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スフィンクス

1-2

 私が考え倦ねていると、階段を下りてくる足音が聞こえた。荒巻が、螺旋階段の上から私を見詰めている。その目は、まだ私を値踏みしているかのようだったが、先程の生気のない静かな目色から、かすかに、匂うように、まるで同族をかぎ分けたかのように、私に好奇を向けているのが分かる。
「その娘をお気に召しましたか。」
「美しい彫像ですね。色も、姿も。」
「スフィンクスはもともとギリシャ神話の怪物です。キメラみたいなものかな。けれども、スフィンクスというと、皆埃及の馬鹿でかい、あの犬のような建造物を思い浮かべます。あれはもともとギリシャの人間が、あの巨大な建造物を見たときに、まるで神話のスフィンクスのようだと、そう思って名付けたのが、今の名残だそうです。だから、あのスフィンクスがほんとうはなんていう名前をしていたのか、誰も知らないんですよ。きっと、何か別の名前があったんだろうが……。ほんとうのスフィンクスは、謎解きをかけるスフィンクスはギリシャ神話の怪物です。そして、エチオピアの森林に生息していたという。その美しい黒人の娘は、エチオピアの娘なんです。」
荒巻はそう言うと、置かれているアンティーク調の椅子に腰を下ろした。私がいくらか高そうだと、触るのも憚っていた革張りの椅子だった。
「その娘が気に入りですか?」
荒巻の問いに、私は頷いた。荒巻は静かにほほ笑んで見せて、何度か頷いて見せた。私の気持ちが手に取るようにわかるのだろうか。
「税別で八十万円。税込みなら八六万四千円になります。お安い買い物だと思います。この年代のもので、これほどまでに精巧に作られている物は、物によっては三桁を超えるかと思います。」
「私はサラリーマンです。会社から給料をもらって生活している身です。月の支払いも、精々が二万、三万がいいところです。ローンを組んでも、完済まで三年はかかる。」
「たかだか三年でしょう。たかだか三年で手に入るのならば安い物だと私は思う。」
「それは価値観の相違ですね。」
「あなたの、あなたの御名前は……。」
「佐村です。」
「佐村さん、骨董とはそういうものですよ。欲しいときに買わないと、永劫出会えない。女と同じでね。いい女っていうのは、たくさんの男に狙われていますから。」
「このスフィンクスも狙われていると。」
「なかなかにお高い女です。だから皆尻込みしているんでしょうな。」
佐村は目を細めてスフィンクスを見詰めた。閉じ込められたスフィンクスは、ますます息を荒く吐いているように思える。呼吸すら困難な場所に閉じ込められているように思える。
「まるで女衒ですね。骨董は女ですか。」
「それに近しい。扱いもまた繊細さがいりますから。」
私はもう一度スフィンクスを閉じ込めたガラスのケースに顔を近づけた。
 スフィンクスは私を見詰めたまま、部屋をかすかに照らす仄暗い洋灯のような室内灯に、その白い翼を赤々と塗られている。紅色に染まる翼はその明かりが揺れ動く度に蛇革のように有機的に動く。それを見つめているうちに、私の指はその翼を撫でているような錯覚に囚われる。指先の幻想が見せる快楽に、私はますます前のめりになっていく。
 私が横に視線をやると、ブロンズの彫刻が蠢いているのが見せる。それは、スフィンクスとは違った官能の長で、一つの肉体に三人の姿がある。一つは角を生やした屈強な男、そして、それから逃れようとする翼の生えた二人の女。
「牧神とニンフです。『半獣神の午後』はお読みに?」
私がかぶりを振ると、荒巻はますます目を細めて、まるで盲いな何かように顔を揺らして、足を組み替えた。恐ろしいほどに長い足で、悪魔を思わせた。
「この作品は、二人のニンフとの扇情的な時間を白昼夢で見る牧神の具象彫刻です。純潔の娘と、魔性の女の二人を同時に犯そうとする。」
私は視線をまたスフィンクスに戻した。その姿を見ているうちに、荒巻は、伝説の獣ばかり描くモローを模して、伝説の獣を模した骨董ばかりを集めるようになったのだろうかと思えた。そうして、それらの骨董は全て、荒巻が狩った獲物のようにも思える。
「この娘を欲しがる人はいくらでもいます。あの半獣神のようにね。男は美しい女を見ると夢想して、それから空想をどこまでも広げたのちに、狩りに立つでしょう。」
私は、自分の給料を思った。そうして、この彫像の対価として支払う金額が、これからの私の生活を如何に脅かすかと考えると、荒巻の目を見返せなかった。
 結局、私は誘惑を振り切ることは出来ずに、契約書にサインをした。月々三万足らずで、あの美しいスフィンクスを家に持ち帰ることになった。
 初めてあのスフィンクスを両手に抱き上げたとき、まるで赤子を抱いているかのような錯覚に襲われた。或いは、小さな犬か猫のような。生きている温かみを感じた。ただの彫像がこれほどまでに温かいだなんて!
 私はおずおずと、壊れ物でも抱くように(実際に壊れ物であるが)スフィンクスを抱きかかえたまま、荒巻の指し示した高級そうなソファに腰掛けて、契約書にサインをした。私がペンを動かす間、終始荒巻はにこりとほほ笑んだまま、私の手の中の黒くかわいいものを見詰めた。彼女もまた、荒巻を見詰め返していたのだろう。
 どこに行っていたのか、女が茶を持って来ると、おずおずと私に差し出した。女の白いスーツは、地上の陽の中では美しい絹のようだが、この闇の中ではスフィンクスの羽根に劣る。私は、女とスフィンクスの顔を見比べてみた。そうすればするほどに、スフィンクスの脣の真っ赤なのが目についた。深紅の血をそのまま化粧したかのようにあでやかな脣。かすかに覗く白い歯が尖っているのが見えて、嬉しい発見だった。
 しばらく見とれていると、ふいに夢から起こされたかのように、荒巻の目が私を射貫いている。その目はよく見ると色素が全て抜け落ちたようで、仄白いガラス細工にも見える。しかし、荒巻の目には、感情というものの一切がないようにも見える。それでいて、搦め手の言葉で私を扇動する様は、商売人の巧みさが透けて見える。
「骨董という物への愛情はね、長続きする人の方が珍しい。特に対象が一つだと。大抵は飽きますし、欲しい物が手に入れば、次の物が欲しくなる。まぁ人間の性というものです。あなたとはこれからも長いお付き合いが出来そうです。」
荒巻は私の心を見透かすかのように、商売人めいた口調でそう捲し立てた。
「つまり、それは僕が飽きるということでしょうかね。このスフィンクスに対して。」
「その可能性は多いにあるでしょうね。」
「あなた自身の経験?」
「僕も大概のものは一度愛でると飽きます。しばらく机に置いてみてね、色々な角度から眺めるんですね。そうしていると、何とも言えない恍惚があります。それは所有欲と征服欲が入り交じったかのような……。骨董を犯すとでもいうのでしょうかね。でも僕らは商売柄、毎日カタログや目録に目を通すでしょう。そうするとね、次から次に魅力的なものが現れるんです。毎日ね。そうしてそれらの全ては大抵は手が届かない額が記載されている。そうなるともう今愛している女を、失礼、骨董ですね、骨董品を手放す他ないでしょうね。そうして骨董を金に換えたら、新しい骨董を手に入れる。その繰り返しです。それが高じてこのような店を開いた。言うなれば、店は後からついてきた。僕はしがないコレクターの一人ですよ。あなたもミイラ取りがミイラになると言いますか、コレクターがコレクションに喰われることになるかもしれませんな。」
荒巻は、瞬き一つせずにそう言うと、大きく息をついた。私は改めて、店内を見回した。様々な美術品が荒巻を見詰めている。これらは全て、荒巻がかつて愛したものたちなのだろうか。それとも、荒巻が愛するものを手に入れるために、買われてきたものたちなのだろうか。そう考えると、このスフィンクスも、かつて荒巻に辱められてきたのかもしれない。いや、それよりも多くのならず者たちに、弄ばれ嬲られてきたのかもしれない。
 私がそのような空想を遊んでいると、
「佐村さん。今後その娘だけでなく、骨董で遊ぼうというのなら、直感でお決めになればいい。」
「それは……真贋について、ということですか。」
「真贋なんて誰にもわかりゃしません。いかなる目利きでも騙されます。偽物を本物だと宣うペテン師が山といます。だから、あなたがその骨董の価値をお決めになればいいんです。」
「つまり……このスフィンクスも偽物の可能性もあると?」
「それは紛れもない真品ですよ。と、僕が言って、鑑定書を見せようが、僕が騙して、偽造しているのかもしれませんから。まぁ、それは本物だと言っておきましょう。」
荒巻はそう言うと、喋るのをやめて、手を伸ばして私の膝に触れた。それから、その手は、私の膝の上ですやすやと眠っているスフィンクスへと映った。荒巻は、何かを惜しむようにスフィンクスの背を撫でて、その心地よさでだろうか、スフィンクスは眠たげな眼をしてみせる。
「お別れというものは哀しいものです。例外なくね。」
 店から出ると、北山通りはもう夕闇に包まれていて、街灯が黄色く光っている。人気はない。社用車に乗り、助手席にそれを置くと、会社に戻らずにそのまま自宅に帰った。その道すがら、さながら犯罪者の心地で私は帰路についた。何かの罪を犯したかのように、助手席に置かれた箱の中に鎮座しているであろう彫像が、私に大きなプレッシャーを与えていた。
 家に戻ると、妻はまだ仕事から戻っていないようで、私は小さくため息をはくと、自室の机の上にそれを置いた。部屋を隔てて、鳥の鳴き声が聞こえてきた。私の帰りで目を覚ました小鳥たちが囀っている。番の小鳥。妻の趣味である。小鳥の鳴き声から逃げるようにドアを閉めると、机の上に置いた箱に手をやった。かすかに開いたカーテンから月明かりが指している。それは、私の手をいっそうに青白く塗り染めていく。
 箱を空けると、月の光が眩しかったのだろうか、スフィンクスが目を覚まして私を見詰めた。愛らしいスフィンクス。黒い肌を塗り染める月明かりもものともしないその漆黒の肉体は、荒々しい獣の筋肉をしなやかな曲線に隠している。
 お前は猫だ。
 お前は豹だ。
 お前は獅子だ。
 お前は虎だ。
 お前はあらゆる猫をしなやかな筋肉を纏う獰猛な牝だ。
 お前は美しい狩人だ。
 私は私が狩人で、お前を獲物だと思っていたが、それは私の傲慢な思い違いだ。
 ドアは閉めておこうね。
 そうしなければたちまちお前は小鳥を狩ろうとするだろうから。
 今もかすかに聞こえる囀りに、お前の本能が揺り動かされているだろう?
 美しいスフィンクスの彫像を、私は見詰め続けた。スフィンクスもまた私を見詰めている。手を伸ばしてスフィンクスに触れる。驚いたのは、柔らかなスフィンクスのその羽根だった。あの骨董品で触れた時と違って、新しい住処に移ろったばかりだというのに、娘はもう順応を示している。私は喜びとともに、恐怖も感じた。この愛らしいスフィンクスは、半分が女で、半分が動物である。女の本性が、私に媚びを売るのだろうか。先程までの乙女はもうその顔を隠して、その肢体を存分に開いている。美しい殻持つ娘こそ、数多の男達に言い寄られて、そのせいで、擬態をするのであろうか。
 私は手を引き戻すと、月明かりの中のスフィンクスを見詰めた。スフィンクスも、変わらず小宇宙の眼を私に向けている。この小宇宙は、私や荒巻の他に、いかようなものを見詰めてきたのか。この小宇宙に魅せられた男がいかほどにいたものか。
 扉が開く音が聞こえて、私は身を竦ませた。しかし、それはどうやらまぼろしのようで、鳥籠を闊歩する小鳥たちの爪音のようである。私は一人ため息をつきながら、もう一度のこのスフィンクスを見詰めた。
 私は机の上に置かれたスフィンクスを見詰めているうちに、こちらにおいでと、まるで猫をあやすかのように手招きしてみるが、しかし、スフィンクスは反応を示さない。ただかわいい花のつぼみのような脣を半開きに咲かせているのみである。そして、小宇宙は私を素通りして、遠く別の銀河を見ているかにも思える。
 私は椅子にしな垂れかかると、この新しい同居人をさてどうしたものかと、改めて思案した。私の手元から大金を吐き出させたこの獣は、それなのに一向に私に好意を見せてくれない。しゃべり掛けようとしない。頬杖をついて顔を近づけると、たしかに息づかいはするのだ。しかし、その熱い吐息を放つ口からは何も飛び出てこない。囁きかけてこない。 
 何か謎かけの一つでも、私にしてくれないだろうか。ギリシャのスフィンクスは、オイディプスに謎かけをする。朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足の生き物。広く知られた謎かけで、答えは人間であるが、それに答えられなかった旅人たちは、皆スフィンクスの足下で、無残な骸を転がしている。同じような物語に、ギリシャ神話のオデュッセウスの、セイレーンがいる。美しい海の魔物は、その清らかな歌声で漁師や旅人を拐かして、喰い殺す。そうして殺された者たちの骸が山と積まれて、そこがセイレーンの新しい寝床になるのだ。セイレーンは、今は人魚で、昔は怪鳥であった。中世の頃から、画家たちが人魚であるセイレーンを描き始めた。
 半身半獣のキメラ。人間は、そのような生き物に恋い焦がれている。神話の中に、星座のごとくきらきらと瞬いている。神話を知らぬ人間たちも、彼らのことは知っている。この恐ろしいほどに黒く輝く半獣も、その美に取り憑かれた人間の産物であろうが、それが今私を困らせている。その魅力的な肢体で、私を迷わしている。
 小鳥の鳴き声が聞こえる度に、スフィンクスの目が妖しく光る。本能が動くのだろうか、腹で減ったのか。それならば、私に謎かけをしてごらん。そうすれば、私はお前の謎解きを懸命に考えて、そうして間違いを犯し、お前の腹に収まるだろう。しかし、スフィンクスは何も問いかけない。
 手を伸ばしてその頬に触れると、黒い肌にかすかに赤が差した。男に触れられるのは慣れているはずなのに、生娘めいたその変わり身に、私は驚いた。娼婦のようだねと、スフィンクスの耳もとに囁くと、またスフィンクスの耳は赤くなるようだった。次から次に、色を変えていくのが面白くて、私は時折は身体を撫でてやり、時折は囁いてやった。そうしているうちに、私はこの彫像に命がないことに、小さな怒りが沸き立ち始めた。この彫像は、どのような寵愛を施しても、決して私に触れる事はないのだ。小宇宙は、私を見詰めてはいても、決して私を意識することはないのだ。不適な目が私を捉える。不適な口が私を唆す。私は彼女の口元に耳を近づける。何かを囁いているようにも聞こえる。どこか遠い洞窟の音だ。ごうごうと夜の風のように唸っている。その言葉を解読しようと試みていると、言葉は急に笑い声に変わる。小さな赤ん坊のような笑い声に、かん高い女の声が重なる。私は耳を遠ざける。
 荒巻は、どのようにこの娘を遊んでいたのだろうか。愛でると彼は言っていたが、それは、この娘と一晩を共にしたのであろうか。そういう空想が私に浮かんできて、それを振り払った。私は、この美しい獣を、私だけのものにしたい欲求に駆られる。この、私の思いのままに動こうとしてはくれない美しき娘を自分の思いのままにしたい欲求に駆られる。
 月明かりが、ますます彼女の翼を透明に変えていくと、次第にここが幽界に思われてくる。なんのことはない、ただの私の書斎だ。古びた書物が乱雑に積み重ねられた、私の書斎だ。しかし、これらの書物は全て彼女には初めて見るものかもしれない。彼女にとって真新しいこの場所は、私にとってもまた、真新しい場所へと刷新されていく。それは全て、この愛らしい愛しい彫像がそうさせるのである。
 私は荒巻を思った。あの骨董に取り憑かれておきながら、自らがそれを売り捌く証人に成り果てたあの男は、未来の私であろうか。このスフィンクスを手放して、また新しく私の前に現れたプリンセスを迎えるための金に換える。荒巻は、それを何度も何度も行ってきた男だ。何度も何度も、新しい刺激のために宝物を手放してきた男だ。自分があのように変わるとは、今の私には到底思えないが、しかし、荒巻のあの目は、私を見詰めるあの目は、その目の中に浮かぶ私は、荒巻の同族に他ならないのであろう。ひょっとすると、私の目は水鏡のように透き徹って、荒巻自身を移しながらも、そこに荒巻は私の顔を重ねていたのかもしれない。私の目の中に浮かぶ私の顔。
 スフィンクスに目をやると、もう眠たそうに時折欠伸をしている。スフィンクスも凍えるのだろうか。スフィンクスも風邪を引くのだろうか。彼女に問いかけてみても、なんら反応もない。私はため息をついて、椅子から立ち上がると、カーテンを開いた。すると、部屋の中一ぱいに月が満ちた。月の青白さが、彼女の黒い肌すら白く輝かせた。しかし、白が輝けば輝くほど、黒色がより生きてくる。豊かな黒が、彼女の内側からたち上ってくる。
 脣はどうだろう。真っ赤に染め抜かれた脣が潤っていく。それは月の化粧を浴びたからかもしれないが、まるで花のようにあでやかだ。私は思わず指先を伸ばして、その脣に触れた。そうして指の腹についた真っ赤な紅を、舌先で舐めた。血の味がする。それは彼女に鉄が含まれているからであろうが、それならば人間も同じことだろう。私はしゃがみ込んで、彼女に顔を向けた。彼女はまだ何も言わない。やはり、私を飛び越えて、はるか遠くへと意識を向けているようだ。そう考えると、忽ち何か怒りのように、心臓に鉛が燃えたぎるのを感じた。私は彼女の頤を指先に捉えて、挑むように睨んだ。観念するかと思えたが、しかし、彼女はまたそっぽを向くように私を見てくれない。私に謎かけをしてくれない。
 私は震えるような思いで、彼女に自らの息を吹きかける。そうして、彼女が油断したところに、恐る恐る脣を近づけて、口づけをした。甘い匂いが漂って、それは彼女の口腔から流れ出る何かの成分の匂いだろうか、女の香りそのものである。花の腐った匂いである。脣を放して彼女を見詰めると、しかし、やはり私を見ていない。どこまでも新しい人を視ているように、遠くを見詰めるその視線の中に私はいない。
 失望すら覚えた。手に入れたのに、この美しいエチオピア由来の娘は、その黒い肌に触れさせて、赤い花に脣を触れさせても、どこまでも私を見ていない。先程、肌に触れたときに見せた恥じらいは私の視たまぼろしであったというのか。しなる弓のようなその肢体を赤らめたのは、私の欲望の顕現だとでもいうのか。
 私は椅子に座り、少しばかり思案した。雲一つないのか、部屋の中は変わることのない月に満ちていた。夜が深まってきて、いつしか鳥の鳴き声も消えた。小鳥たちはもう眠りについている。
 妻は、愛らしい小鳥を愛でて、夫は本を愛でる。それから、骨董の類も。しかし、美しい彫刻や彫像は、人心を惑わす。人間に模した人形ならば、それは一層のことだろう。
 私は反応のないスフィンクスへのやり場のない怒りが自分の中でどこまでも膨張していくのを自覚しながらも、それをコントロールする術がないことにいらだった。いっそのこと、この何も言わない恩知らずを、粉々に粉砕してやろうかとも思えた。壊してやろうかと、スフィンクスの耳もとに囁く。彼女は動じることもなく、目は動くこともない。彫像の心臓には、死の恐怖がない。早鐘を打つこともない。私は指先をスフィンクスの左胸に当てた。幽かな鼓動が指の頭を打つ。しかし、それは何の歪みも淀みもなく振り子のように時を告げる砂時計のごとくに、一定の間隔を私に伝える。もう一度、私はこのスフィンクスの耳もとに囁く。
 粉々に砕いてやろうか。
スフィンクスは何も言うことはない。私は腕組みをして、彼女に向き直る。そうして、目を見つめる。悪魔と退治しているようだ。ゆらゆらと月光の火の中に佇むスフィンクスは誠に氷めいていて、その冷たい感触は私を試すメフィストフェレスだ。実物の女の方が、如何に感情めいているだろうか。厭らしい欲望を振りまいて、私を袖にしてきた女たちを思い起こす。彼女らは全て肉体を伴い花の匂いで私を誘う。そうして、今目の前にいるスフィンクスも彼女らと何ら変わることがない。ただただ私を誘う。違うのは彼女らに触れたのならば、彼女らは生温い臭い息を吐くが、この娘はどうだろう。冷たく幽かに匂う手鉄の花の匂いだ。
 私は、もう一度スフィンクスを見る。スフィンクスはまだきらきらと目を輝かせたまま、遠い空を見つめる。私は、この目に射貫かれたのだ。この目が、お前自身の目がお前をこの部屋に連れてきたのだ。私が騙されただけか、エチオピアの娘よ。私はまた荒巻を思い出した。荒巻は、私がミイラ取りになると、半ば予言めいて話していたが、やはり私は荒巻の過去で、荒巻は私の未来だろうか。
 絵画も、彫刻も、芸術の全ては手に入れるまでは面白い。手に入れて、愛でる側になったとて、芸術が私を愛してくれることはない。一方通行で、延々と壁に話し続ける。私はスフィンクスのほほに触れた。幽かに冷たく幽かに熱い。熱を帯びたスフィンクスは、まだ私が無償の愛を永遠に自分に注ぐと信じている。
 スフィンクス。かわいい娘よ。男を拐かす甘い肉よ。私はゆっくりとその肌に触れた。すると、スフィンクスはぱっと羽を震わせた。ぶるぶると震える白い羽がぱっと開くと、それは美しく白い蘭の花である。黒い肌に咲いた蘭を、恐る恐る指先で遊ぶと、スフィンクスは幽く息を吐いた。そうして、きらきらと光る黒い眼が私を捉えて、その脣もぱっと開いた。
 全て、私の幻想である。私は月明かりの下で、ずっとずっと、お前を見ている。金を出して買ったお前が、私の夢想のように動き出すのを、じっと待っている。満たされぬほどに美しい夢が、私とお前を繋いでいるのだ。


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