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薔薇の踊子

1-17

 『白鳥の湖』は、bunkamuraのオーチャードホールでの公演で、客席は三階席まで、満員だった。これほど人を埋め尽くす公演は、神戸ではないだろう。大阪でもないだろう。やはり東京は文化の中心だと、改めて思いながら、会場を見つめていると、公演が始まった。
 古典を大胆に脚色し、英国王室に変えたこの作品は、もう生まれて四半世紀も経つけれども、白鳥全てを男が演じるこの舞台に、恵は虜になった。そうして、公武がこの舞台に自分を連れてきた意味が、一つ理解できた。それは、恐らくはこの男の白鳥たちの醸し出す、野生の踊りだろう。背中に汗を滴らせ、男たちの群舞が、王子一人を取り囲む。その動きは、動物のそれだが、しかし、人間の肉体である。野生が人間の肉体の檻の中に、きれいに収まっては暴れて、あふれ出しそうだ。その溢れる獣性が、恵に自分のジュリエットの幻影を思わせた。
 踊りが終わると、会場は拍手万雷で、スタンディングオベーションが続いた。恵も思わず立ち上がって、舞台上の踊り手たちに拍手を贈る。そうして、その横では公武も拍手を送っていた。ああ、いいなぁと、恵は単純に心が急くようだった。今、あの舞台に立つダンサーたちのように、自分も見事に踊ってみせて、このような喝采に包まれたのならば、どれほどの幸福であろうか。そうして、その横には、志を同じくとした仲間がいるとしたら、どれほど素晴らしいことであろうか。そう思うと、今自分の横で、拍手までもしなやかな鞭を叩くかのごとくに美しい公武も、同様の思いだろうか。先程、自分を複製人間だと、誰からも除け者にされていると言っていた公武の欲しいものとは、そのような同士なのだろうか。魂がないと言われて、心がないと疑われて、そうしていても、同胞を欲するかのように、自身のバレエ団を作ろうと考えている公武は、誰よりも魂があるのではないのか。
 恵の視線に気付いたのか、公武はほほ笑むと、拍手に埋もれるようにかすかな声で、
「いつかはあのように、舞台に立ちたいものだね。」
「立てるわ。あなたはもう、今にでも立てるわ。」
恵は声が掻き消されないように、叫ぶように、公武に脣を近づけてそう言った。
「そうだね。とりあえずは、秋の学祭だね。」
公武も同じように、脣を近づけて、そうしてささやくと、幽かに男の匂いがして、恵はそれこそが薔薇の香りだと思えて、ほほを染めた。
 その夜、夜行バスから、東京ステーションホテルが見えた。東京駅舎の赤煉瓦はライトに染められて、ぼんやりと燃えるようだった。
「駅舎の中に、たくさんの白い鳥が飛んでいる。レリーフのね。ベジャールの『春の祭典』を思い出した。」
公武が顔を近づけてそう言うと、
「あら。どうして?」
「どうしてだろうね。黄色と、白色。それからレンガの赤色。色が、僕にそう思わせるのかもしれない。それから白い動物たち。春の色、エロスの色のせいかもしれない。そうしてそれがね、振付になって、頭に浮かぶんだね。」
東京駅舎は、ぼうっと白く翳んでそうして、静かに見えなくなった。
 恵は奮発して買った『白鳥の湖』のパンフレットを、車内灯の暗闇の下で目を凝らして読んでいた。その中で、鎌田真莉のインタビューがあって、恵はそれを特によく読んだ。ニューアドベンチャーズで、『眠れる森の美女』のオーロラを踊っている。そうして、今回のアンサンブルでも踊っていたが、彼女のように、海外で活躍するダンサーと、そうではないダンサーの差とは何であろうか。彼女は、ダンサーになるために、海外でもウエイトレスをしながらも、オーディションを受け続けた。バレエの学校に行くのが関門ではあっても、しかし、それ以上の関門が、その後に待ち続けている。その先に、あのような栄光があるのだとしたら、恵のような弱い心に、それが耐えられるのだろうか。それならば、いっそのこと何も考えない、心のない人間の方が良いのではないのか。そのように考えると、恵ははっとして、馬鹿なことを頭に浮かべた自分を罵りたくなる。そうして、同時に、心がないからこそ、緊張をしないのだろうか、心がないからこそ、素晴らしい踊りを、機械のように踊れるのだろうかと、また頭をぐるぐると、謎めく考えが魚のように泳ぎ回る。窓外は、先程までは摩天楼から見える月すらも綺麗な夜空だったのに、いつの間にか海か湖に落ち込んだように、車窓は雨の川になっていて、夜が靄を描いていた。自分の顔すらも溺れて見えないようで、恵はそのまま天井を見上げて、目ぶたを閉じた。公武の筋肉は、踊るためにしなやかに弓のようだけれども、そうして、美しさについて、誰よりも追求しているけれども、それは自然に考えると、心があるということだろうか。単純に、公武は心が強く、芸術が好きだということは、心があるということではないだろうか。他の複製人間に心がなくっても、公武にはあるんだ、けれども、こんなことを考えているなんて、公武には内緒だと、恵はうつらうつらと考えているうちに、気付くともう神戸の街で、朝だった。昨日の雨はすごかったねと公武に尋ねると、雨なんて降っていなかった、月の綺麗な夜だったと答えられて、しかし、そのことだけは一致した感情だった。

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