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文章の神様

私は長編小説が書けない。

いや、書こうと思えば書けるのだが、それは粗末な出来で、単なる長文である。小説ではない、と多くの人が言うだろう。

私は詩も書けない。それは、散文詩もそうだし、韻文もそうだし、詩的な言葉を紡ぐことができないのだ。そのような言語感覚に乏しいのだろう。

私は、俳句を詠むのが苦手だ。わずか十七音に、様々な意味を、情景を乗せて人に届けることができない。俳句は、巧拙がはっきりと出るから、きっと私は怖いのである。誤魔化し屋なのだ。

私は、短歌を詠むことも出来ない。自分の気持ばかり先行して、平凡な文字の羅列にとどまる。ここでも、リズム感は欠落している。

私は、批評を書くことも拙い。勉強が不足しているし、人と異なる視点などないから。

私は、戯曲も、脚本も書くことは出来ないし、わずか数枚の掌編ですら、誤字が目立つし、新味もない。

つまるところ、私は文章の神様に愛されていないわけで、これからも愛されることはないだろう。

けれども、どうやら、書くことだけは許されているようだ。

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