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薔薇の踊子

1-7

 二人は公武の部屋に戻った。彼はシャワーを浴びてくると言うと、恵を部屋に残したまま消えてしまった。恵は、また憤然として、女扱いするのか、それともしないのか、娘心が揺らされる。そうして、すぐにシャツに着替えた公武が出てくると、濡れた黒髪のせいで、一層に中性的に見える。
恵は変わらずに憮然とした表情で、抗議めいて、部屋の中に置かれた写真を見つめる。
「入ってきたらいい。」
「いいわ。下着ないもの。」
「僕のを貸そうか。」
「そういうのをセクハラって言うのよ。」
公武は呆気にとられたような顔をして、椅子に座ると、恵を見つめた。恵は、弓を引かれたような心地になって、
「何よ?」
「いや。君の踊り、君の身体は素敵だなって、思ってね。」
「だからさ、それがセクハラなんだって。」
「しなやかで、山猫みたいだ。それなのに、蝶々みたいに軽いだろう。そうして、君の目は青い流れ星みたいだろう。天の河を走る舟みたいだ。」
恵は思わず脣を尖らせて、娘心を隠した。
「ねぇ。どんな踊りになるの。私、ちゃんと踊れてた?」
「ああ。野生の恋を、踊るんだよ、僕たちは。」
「私のイメージは?」
「そうだね。きっと、もう少ししたら、繋がる気がするね。」
「衣装はどうするの?」
「明日塔と、宇賀神の制服を着たままでいいかもしれないね。」
恵の顔はぱっと花やいで、
「そういえば、言ってたものね、明日塔はキュピレット家で、宇賀神はモンタギュー家ね。」
「そうだね。そうして、ロミオとジュリエットは、どこにでもいるだろう。あらゆる世界にいるだろう。多分、今もどこかにいるだろう。だから、普遍的な話なんだ。だから、愛が踊れれば、それはロミオとジュリエットなんだろうね。」
そう言われて、恵は不可思議な気持ちだった。しかし、公武と踊っていると、何故か産まれた頃のように、自由なのが、彼の言う野生のことなのかと、彼女にはそう思える。
「大分汗をかいただろう。シャワーを浴びておいで。替えのシャツなら僕のを使えばいい。お風呂場にいくつか置いてあるから。」
そう言うと、公武は机に置いてある鞄から本を取り出して、椅子に座るとそれに視線を落とした。緑色のカバーで、前に彼が読んでいた『不謹慎な宝石』だと思った。
 恵は所在がなくなって、仕方なく浴室に向かうと、もうシャツとタオルが用意されているのだった。シャワーを浴びながら、
(これから、毎日ここで練習するのかしら?)
とふと思って、明日からは絶対に下着を忘れないようにと誓った。
 シャワーから上がり、部屋に戻ると、公武は本を開いたまま、目ぶたを閉じていた。睫が弓なりで、きれいに揃っている。かすかに濡れているようで、泣いているのかと思い、少年めいた顔が胸にせまった。
 顔を近づけると、寝息が漏れている。そうして、ささやくように、恵はその耳もとに、「ありがとう。」
小さく呟いた言葉が聞こえたわけではないだろうが、公武の口元からかすかに吐息が漏れた。恵は公武の隣に座って、足を泳がせた。そうして、またまじまじと彼の顔を見つめる。少女めいていると思えたが、やはり身体は男で、喉仏の隆起するのが、野生の姿だった。少女めいたロミオ。そう考えると、野生のジュリエットとは、少年めいているのだろうか。少年めいた少女。私のジュリエットは、少年めいた少女で、野生の愛を、覚えたばかりのじゃじゃ馬。シェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』?
 さきほどの踊りを思い返して、公武の横顔を見ながら、自分でも振付を考えてみる。そうして、色々な技を考えていると、ふいに、初めて公武に会った日に言われた、花びらみたいなピルエットという言葉が浮かんだ。そうして、ピルエットを回る自分が、次第次第に、グラン・フェッテを回る絵里奈に重なっていく。黒鳥のフェッテ。絵里奈の美しいフェッテを思い浮かべていると、気付くと恵は舟を漕いでいて、肩を揺り動かされて、目ぶたを開けると公武がいた。
「夢を見ていたみたいだね。」
「フェッテをね、何回も何回も。きっと、私のジュリエットはじゃじゃ馬だから、回転技が多い方がいいと思うの。」
公武は腕を組んで、
「そうだね。君のその山猫のようなところ、じゃじゃ馬のところを出す。そんな振付がいいかもしれない。フェッテは得意?」
「全然。えりちゃんとは比べものにもならないわ。」
恵が嘆息すると、
「絵里奈はフェッテが得意?」
「何だって得意よ。それに、今度は白鳥と黒鳥を踊るのよ。グラン・フェッテは本人も少し不安そうだけど……。」
「絵里奈の黒鳥か。」
「似合わないわよね。やっぱり、えりちゃんは白鳥だわ。」
「自分の方が黒鳥に似てると思う?」
不意に聞かれて、恵は少しばかり考えた。黒鳥に扮した自分。案外悪くないように思えて、
「そうね。私はどちらかというと、黒鳥よね。」
「いいや。君は白鳥も似合うよ。逆を言えば、絵里奈こそ黒鳥に近いのかもしれない。」
「逆なのに?」
「逆だからこそ。そういう中から立ち上がるんだよ。本当の資質みたいなものがね。恵は意外に、純潔な色だよ。」
名前の呼び捨てが、また娘心を転がして、恵は少しだけはにかんで、顔を背けた。
「そうだね。僕は踊りの言語化がとても苦手で……。でもそういうことかもしれないな。僕が恵のジュリエットに望んでいるのは、黒鳥のようなもので、その中にいる白鳥のようなものかもしれない。」
語りかけるようだが、目はどこかを見ている。公武は喋るときに、対象を透過して、その先にいる別の誰かに話しているように思える。
「サタネラのー」
公武が喋りかけたとき、外に車が停まる音が聞こえた。公武は話すのを止めて立ち上がると、
「送ろう。明日から、放課後に練習。いいかな?」
「いいわ。でも、毎日はだめ。私だってレッスンがあるんだもの。」
「OK。いつがレッスン?」
「火曜日、水曜日、金曜日、それから土曜日。」
「見に行ってもいいかい?」
「いいわ。それか、あなたも踊ればいいじゃない。」
「ありがとう。でも、人見知りするんだ。」
そう言って、公武は目を落とした。

 もう日は暮れていて、先程は白い光の廊下が、人口の白に塗り染められていた。そうして、その道を進み、玄関に戻る最中、
「ねぇ、私、昔ここに来たことがある気がするの。」
「さっきも言っていたね。」
「ここを、アステカの舟って言っていたわ。えりちゃんとね。御心坂から見えたの。毎日の通学路よ。」
「明日塔と似ているからじゃないか。近くて似ているから、知っている気がするんじゃないか。」
恵が靴を履いていると、玄関が開き、中背の白髪の男が顔を出した。髪は豊かな白髪だった。その隣に、妙齢の黒髪の女が控えていて、公武を一瞥すると、かすかにほほ笑んだ。
「友達か?」
白髪の男が尋ねると、公武ははいと答えた。男の年齢は六十前後だろうか、公武はかすかに緊張した面持ちで、男の顔を見ている。妙齢の女は何も言わずに、ただ恵に一礼をすると、そのまま靴を脱いで、廊下の奥へと消えていった。
「公武の保護者です。川端一臣と申します。」
川端は手を差しのべて、恵はその手を握り替えした。冷たい手で、顔を上げると、猛禽のような目をしている。公武の保護者というように、当然ではあるが、血の繋がりはないのだろう。彼とはまるで顔の作りが違って、細面の顔は、公武とは違う意味合いで、心が見えなかった。恵はただ一礼をして、
「遅いから送っていきます。」
そう言う公武の後を、逃げるようについていった。
 街灯が少ないからか、屋敷から家までの道のりは暗い。しかし、林を抜けて御心坂につき、そうして坂を下り終えると、月が雲間から顔を覗かせて、道一杯になった。
「きれいな月だね。」
先程まで一言も喋らなかった公武が口を開くと、恵は足につけられた鎖が外れたように、身体と心が軽くなった。
「ほんとうに。」
空を見上げると、星は少ないが、月は落ちてくるように大きい。その黄色い月光は、道を天の河のように照らした。
「天の河みたいね。」
振り向くと、御心坂にもかすかに月明かりが差していて、地面や草花が光っている。
「天の河。織り姫と彦星だね。」
「一年に一度会うのね。」
「会いたいのに会えないのは、ロミオとジュリエットみたいだろう。」
「そう言われればそうね。日本のロミオとジュリエットね。」
恵はそう言うと、挫けないように、気をつけて跳躍をした。かすかな跳躍だが、不思議な力があって、流星のようである。
「ねぇ。さっき、何か言ってたじゃない?サタネラのー。」
「ああ。君のジュリエット、サタネラに寄せてみたらどうかと思ったんだ。サタネラのヴァリエーションは踊ったことはあるの?」
「何回はね。でも、難しいでしょう。あれもフェッテがあるから。私、回転系は苦手だわ。」
「筋肉をつけたらそうでもないよ。軸がぶれないように、鍛えればね。」
公武と話をしているうちに、すぐに坂を下り終わって、また上がって、恵の家が見えてきた。車庫には車がないようで、加奈子は絵里奈を迎えに行っているようだ。
「ありがとう。送ってくれて。」
「どうしたしまして。」
公武は、軽くパッセをしてお辞儀をした。その姿がおかしくて、恵はくすりとほほ笑むと、軽く手を振って、そのまま外階段を上がって、家に入った。そうして、扉を閉めると、ゆっくりと振り向いて、覗き穴を覗き込む。公武が背を向けて、闇の中に吸い込まれていく。
(複製人間の男の子。)
そう、声に出さずに呟いて、恵はいつまでも、誰もいなくなった坂道を見つめていた。

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