた結果だろうか。
 彼は小説を枕元に置くと、ベッドに横になって、天井を見上げた。天井のライトを見ているうちに、それが、舞台のライトと重なっていく錯覚が生まれた。そうして見ていると、自分が舞台の上で踊るさまが思い浮かんだ。演目は、『ぺトルーシュカ』である。それは、さっき恵に言われた言葉が、公武の心に刺さったからかもしれない。
 ぺトルーシュカは、古いロシアの童話で、魔術師に命を吹き込まれた人形が、祭りの広場で踊り出すところから物語がはじまる。ペトルーシュカは、物語のはじめから最後まで報われることもなく、最後には命を落として、亡霊になる。そのバレエを、公武はまだ踊ったことはないけれども、あらすじを読んだ時に、自分と重なるようだった。
 ぺトルーシュカは、物語の途中で恋に落ちる。その相手は同じように魔術師から命を吹き込まれたバレリーナだ。しかし、バレリーナはムーア人の人形に恋をする。ムーア人は、ぺトルーシュカよりも力も強く、粗野で、男の権化だ。バレリーナは彼に惹かれたままで、ぺトルーシュカのことなど見向きもしない。
 公武は、会ったこともないバレリーナを目ぶたに浮かべた。その姿は、一九一一年に公演された、バレエ・リュスによる『ぺトルーシュカ』の、タマーラ・カルサヴィナである。残された写真は幾枚しかないが、しかし、その姿を見ていると、彼は不思議と心が温かくなるのである。ぺトルーシュカと言われたからかもしれない。人形の心が流れ込んで来たからかもしれない。このカルサヴィナの複製人間も、いつしか市場に出回るのだろうか。そうして、好事家がいくらもの金を支払って、彼女を買い取るのだろうか。
 公武は、寝返りを打って、小鳥たちを見つめた。この小鳥たちは、複製ではなく、卵から生まれた。親から受け継いで、もとを辿れば宇宙の誕生にまで行き着くのだろう。そうして、この部屋で知り合って、愛を育んで、卵を産むのだろう。そうして見ると、青い宝石のような羽根の美しいのが、目に痛い程だった。
 自分の掌を見つめて、公武は、自分がどこから来たのかわからなくなる。この小鳥たちは、愛から生まれて、愛に還っていくのだろう。しかし、公武はぺトルーシュカである。 
 公武は、立ち上がると窓の外を見つめた。空には白い月が照っていて、その灯りが公武の身体に差すと、筋肉の線が浮かび上がった。月に当てられたのか、公武は服を脱ぐと、自分を慰めた。慰める相手は、『彼』であり、恵であり、カルサヴィナである。
 生まれてすぐにこの慰めの遊びを覚えて、夜な夜な耽ることが多かった。誰に教えられたわけでもない、自分の手が勝手に自身まで導かれて、その喜悦にたちまちに虜になった。
 しかし、その後に現れる巨大な骸のような虚無に、彼は、自分は悪か罪を犯したのだと、恐ろしい思いに囚われる。その思いから逃げるように眠るたびに、黒い夢を見る。その夢の中で、公武は一人で踊っている。灯りもないのに自分が見えるのは、公武自身が光っているからである。夢の中で、月明かりのように輝いて、あたりを照らしてステップを踏む。そうしてるうちに、窓辺に朝日が差して、『彼』が迎えに来る。

 タクシーの窓を隔てて、さまざまな言語が聞こえてくる。『彼』は目を細めて、外を見つめた。
「外国人が多くなったね。修学旅行生は昔からこうだったけれどね。」
「小京都のようなものでしょう。古びてて、不便だから、ちっとも楽しい場所じゃないわ。そのくせ人混みで、逆に息が詰まりそう。」
恵はそう言って、紅色のマニキュアが塗られた爪先を見つめた。見事な赤である。そして、恵のほほもまた赤く、脣も赤い。女の色が溢れている。
「鎌倉には文人が多いんだよ。文化的な側面が強いんだ。」
「だから先生もお住みになってるの?私は本なんて読みませんから、あんまり興味がわかないけれど。」
恵は爪先を見つめたまま答えた。タクシーは遅々として進まなかった。
 長谷のバレエ教室に向かっているのだった。その前に、公武を拾う必要がある。公武のアパートは、鎌倉駅の近くにあった。『彼』の屋敷は北鎌倉にあって、以前は恵をそこに囲っていた。独身者の『彼』だが、囲っていたといっても、人形のようなもので、恵は『彼』の家で飼われている小鳥や犬たちと同じ扱いだった。少なくとも、『彼』にはそう思えていた。しかし、近頃の恵はどうだろうか。今、マニキュアに息を吹きかける横は、子供の柔らかさではない。添え物の美しさが、ほんとうの美しさに変わってきて、動物たちとの隔てが生まれているようにも、『彼』には感じられた。
 『彼』の家の近くには、明月院があって、梅雨になると人でにぎわう。大勢の人々が青く花ひらいてつらなる紫陽花を見つめる。静かな場所がうるさくなる季節で、『彼』の嫌うその季節が、もう間もなくだった。
 長谷のバレエ教室は、光本ダンス教室という、生徒が三十名ほどの小規模な教室だった。その講師の光本が、公武の『牧神の午後』を見て、声をかけてきたのだった。
「光本先生、元気にしてるかしら。」
「君はここのところめっきり顔を出していないだろう?」
「あそこ、子供が多いでしょう。疲れるのよ。」
「君もまだ子供のようなものだけどね。」
『彼』にそう言われて、恵は脣を尖らせた。花のしべのように見えた。
 光本ダンス教室に入ると、聞き慣れた音楽が聞こえた。先に『彼』が入って、続いて恵、そして公武だった。公武は、はじめて入る場所に、好奇と恐れが半分だった。その様を見て、恵はため息をつくかのようだ。
「たいしたことないわ。つまらない場所よ。」
「恵さんは、ここにいらしたんですか?」
「先生に連れてきて頂いたの。三年前よ。私、才能があるみたいだって、もう少し早くはじめてたら、海外でだって活躍するバレリーナになれたって言われたわ。」
「今は通ってないんでしょう?」
「横浜にね、いくらもダンス教室はあるでしょう。二流所じゃやらないわ。」
 ロビーには音楽が流れている。イーゴス・ストラヴィンスキーの『火の鳥』である。公武は踊ったことはなかったが、観たことはあった。マリインスキーの来日公演のプログラムのひとつだった。火の鳥の命の美しさもさることながら、十三人の乙女の踊りに、公武は心奪われた。白地に金の刺繍を施したドレスと、照応をなした美しい白いトゥの光に、公武は目を留めたまま、息をするのも忘れていた。
 レッスン場では、ちょうど、十三人の乙女たちが、踊っている。年や背格好はバラバラで、一番小さい子は、十二、三だろうか。愛らしくほほえましい。その中に一人、黒い髪を束ねた、切れ長の目の少女がいた。一六七ほどの娘で、乙女たちの中に、一等際だって見える。目の切れているように見えるのは、火の鳥のようでもあった。少女は十三人の中の一人でしかないが、ステップを踏むと、誰よりも飛んでいるように思えた。目があって、公武は、その少女の白い肌色に、かすかに火がともるように思えた。ゆびさきの白いのが目立って、脣の赤いのがあざやかだった。
 中央に立つ、白いレオタードの男が公武をみとめて、近寄ってきた。背の高い、鼻筋の通った男で、年は四十くらいにみえた。
「ほんとうに、ニジンスキーにしか見えないな。」
「ニジンスキーだよ。ほとんどが。かすかに違うがね。」
そう言って、『彼』は男に手を差しだした。光本先生よと、恵が公武の耳もとにささやいた。公武は頷いたけれども、しかし、心はそこになかった。
「先生、今日はよくお越しに。道が混んでいたでしょう。」
「外国人ばかりでね。大仏くらいしかないでしょうに。」
「このあたりは文学館もありますよ。」
「外国人のほとんどは日本文学なんぞ興味ありませんよ。日本人だって読みやしないんだから。」
「そんなことないでしょう。先生の本も売れていますでしょう。」
「紙の本がさっぱりでね。電子はいくらか動くんですが……。印刷物はもう高尚な趣味ですよ。好事家のね。印刷会社もいくつもつぶれていくでしょうな。私は読みませんが、漫画なぞもう電子書籍と逆転したと、編集者が嘆いていましたからね。早い内に見切りをつけて、電子書籍の会社に移るべきだったとか泣き言を言ってね。……『火の鳥』ですね。」
「公演が迫っています。夏の公演です。稽古稽古です。おかげで火の車でね。」
「バレエも高尚な趣味ですな。」
十三人は波をうつように同じ動きを繰り返している。黒髪と白粉が部屋に匂った。
「先生も高い買い物をされましたね。」
「動物と骨董と、それから、自分の手でプリマを育てたい。まぁ舞姫を育てたいんですな。で、そこに複製人間です。ころころと興味の対象が変わるんですよ。」
「しかし、ほんとうに公武君はニジンスキーそのものじゃないですか。複製人間とは言い得て妙だな。これでまだ子供なんでしょう。」
「魂が子供なんです。器は大人です。」
公武は、じっと乙女たちを見つめたままだった。十三人の乙女たちの横顔が、『牧神の午後』のニンフたちと重なるようだった。そして、その中で、ひときわその一人の踊子だけが、公武の心に留まるのである。
「魂が子供でも、男の火が燃えているわ。」
公武の横顔を見つめながら、恵が言った。『彼』は首を傾げて公武を見つめたが、すぐに視線を光本に映した。
「公武を見たいと言っていたね。でも、それだけじゃないんだろう。」
そう言われて、光本はほほえんだ。
「察しがいいですね。そうですね、僕も出来たら、ミハイル・フォーキンや、アンナ・パブロヴァの複製人間が欲しいところです。でも、そうすると数億円はしますでしょう。おとぎばなしのようなものです。今はただでさえ経営が立ち退かなくてね。だから、公武君を貸して頂きたいんですよ。」
「ほう。」
「もちろんただでなんて馬鹿なことは言いません。うちの教室で、『火の鳥』と『薔薇の精』、それから『ぺトルーシュカ』をやりたいんです。」
「人形に人形を踊らせるの?」
『彼』は薄気味悪くほほえんで、口ひげをおやゆびでさすった。
「ひどい言いようですね。僕がムーア人をやります。もちろん、ぺトルーシュカは公武君です。それからバレリーナは、うちの三浦美月がやります。」
あの、あざやかな脣の少女が、三人を見つめると、ほほえんだ。その目差しに、恵の目に火が宿った。それを察したのか、光本は、
「恵ちゃんは、他の公演があるだろうし、美月はうちの看板なんですよ。」
山猫のような眦がきっと持ち上がった。美月は、乙女のままのほお色で、そのまま練習に戻った。恵の敵意に、気付いていないのだろう。
「いや、恵もそうたいした仕事なんてないんですよ。」
「海外にでも行くの?」
光本にそう言われて、恵は目を剥いた。少し歯がみしたような顔つきで、
「いずれね。ねぇ、光本さん、その三浦美月って子。あの子ははじめて見るわ。少し前まではいなかったでしょう。」
「越して来たんですよ。以前は東京にいたんです。」
光本に手招きされて、美月は息をつきながら、四人の前までやってきた。ほほが火のようで美しく温まっている。一礼をすると、公武を見つめて、
「この前、光本先生に連れられて、『牧神の午後』を拝見しましたわ。」
「ああ、ありがとうございます。」
「ほんとうに、ニジンスキーにそっくり……。」
そう言うと、美月はゆびさきで、公武の輪郭を宙になぞった。美しい白いゆびで、舞うようだった。
「もちろん、本物は見たことはありませんわ。写真だけですけど。」
「よく似ているって言われますが、僕もです。僕は、僕の母体になった人を知りません。」
「まだ子供だって……。」
美月は目端で『彼』を見つめた。『彼』はただ頷いた。
「二歳ですから。でも、生まれたときから普通に話せるんです。」
「それじゃあ、人間そのものですわね。」
「だからぺトルーシュカにはぴったりだろう。」
『彼』が横から口を挟んだ。公武は黙り込んだ。うつむいて、上目遣いで美月を見つめた。美月はまだかすかに調わない息で、公武を見てほほえんだ。
「美しい踊りですね。きれいでした。」
「まぁ。嬉しいですわ。でもまだまだ下手くそなんですのよ。」
「乙女の役もよかったけれど、火の鳥でもいいかもしれない。」
「貴族のご令嬢は難しいわ。私は自由に生きる女の役の方が好き。向いているのかもしれませんわ。『ぺトルーシュカ』は踊れますの?」
「あらすじを知っているだけです。写真で何度か見ただけで、実演は見たことがないんです。」
公武がそう言うと、光本は、
「夏までまだ時間があるからね。稽古には充分だよ。」
『彼』は静かにうなづいて、
「そうだね。幸い公武はどこまでも踊りに専念できるからね。いいね、公武。」
「はい。」
公武は、美月を見つめたままそう言った。美月は小首を傾げて、公武を見つめ返した。この場では、美月が人形で、公武は人間だった。『彼』が軽く手を叩くと、二人の人形は動き出した。
 公武は美月に一礼すると、光本に連れられて、教室の中を見て回った。
 その間、恵は美月を手招きすると、
「あなた、いくつ?」
「十六です。」
「子供ね。子供どうし、お似合いだわ。」
「私と公武さんのことですか?」
「子供どうし、人形同士ね。あの子、魂に男の火が燃えているわ。清らかな火よ。」
そう言われて、美月はほほを染めた。脣の赤が濃くなった。
「でも、あの子は人形だわ。『ぺトルーシュカ』で、バレリーナはぺトルーシュカに見向きもしないでしょう。」
「バレリーナはムーア人を……。」
「そういう娼婦のような人形よ。女の人形ね。その人形を演じるのに、あんたも汚れがないわね。」
そう言って、恵はゆびさきで美月の眦を撫でた。美月はおどろいて、身体を引くと、侮辱されたかのように、顔をゆがめて恵の前から立ち去った。
 恵はバーを掴むと、ゆっくりと足を伸ばして、自分の肉体を見つめた。美しいふたつの目が、自分を見つめている。美月も美しい娘だが、まだ幼い子供のようで、見ているうちに、昂ぶる感情があった。そうして、そのような美月が相手役のバレリーナになったのならば、公武はどれほど喜ぶでのあろうか。しかし、それは少年と少女の遊戯に過ぎないだろう。
 恵は、レッスン場の端にいる少女を手招きすると、その娘から化粧道具を借りて、ほほにチークを、脣に紅を乗せた。そして、バレリーナの衣装を持ってこさせると、たちまち『ぺトルーシュカ』のバレリーナに変身した。
 バーを掴み、右足を上げると、もう人形だった。表情のない顔は、おろしたての美しさだった。

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