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稚児桜⑤


その伍『色欲』

 会津藩の幼年者心得之廉書の其の十七に、「色欲」に関して諌める文言がある。
 酒宴遊興を楽とすべからず年若の時別として慎むべきは色欲なり一生を誤り名を汚すものなれば幼年の時より男女の隔て色欲の咄すべからず或は戯言を以て人の笑を催し軽浮の貌すべからず争いは我慢より発するものなれば常に慎むべし。
 什長に任ぜられて、久方ぶりに幼年者の心得を紐解いていると、君に、自分の中に染み渡る思想は素読所で学ぶ如何なるものより、血潮となっていることに改めて感じ入る。君は十四だった。思春の春である。そうしてみると、間もなく成人として如何に徳川、如何に帝と刃となりて藩を治めていくかに心根は置いていようとも、若々しい花にも、不断に興味がある。近頃、悩ましい。特に、そば弓を外すことも、多々出てきた。それは、自分自信が揺れるようである。那須与一ならば、どのような折にあっても見事に的を射るだろう。然し、君も男子である。城下に、喜代という、女子がいた。石山家のある郭内本四之丁の一角の商家の娘である。器量の良い、花のような娘で、一度、桜を手折る姿を認めた。君が、ちょうど屋敷へと向かう中途のことで、君と目が合うと、喜代は驚いた顔を見せて、然しすぐと微笑んだ。そうして、幽かに浮かんだ雀斑に、君は心惹かれたけれども、何も言わずに、其の夜に初めて自分を慰めた。恐ろしいことに思えた。喜代は、夢にまで出てきて、それはいつぞやの天女のようでもあり、鶯のごとしやわらかい手足で、桜に座を下ろしていた。明け方、東雲に君の夢は破れて、そうして、自涜の哀しみに、君は胸が裂けんばかりだった。 
 ようよう、このように、男子は自己の魔と対峙する。世の中も魔なら、自己も魔である。酒呑童子の如し妖怪が、自分の中にいる。それは君に、怪談さながらである。そうして、そのようなことに思いを馳せている内に、昔、『お話の什』で、九郎左衛門が自らの姉と話をしていたのを他の婦女と話していたと間違われて、面目を潰されそうになっていたことを思い出した。あれは、今思えばどちらが正しかったのだろうか。九郎左衛門に姉がいたのか、それとも、本当に誰か思い人の類だったのか。何れにせよ、ませたものである。そうして、自分は斯様な事無きよう、喜代との対面でも素知らぬ風を通したけれども、然し、本当は話をしたかったのである。声も、でなかったのである。喜代は真実美しく、花だった。その花を手折るのは己だと、またも教えに背く考えが頭を擡げる。これではいかんと、己は什長である、自身を律することも出来ずに、他の者を律することができようかと、一人煩悶とする。然し、他の者達も同様なのであろうか。皆、立派な男児である。君と変わらず、火のような心を持っていて、それが吹き出すこともあろう。そうであるのならば、彼らはよほど強いと見える。然し、君にそれは難しいようで、この頃、心に住み着いた喜代のことを、自然自然と考えてしまう。若し、今己が喜代と戸外で話をしていて、それを九つの自分が見たのならば、彼はどのような裁きを下すのであろうか。童の密告など、揉み消してしまうかもしれない。そうと考えて、君は部屋の天井を見上げた。然るに、自身の心を閉じ込めることだ。それが、男子の本懐である。君は立ち上がり、そのまま戸外へと出ると、空に靄がかかっていた。心に咲いた花を手折るのは容易いことではないけれども、火照った身体を覚まそうと、町へ出る。鶴ヶ城が見える。きな臭い、そのような情勢である。君に、何か出来ることはあるだろうか。京都では池田屋での事件が世間を騒がしている。京都におられる松平容保公の暗殺紛いの出来事が、君に不安だった。色恋や色欲に纏わる些末な心で、如何様に主君を守れるだろうか。脇差を抜いて、ゆらゆらと、その刀身を見つめる。君は、斬り合いなどしたことはない。本当の殺し合いを好むのは、駒四郎くらいだろう。一つ年上の津田捨三など、一緒に舟で沖に出た折に、どこまでも潮に流されていき、君に恐怖が生まれた折にも、
「まぁ、誰ぞと斬り合うよりましだろ。」
と、寝そべって本を詠みだす始末だった。ふいに、ほほに感覚が生まれた。空を見上げると白雨だった。君は、脇差を鞘に収めると、そのまま町をふらついた。果たして、花が咲いていた。濡れて、鬢が匂った。喜代は君を見つめるとまた微笑んで、君はもう、その目をふっと落として、花を手折ると、そのままに寮へと戻っていた。

キャラクターイラストレーション しんいし 智歩


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