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好きな小説、とその古書① 『春琴抄』

 好きな小説に関してつらつらと書いていこうかと思います。

谷崎潤一郎の『春琴抄』です。
書かれたのは昭和八年です。これは京都の高雄の神護寺に籠もって書かれた作品です。神護寺は紅葉がとても美しいお寺でして、高雄の山にありますので、階段などが結構きついのです…。そこに籠もって書かれたこの作品、谷崎のメイキングエッセイ『春琴抄後語』において、如何にして本当らしく書くのかに苦心したと語っておりました。
 舞台になった大阪の道修町(どしょうまち)に巡礼で訪れた時、そこはお薬の会社が多くて、往時を偲ばせる…ほどではありませんでしたが、静かで良い所でした。

 これは谷崎が47歳頃に書いた作品です。
このころは和に回帰した時期で、『蓼食う虫』→『盲目物語』→『蘆刈』→『春琴抄』と傑作を連発していた、まさしく天才が咲いた時期です。

 『春琴抄』の初版は漆塗りの黒表紙(俗に言う黒本)に金文字で『春琴抄』と書かれたそれは大層美しい本なんです。古書価格ではだいたい1万円〜2万円くらいします。これを上回る希少性があるのは赤本と呼ばれる赤表紙のもの。これは当初谷崎が想定していた表紙でしたが、赤色は漆の糊が悪いとかで、結局は黒で流通することになりました。赤本は黒本の10分の1程度しか存在しませんから、古書相場は10万円〜20万円くらいはします。
それは更に上回るレア本が赤本、黒本セットで桐箱に収められた豪華3部本です。これは450万だとか、800万だとか、それくらいでようやく手に入る化け物古書ですね。ああ、欲しいなぁ……。

 物語は語り手が手に入れた『鵙屋春琴伝』なる小冊子から紐解かれる、大阪船場の薬種商のお嬢さまとその家で奉公する丁稚の佐助との変態ラブストーリーです。

 春琴は9歳の頃より盲目ですが、類い希なる美貌を持っていて、琴、三味線の使い手です。佐助は春琴よりも若い丁稚ですが、彼女に恋い焦がれていまして、なんとか三味線を教えてもらい、お師匠さんと呼ぶわけです。併し、お師匠さんは気性が荒いものですから、佐助の演奏をバチバチに怒りながら指導して、時には暴力を振るって、佐助が泣くようなことになるんです…。でも佐助はお師匠が大好きで、春琴も満更ではないので、ここにSとMの関係性が成り立つわけですね。そうして、SとMとの日々が十年も続いて、二人は大人になるわけです。
 その間に、春琴がツンデレと見せかけつつ、二人は普通に身体の関係を持っていたりと、ちょっと異様な関係なんですね。ただ、まだ心は通っていない。

 春琴はとにかく誰彼にでも態度がでかいので、快く思わない人もいまして、ある日熱湯をかけられて、顔を大層傷つけられます。その傷を見られたくないという言葉を聞いて、佐助は自分の目に針を突き刺して盲目になります。盲目になって、お師匠様と抱き合い泣き合うんですが、その後、二人は永劫に仲睦まじく暮らすと見せかけて、なかなか佐助は春琴と結婚しないのです…。
 この話の怖ろしいところは、佐助は完全に変態であり、『佐助犯人説』が飛び出るほど、このSとMの関係を型にはめようとするんですね。究極のMはSだとよく言いますから、その志向がよく出ていると言えますね。谷崎もMを気取りながら、実生活では女性を型にはめようというか、自分の思い通りにならない妻にはすぐに嫌けが差していますから…。本性はSな訳ですね。

 『春琴抄』は文章の流れるような美しさ、とくに句読点を極力排した文体に目が奪われますが、初めはとても読みにくいんです。でも、ある時点からつらつらと美しい言葉が目を流れてくるようになるから不思議です。
特には白眉は佐助が目を針で突き刺すそのシーンのディテール、それからの春琴の顔を失いゆく視力で見る一連の流れですね。目に針を突き刺して、視力がぼうっと徐々に消えゆくシーンの書き方は、本当にそのようになるかと思える筆致力です。

 『春琴抄』は北野武監督の『Doll's』でも下敷きに使われていました。アイドルの追っかけが、硫酸をかけられて顔を怪我するんです。そのアイドルの顔を見ないように目を潰す追っかけ…。

 『春琴抄』は紛れもない傑作ですし、谷崎潤一郎の第3期を語る上では欠かせない本だと思います。まだ読まれていない方は、秋の夜長にどうぞ。

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