見出し画像

朱の棗

1-3

 谷崎が和尚と話をしている間、百子は一人枯山水の庭を見ていた。海に見立てたこの庭は、石が小さな細波と荒波とを見事に表していた。初めてこの庭を見たときに感じた感動は、今もここを訪れる度に百子の心によみがえってくる。本家が大徳寺の檀家だったから、今までにもこの庭に入ったことはあったが、歳を重ねるにつれて、よりこの美しさを愛でる気持ちが強くなるのは、日本人としての本能かなにかのように思えた。
 陽が暮れかけて、空が橙色の皮膜を張った。光線が庭に差して、沙羅双樹の白がきらめくようだった。遠く谷崎と和尚の声が聞こえるが、風に埋もれていつしか消えていく。百子は本堂に腰を下ろして、その光景に見入られていた。あの白い砂の海のなかへ飲まれて、落ちるように流れ、そのまま鉄治と赤ん坊の元へと行ければと、ここを訪れる度にいつも思うのだった。
 陽が御堂に差して、百子の手の甲を撫でると、白い肌は一等輝いた。谷崎は、その百子の横顔の白さに息を呑んだ。命を奪った者の、脣の色だった。仄白い頬が紅を潮し、美しく色づいている。薔薇の花びらのようだった。
 この光景を初めて見たのは、百子と初めて出逢った折である。あの時から、谷崎は百子に恋い焦がれるのと同時、死んだ鉄治の才に打ちのめされていた。鉄治は芸術で女を現そうとした。それはあの棗で成された。谷崎は、自分の芸術が人から認められれば認められるほど、自身の空虚さに打ちのめされる。あの黒漆の棗は、所詮は鉄治の亜流である。それを谷崎自身が誰よりも自覚していた。
「何を見ている。」
「枯山水を…。」
「静かだね。美しい。」
「本当に。今日はもうよろしくて?」
「和尚の話相手をしているとね。日が暮れそうだよ。」
谷崎はそう言って笑うと、百子に背を向けて、外に出るように促した。百子は視線をそっと枯山水に移して、立ち上がると、谷崎の後に着いていった。
 大徳寺から出ると、日が陰り始めた。雨が来そうだった。土塀から伸びた桃の花も、微かに濁って見えた。中にいるのと外の景色とは、全然違うものだと感じられた。
「桃の花が咲いていますわね。」
「桜もすぐだね。都をどりももうすぐだ。」
「ええ。でも今年はもういいわ。毎年見ていますけど、もう飽きましたわ。初めは花やかなものだと思ったけれど……。」
谷崎は頷いて見せたが、百子の心がこの場所にないことを、理解していた。百子の心が自身から離れていきつつあることを、心なしか感じていた。
 最近、百子は新しい男の元に通っている。それは、誰かから教えられたことではなく、男の勘であったが、しかし本当であろう。近頃、百子は嵯峨のほうへ足繁く通っていた。誰と会っているのか聞くこともできない自分は滑稽なものだと、谷崎は自嘲した。
「タクシーを拾おうか。」
そう言って手を上げるが、タクシーはなかなか捕まらなかった。十台ほど過ぎて、ようやくだった。
「タクシーを拾うのもやっとだね。今はもう観光客でいっぱいだ。」
「桜の季節はもっとすごいですわ。」
「北には金閣寺があるだろう。あれがすごいね。みんなあれ目当てで来るもんだ。『金閣寺』は読んだの?」
「読みましたわ。学生の頃ですけど。」
「今も学生のようなもんだろう。それから東山だね。清水寺はとんでもないね。」
「桜の時期は、どこもホテルなんか取れないって聞きましたわ。」
「うん。だから今民泊なんかも流行っているだろう。外国人の泊まる場所がないからね。平安神宮だって桜が有名だろう。もう一月もすれば、すごい人混みだろうな。あそこも枝垂れ桜が有名だね。あれが出てくる小説は……。」
「『細雪』でしょう。」
「ああ、そうだ。それだよ。『細雪』。僕はあの小説が好きでね。」
「文章がきれいですわ。」
「うん。そう。出てくる女性たちも美しくてね…。」
そう話しているうちに、タクシーは糺の森の裏手にある谷崎の屋敷についた。
「今日は奥様は…。」
「ばあさんは熱海だ。今日は君が本妻だ。」
そう言って谷崎は笑った。照れ隠しか、どこか顔が紅潮していた。
 百子は、離れにつくと、谷崎の着物の着替えを手伝って、自分も着物を着崩すと、紺色の羽織を一枚纏った。離れには、外を通る車の音しか聞こえなかった。何人かいるお手伝いさんの声が、時折谺した。
 谷崎の離れは書斎だった。いくつもの書籍が並べられている。文学好きが高じて、このような書斎を作ったのだと言う。古書蒐集は、病的な領域だった。
「『細雪』といえば、これは私家版でね。二百冊刷ったものの、一冊だ。」
谷崎はパラフィンに包まれた本を丁寧に取り出すと、それを百子に見せた。百子はその本を手に取り、ぱらぱらとページを捲った。
『細雪』の私家版は、太平洋戦争の最中、発禁の処分に処された作品を、谷崎潤一郎が大本営に隠し、私家版として粗雑な紙で印刷したものだった。二百冊しかないうちの、貴重な一冊だった。谷崎は嬉しそうに、自らのコレクションを百子に振る舞った。その光景を見ている内、この老人にとって、女すらそのコレクションの対象なのかしらという、そういう疑問が浮かび、思わず百子は頬緩した。そのほほえみを見た谷崎が、より饒舌になる様に、百子はよりおかしみを感じた。自分は囲われていて、人形のようなものだと、百子は改めて思った。蒐集癖を持つ男の、新しい蒐集の対象。そう思えば、自らの身分が保障された気がした。百子の心ではなく、百子の肉体の美に、谷崎が焦がれているだけだろうと思えた。
「先生、お客様に。」
襖の奥から声がして、谷崎が頷くと、襖が開いた。そこに、若い男が座していた。男は茶器を持っていた。谷崎は立ち上がり、男から茶器を受け取ると、
「弟子の小谷野だ。」
小谷野は頭を下げた。百子は、何度もここに通っているが、この男と会うのは初めてだった。作務衣の胸元から見える褐色の肌は、毒の花に見えた。百子は、その毒の花にあてられたのか、ただ頭を下げて、小谷野の顔をちらと一瞥しただけだった。
 小谷野の瞳は、硝子玉のようだった。百子はその硝子玉の中に映る自分の顔が、幽霊めいてみえるのに怯えるようだった。
「失礼します。」
そう言って、小谷野は襖を閉じて屋敷の中に溶けていった。百子は小谷野の匂いを嗅いだ。久しく嗅いだことのない、懐かしい男の匂いだった。
「小谷野も木工をやるんだ。あいつは陶磁器もやる。器なら何でもやる。」
「随分お若く見えますわ。」
「まだ二十だ。子供だよ。」
小谷野の眼差しは、谷崎とは違い、どこか刺すような緊張があった。師をいつか超えてやろうと、そう目論む男の瞳だった。それでいて、何処かすぐに砕けそうな脆さも見えた。
全て、百子が勝手に感じた思いだったが、小谷野の気配が消えてからもなお、その部屋には彼の匂いが漂っていた。

       ○

 和歌子が小谷野を目にしたのは、夏の夜のことだった。大文字の送り火を見た帰り、和歌子は百子と小谷野が二人して北山橋を歩く姿を見たのだった。
 動悸がしていた。百子が谷崎と歩く様を初めて目にしたとき、和歌子は言いようのない喪失感に襲われたものだが、百子よりも年下の男と、二人で並んで歩く姿は、ひたすらに和歌子の感情を乱した。谷崎のように老いた男と繋がることよりも遙かに喜ばしいものかと思えたが、それが恋だとすれば、和歌子にはなおショックだった。
 和歌子は鉄治も、姪も愛していた。血の繋がらない姉とはいえ、母となり愛するものと家庭を築く姿からは、神聖な美しさを見ていた。それは、義理の姉妹であることに対する、二人の細い糸ゆえの愛情の乏しさを、千絵が埋めてくれた形だった。どこかで父の愛を争う二人にとって、鎹となる姪への愛は、百子の目を眩ませて、抄造への愛を霧散させた。
 和歌子は、父の愛を欲していた。百子もそうだったと和歌子には思える。その愛は、和歌子にとって次第に憧憬の眼差しへと変じるものだった。百子は家族を得て、ますます美しくなった。百子を美しくさせる鉄治と千絵もまた美しかった。
 それが砕けて何もかも喪失した百子は、なお美しかった。死によって、女の美が極限まで磨かれたようだった。
 谷崎が現れた。谷崎は百子の輝きを、少しも奪いはしなかった。谷崎の愛は少年の恋のようだった。百子の心が谷崎にないのは、和歌子から見ても理解できたが、あの青年はどうだろうか。和歌子は、青年の顔を思い出すと、心臓の動悸が一層に高まるのを感じた。百子が恋に落ちて、鉄治と千絵が遠い人になれば、姉の美が喪失されるのではないかと、そう恐れた。
 嫌な予感は的中するものだと、そう和歌子は考えていたが、しかし、自らが斯様な思いで姉を見ていることを百子が知れば、どう思うだろうか。和歌子は、幼い頃から姉に憧れていたが、それ以上に忌諱していた。
あの送り火の夜に、百子は少女のように頬を赤らめて、紫の簪を月明かりに光らせて、ほほえみを浮かべていた。そのほほえみは、物欲しそうな少女の笑みだと、和歌子には思えた。あの青年は、寡黙な顔立ちをしていたが、それがまた鉄治を彷彿とさせた。和歌子の動悸は次第に速度を増して、いつしか心臓が血脈に貫かれそうだった。
 青年と鉄治の顔が重なり、次第にその顔に靄がかかっていく幻想が頭に浮かんだ。二人が一人になる幻想だった。和歌子は振り向いて、北山橋の方を見た。人の連なりの奥に、遠く山が橙色の火を浮かべていて、夢の景色だった。また踵を返して、そのまま家に戻る道すがら、百子のほほえみを浮かべた妖艶な顔立ちが、いまもなお、和歌子の目ぶたの裏側に張り付いたまま落ちなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?