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薔薇の踊子

1-13

 部屋にはもう絵里奈がいて、雑誌を読んでいた。何の本か覗いてみると、加奈子の愛読している、宝塚グラフだった。
「今月、まだ買ってなかったったんだって。」
「後で読ませて。」
加奈子は大の宝塚好きで、娘二人も宝塚歌劇団に入ってくれてもいいのではないかと思えたことがある。そうして、それは娘たちが健やかに生い立つにつれて、本当にこの少女たちを、宝塚音楽学校に入れようかと真剣に考えた時期があるほどだ。しかし、その一環で習わせていた絵里奈のバレエで、天才が花ひらいて、その考えを翻した。バレエの世界で生きていける、世界のバレエ団に所属できる、逸材だと周りが囃し立てた。事実、その言葉に嘘はなくて、彼女の天才は、今また来年のローザンヌに届くだろう。そうして、同時期に始めたもう一人の娘は、幼い頃は男の子のようにかわいい女の子だった。その愛らしい娘は、すくすくと育てばいずれは美青年めいた少女に成長するのではないかと思えて、宝塚の男役でも相応しいのではないかと思えたものだが、しかし、野生の美しい薔薇の少女の蕾が恵の中には芽吹いていて、今は姉のように美しい踊りを見せている。宝塚音楽学校に通って、そのまま男役になって、華の舞台を彩るのも夢だが、花の舞台の主役に、この娘もなれるのかもしれないと、自身はバレエを嗜んでいなかった加奈子は、二人の娘の変わりように驚きながらも、そのバレエの世界の深みに、多いに嵌っている。
 そうして、娘二人も加奈子ほどの熱狂ではないけれども、宝塚をよく観ている。たくさんの演目がある中で、やはり贔屓のスターが出ている作品は何でも輝かしい。昨年契約したばかりの、タカラヅカ・スカイ・ステージは、加奈子が一番の視聴者だけれども、一時バレエから離れようとしていた恵は、ずっと観ていたものだ。特に、『ファントム』や『バスティーユ1798』を好んで観ていては、その世界の男女の愛の虜になる。加奈子も、煌びやかな宝塚の世界の恋の熱情に心は昂ぶるが、しかし、バレエの世界の愛もまた美しいことを、娘二人に教えられた格好になる。その、愛の世界から離れて、娘はまた観る側に戻ってしまって、しかし、踊りを再会したその付近に、丁度スカイ・ステージで放送された『ベルサイユのばら』を熱心に観ていた。その中の、アンドレのオスカルへの慕情の歌を、何か思いがあって聞き込んでいるのを、加奈子は目端に映る恵の横顔をで知っていた。そうして、恵は今、『ロミオとジュリエット』を秋の学祭で踊るために、レッスンに励んでいるわけだ。『ベルサイユのばら』もひとつの『ロミオとジュリエット』であるし、それが原因かもしれないと、加奈子は思っている。
 宝塚グラフを暫く眺めながら、恵は今日起きた色々が、頭の中を流れていって、目の前の映るスターたちの顔が、ぼんやりと薄膜を張ったように入ってこない。ローザンヌ国際バレエコンクール。その名前は、去年挑戦するまでは、まだその実体が掴めていなかったが、わずか二月足らずのこの間に、何か、いよいよ実感を伴って、自分の心に大きくなるようだった。
 恵は宝塚グラフを開いたまま胸の上に乗せると、
「ねぇ、えりちゃんは、来年のローザンヌも受けるんでしょう?」
勉強机に座っていた絵里奈は振り向くと、
「ええ。ビデオ審査の受付まで、あと二月しかないでしょう。だから、今は国元先生と、吉村先生とね、コンテの振付を考えているの。」
恵は何とはなしに頷くと、絵里奈ははっとした表情を浮かべて、
「めぐちゃんもビデオ出すんでしょう?」
恵は宝塚グラフを開いたまま顔の上に乗せて、
「振付のこと、何にも考えていなかったわ。」
くぐもった声で答えると、
「公武さんがいるじゃない。ビデオの振付、公武さんに考えてもらったら?」
恵は顔から宝塚グラフを落とすと、絵里奈を見つめた。絵里奈は、
「コンテの振付は、公武さんなら出来るんじゃない?今の『ロミオとジュリエット』も、公武さんの振付でしょう。クラシックは私から国元先生のお願いしてみるわ。」
「いいわ。私から言うわ。」
「国元先生、めぐちゃんが去年のローザンヌのビデオ審査に落ちてから、半年もバレエから遠ざかってたでしょう。それで、遠慮してるのよ。あなたに言いにくいのよ。だから、私から頼んでみるわ。喜んで協力してくれるわ。」
「でも私、今公武さんのお屋敷ばっかり行ってるもの。教室にあまり通ってないから、どう思われるか、わからないわ。」
「めぐちゃん、もう八年も教室に通ってるじゃない。全然問題ないわ。」
絵里奈はそう笑うと、立ち上がり、床に落ちている宝塚グラフを拾うと、ぱらぱらとページを捲った。本に視線を落とす絵里奈は見つめながら、恵は、
「公武さん、ローザンヌのバレエ学校にいたのよ。」
「ええ。そうなの?その話は初耳だわ。」
「少しの間だけ、留学してたんだって。」
「じゃあ、本場にいたのね。」
恵は頷いた。そうして、絵里奈は、
「公武さんに触発されたの?」
「それもあるわ。でも、踊っていてね、不思議と、心が火のようになるのよ。それがね、だんだんだんだん大きくなるのよ。」
「火の心ね。」
「そうね。革命が起きたみたいにね、わぁって。ひっくり返って、自分の踊りを、もっともっと高めたいって。」
「パートナーがいいのね。そういう、人の心を引き出す力があるのかもしれないわ。」
絵里奈がそう言うと、こんこんと、ドアを叩く音が聞こえて、ドアが開くと、加奈子がお盆にチーズケーキをのせて入ってきた。
「たまには甘いもので景気づけをしないとね。」
カフェオレと、チーズケーキを床に置くと、加奈子もその場に座った。チーズケーキはベイクドではなく、今は珍しい昔ながらのスフレだった。
「ああ。私これ好き。」
恵は、嬌声を上げて、お皿の横にあるフォークを手に取ると、チーズケーキを手に取った。絵里奈も嬉しそうに、カフェオレを一口飲むと、ほっとひと息をついた。
「練習はどうなの?恵。」
加奈子が尋ねると、恵は眉根を寄せて、
「大変。インプロが多いのよ。踊りながら形を作っていくの。大変だわ。」
「昔の日本人がもっとも苦手なパターンね。」
「私もインプロは苦手だわ。」
絵里奈が横から口を挟むと、
「でも、一昔前の日本人は、もっと即興が下手だって、国元先生が話してらしたわ。コンテも、今の若い子たちは、海外の子どもたちと遜色がないって。もちろん、クラシックの技術もちゃんと会得してるから、レベルの底上げがすごいんだって。」
加奈子の言葉を聞きながら、恵は公武を思い出した。公武は、昔ながらの天才の血族で、その人本人に限りなく近い。その天才が、現代の技術を体得したのならば、どれほどの踊りだろうか。
「恵も、インプロの勉強になるなら、それに越したことはないわ。学祭の練習は、体育館でしているの?それとも教室?」
加奈子の質問に、絵里奈が横から助け船を出すように、
「ホールだって聞いたわ。ねぇ?めぐちゃん。」
しかし、恵は何の考えもなく、
「いいえ。それは本番だわ。今は、公武さんのお屋敷で練習しているの。宇賀神の生徒の公武さん。明日塔のすぐ近くのお屋敷よ。」
「公武さん?」
加奈子の表情がたちまち曇って、しかし、恵は気付くこともなく、
「高瀬公武さん。ニジンスキーのー……。」
「あの複製人間の子供ね。」
加奈子の声には明らかに棘が含まれていた。それは、唾棄すべき者を呼ぶ声だった。
「その、公武さんのお家で、何人か集まって練習をしているの?」
「うん。そう。お友達と、それから、宇賀神の生徒さんと……。」
恵は嘘をつきながら、加奈子の中にある、差別意識が岩のような圧力で迫るのを感じていた。そうして、もうチーズケーキは喉を通らない。
「ねぇ、恵。複製人間の人と深く関わってはいけないわ。」
「どうして?」
恵は、咄嗟に、反発的な険のある言葉が口から突いて出るのを、自分でも驚きながら、しかし、加奈子の目を見返すことはできない。加奈子は、しかし落ち着きを払うように、一度咳払いしてみせて、
「彼らはまだ正式な人間として認められていないから。法律的な意味じゃなくて、一般の人たちの感覚的な問題でね。」
「感覚的な問題?」
恵は、加奈子の言わんとすることは理解出来たが、しかし、心が拒絶しているのを、頭で感じて、二つの思いだった。そうして、そういうときには、往々にして、心が勝るのである。
「感覚的な問題って何?皆が認めないから、お母さんも認めないってことでしょう?」
加奈子はかぶりを振って、恵の目を見据えた。星空のような目が加奈子に迫った。怒りと哀しみに満ちていて、それらが星を瞬かせて、睫は黒い弓のように立ち並んでいる。美しい娘の萌しに、加奈子の心は微かに揺れたが、しかし、
「それは違うわ。彼らの心っていうのがね、ヨーロッパかアメリカか、お母さん忘れちゃったけど、普通の人間よりも機微が少ないって研究の結果が出ているの。彼らの考えというか、脳の作りがね、人間とは少し違うっていうのよ。」
「だから、危ないって事?」
「心があるかないか、わからないってことよ。お母さんだって、確かなことは言えないわ。でも、心がなかったら、危険でしょう。何をするか、わからないでしょう。」
「あまりに前時代的だわ。昔の差別主義者みたいなこと言うのね。」
強い言葉が強い口調で出て、言葉を放った自分自身で驚く恵だったが、言葉はそのまま止まらずに、
「公武さんと、ずっと踊っていたからわかるわ。あの人には心があります。そうじゃなきゃ、あんなにきれいに踊るなんて出来ないわ。」
加奈子は何も言わずに、恵を見つめた。先程よりも厳しい目線で、娘を見つめた。恵は、一時気圧されて、かすかに視線を外したが、しかし、もう一度強い目で加奈子を見返した。加奈子は、またひと息だけため息をついて、
「公武君は複製人間っていうだけじゃないわ。彼はニジンスキーの複製人間でしょう。」
恵は視線を落とした。そうして、膝の上に置いた拳に力を込めた。非力な腕に、薄く青い血管が浮いた。
「そうよ。ニジンスキーの複製人間だわ。でも、それが何か問題があるの?」
「ニジンスキーは狂っていたって、有名だわ。晩年はね。それに、ニジンスキーは若い頃から、少し風変わりで、だからそこの天才だったそうだけど、人と心が通わないって言われていたわ。彼が、公武君がニジンスキーの複製なら、その素因を持っているってことでしょう?人と交ざり合えない心でしょう?それなら、私は心配だわ。複製人間の子の家に、娘を置いておくわけにいかないわ。」
加奈子は話していて興奮したのか、顔が赤くなっている。今にも血管が切れてしまいそうで、端で見ていた絵里奈は、こんな場面で悪いと思いながらも吹き出しそうになりながら、
「ねぇ、お母さん。公武さんは大丈夫よ。私も何度か踊ったし、レッスンも一緒にしたことあるけど、普通の男の子だったわ。普通の高校生の男の子よ。」
絵里奈が窘めるようにそう言うと、加奈子は少しだけ平静を取り戻したようにして、しかし、顔はしかめたままに、
「とにかく。明日からは彼の家に行くのは止めなさい。」
「いやっ。」
「いやじゃない。絵里奈、あんたこの子を見張りなさい。ねぇ、お願いよ、恵。公武君の家に行くのだけは止めて。彼と深い関わり合いになるのは止めてちょうだい。」
恵には、加奈子がなぜこのように強く公武と恵を切り離そうとするのか、頭で理解が追いつかない。食べかけのケーキを残したまま、加奈子は立ち上がって、
「絵里奈。あんた、明日から恵をレッスン場に連れてきなさいよ。恵、いいわね。あんた、ローザンヌに行くんでしょう?」
恵は静かに顔を上げると、加奈子を見た。なぜ、加奈子が恵がローザンヌに行きたがっていることを知っているのだろう。
「それなら、公武君と練習しているよりも、先生方にご指導してもらう方が、よっぽど練習になるわ。」
「行かない。」
恵は、幼稚園にでも通う幼子のように、ダダをこねる赤ん坊のように、いやいやと、ほほを膨らませる。加奈子は何も言わずに、ただ恵を一睨みすると、そのまま部屋を出て行った。
 部屋に残されて、絵里奈は気まずい思いだったが、しかしとにかくは妹を励まそうと、
「ねぇ、めぐちゃん。明日からは私とレッスン場に行きましょう。ローザンヌのコンテの振付、考えてもらいましょう。」
しかし、恵は何も言わない。答えずに、黙ったままである。
「秋の学祭、楽しみにしてたものね。」
「お母さんは公武さんのこと、何も知らないじゃない。決めつけばっかりだもの。だから、お父さんも愛想尽かすんだわ。私、ずっといっしょにいたから知ってるわ。本当に、素敵な踊りを踊る人なのよ。」
絵里奈は何も言わずに、ただ頷いて、寄り添うように、そのやわらかく白い手を、恵の手に重ねた。そうして、しばらくの間、沈黙のままに、恵の手をなで続けながら、ゆっくりと、恵の髪を撫でた。
「ねぇ、めぐちゃん。あなた、ローザンヌに行きたいってさっきも言っていたでしょう?公武さんとの踊りは、今は諦めた方がいいかもしれないわ。」
絵里奈の言葉に、恵ははっと目を開いて、
「ひどいわ。えりちゃん、そんなこと……。」
「だって、公武さんは、振付師になりたいんでしょう?そう、めぐちゃんが言ってたじゃない。だから、今は諦めるの。公武さんが振付師になるのを諦めなければ、きっと、公武さんとはいつかは踊れるわ。めぐちゃんがプロのバレリーナになれば、きっとね。」
「気の長い話だわ。」
自分で話していても気の長い話だと、絵里奈は思うけれども、しかし、恵を納得させないことには、恵はバレエを辞めてしまうかもしれない。恵は、バレエに愛されていて、そうして、才能もある。その才能を、移り気が邪魔をして、つまらない理由で止めてしまうことだけは、絵里奈は避けたかった。恵は、全く納得していないようで、ほほを膨らませたまま、体育座りで、顔を伏せてしまった。涙は見せないようだが、頑固であるから、固まってしまうと、もう開くことはない。しばらくの間、放っておくしかない。恵も案外強かで、計算高いから、同情を誘おうとしている部分もあるだろう。絵里奈は立ち上がると、
「お風呂に入ってくるね。」
そう伝えて、そのまま部屋を出て行った。
 恵は、どうしようもなく心が落ちていくようで、携帯を手にしたが、LINEを送ろうにも、送れない。それは、加奈子の言葉のせいではなくて、やはりまだ子供の恵には、親の言いつけを破る事に対する恐怖が心にのし掛かっていて、いつもならスイスイと泳ぐ指先も、今は硬くなって動かせない。
 恵は立ち上がって、部屋の窓を開けた。この部屋からは、ちょうど見上げる形で明日塔の教会の塔が聳え立つ城のように見える。モン・サン・ミッシェルみたいだと、よく絵里奈や柚希と話したものだ。今も、その塔が白々と薄い月明かりに照らされている。そうして、目を閉じると、外国の、写真でしか見たこと無い、特にヨーロッパのバレエ学校が目ぶたの裏側に浮かんでくる。ベルギーのアントワープ。フランスのパリ・オペラ座。ドイツのパルッカ・シューレ。絵里奈と、将来ローザンヌでスカラーシップが取れたら、きっと色々な場所に留学できると、はしゃいで話していたものだが、わずか一年足らずで、今は本当にその可能性があるのであれば、その世界に飛び込んでみたい。公武と踊り、話をしたことで、自分の中に、バレエへの愛情があって、もしバレエからの愛情があるであれば、抱かれてみたいと、そう思える。しかし、その鍵を開けてくれたのが公武であるのならば、彼が離れてしまうかもしれないことは、それは大きな穴に落ちていくのに似ていると、不安で塗り潰されそうになる。そうして、塔を見上げていると、夏の風が吹いて、二年前のレッスン教室の発表会で、『真夏の夜の夢』の妖精パックを踊ったことを思い出した。今はもう真夏に近い夏の夜だが、あの妖精を踊ったときに、自分は将来バレリーナになるのだと、疑いもなく思った幼いことだが、その心地が今夜風になって、恵に吹き込んでくるようだった。
 もう、公武がいなくても、ローザンヌへ出る意思は固まっている。しかし、それはもう娘の心で、秋の学祭を踊りたい思いが強くあって、恵はポワントを取り出すと、それを履いて、誰もいない部屋で、『ジゼル』のヴァエーションを踊る。そうして、そのまま、ポワントを履いたまま、窓枠に足をかけて、月へとジャンプをするように手を差しのべた。


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