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ああ、髑髏(されこうべ)②


 大之神(おおのかみ)が女を知ったのは、十二の時である。夏の夜のことである。今でもあの晩のことが、夢であればどれほどに良かったかと、大之神は時折思うことがある。花柳の女に悪戯を施されて、その童貞を散らした。大之神は、獣の交尾を見つめながら育った。人間の交わりというものは見たことがなかったから、客の女に金を払って、その様を見せるように頼んだ。客の女はそれならと、大之神に抱きつくと、四君子模様の帯を解いて、その裸身を大之神に見せた。やわらかな乳房がはじめて手に抱かれて、大之神は身体の変化を感じると同時、目の前の女に恐怖を覚えた。獣そのものの瞳である。この女に、己はどのように見えているのだと、大之神は空恐ろしいものを覚えた。白色の肌は、一等白色でなのであろうか。不明である。女の脣が、大之神の脣を吸うと、吐き出される息に胸がつまる。犬よりも猫よりも鳥よりも不可解な臭いが漂って、それは血の臭いだろうか。それともこの女が今まで吸ってきた男の肉体の香りであろうか。
 軒端を叩く雨音が聞こえて、夏の雷雨である。雷が響いて、障子に獣たちの影を作る。己が畳の上で行う営みを、動物たちは闇夜の中で、どのような思いで、どのような瞳で視ているのであろう。大之神に恐ろしかった。この名も知れぬ花柳の女に、己の全てを吸い取られる様を、動物たちが見つめている。草葉を叩く雨音が、いっそう強くなる。闇夜の中で、女の顔が黒く蠢く。その様は、動物たちが視る己のように顔が黒く塗り潰されている。女は、獣の嬌声だった。爪が、やわらかな大之神の腕に刺さった。血が流れる音が聞こえる。
 そうして、果てる頃には、女の顔がひどく不気味に思えた。美しさの欠片もない。汚れて腐って潰れた桃か何かようである。事が終わると、花柳の女は満足そうにほほえんで、大之神の脣に、なんどもなんども接吻をした。やはり臭い。しかし、女は誰よりも動物のような振る舞いをしながらも、そこに獣の美しさはなかった。汚い女の醜さだけである。
 童貞が散って、大之神の心に、寂寞としたものだけが残った。哀しみだけが漂って、それを紛らわすかのように、犬猫を抱きしめた。獣の匂い、獣の美しさに、心が洗われた。女の底の浅薄な、汚らしい血の塊を、大之神は憎みすらした。大之神は、獣で自分を護るかのようであった。噂を聞き付けて、大之神に会いに来る女たちを物色しながら、獣に心を守らせていた。美しい女を求めていて、それは大之神には、獣を生を視ることでしか、触れないものであった。
 大之神が十八を迎える頃には、女中や番頭たち、両親の死後に新しく雇い入れた者たちも、世継ぎのことを考え出す。屋敷は繁盛してはいたが、それは大之神の才覚ではなかった。むしろ、屋敷の儲けた金を使って、禽獣花柳と放蕩するその様は、みなを一様に不安にさせていたけれども、却って家業に口を出さないのをいいことに、彼の楽しみさえを担保しているのであれば、誰もがそれなりの生活を送ることができたものだから、現状、それで構わないという声が多勢ではあった。しかし、代々続いた暖簾もあることだし、ご先祖に顔が立たない今のこの惨状を、憂うもの者も勿論幾人かはいて、彼ら全ては良き妻、良き跡取りを産む女を、大之神に宛がうことで、永劫の繁栄へと繋げようと、そう考えているのだった。
 大之神は、三年間の女遊びで、大層目が肥えて、花街の女、また病気を患った女との火遊び、刺激の坩堝に浸っていたせいか、身を固めるつもりなど毛頭無い様子。幼子の頃から可愛がってきた獣に骨董、それから金で身を売る女、それらがあれば事足りる、どうせいつかは死ぬ身だもの、病弱な自分が妻を娶り子を授かろうが、その子が大人になるまで生きてはいまい、そう言っては、番頭たちの言葉を振り払い、彼にとりつく島もなし。
「然し、若がそのような遊びに耽ることで、ご婦人どものご病気が、若にお移りになる場合もございましょう。さすれば元々病弱な若のこと、そのような病気で、益々死に近づくだけだと存じ上げまするが。」
「そういうのを、僕は楽しみにしてるのかもしれない。」
「と、申しますと。」
「朝起きると血を吐くからね。こう喀血が朝の習いになってちゃ、僕ももう死に伏せるのを待つばかりだろう。それなのに、どうしたことか、僕は死ねないんだからね。どういうことか、神さまが僕を生かそうとしているのか、どういう思し召しなのかわからない。もう十年以上もこの様なのは、お前もよおく知っているだろう。今の僕の気持ちはね、むしろ彼女たちの毒をこの身体に入れて欲しいものだね。そうして、死に近づきたいものだね。今は、死ぬように見えて、ただ、身体が延々と痛みに弱るばかりだろう。老人になるまで、僕は毎日血を吐いて、御前たちは死ぬまでそれを掃除する。畳についた血を拭き取るのは難儀だと、障子を濡らした血は襖ごとを変えなければならないと、そう何度も言っていただろう。さぁ、もう部屋から出て行ってくれないか。僕は、彼女たちの毒を取り込んで、そうして本当の病に伏せて、天に召されるのだから。」
大之神は狆の首筋を撫でながら、そうひと息で言うと、もう番頭の目を見ようともしない。番頭は何も言わずに脣を結んで、そのまま座敷から立ち去ると、縁側を大きな音を立てて歩いて行った。番頭の気配が消えて、大之神は狆を放すと、そのまま大きく伸びをした。大之神は、自分が刃に晒されるように、自ら放蕩を繰り返しているのに、いっこう彼女らの病気が自分の中に流れ込まないことを、不思議に感じていた。流れ込むのは、彼女らの優しい心だけなのである。然し、欲情もある。病弱な自分が、なぜこのようにおぞましい毒壺に触れてなお、その病をもらわないのか、大之神に不思議だった。それは、自分が薬の神に愛されていて、自身全てが薬なのかもしれないと、そう思えた。しかし、それも滑稽な妄想の類であって、ならばどうしてこの肺病は治らないのだ。なぜこの肺病だけ自らを貶めるのだ。己の不幸の全てなのだ。かかりつけの医者が言うには、肺病に悪いのは獣と交情、それを止めるのが一番である。しかし、大之神には、肺病の一つも治せない分際で、何様のつもりだと、そう思えるのである。
 障子越しに、月の光が差してきて、大之神の手を透かした。美しい白い手に、白い光が重なって、月の灯りそのままである。大之神は立ち上がると、障子を開いた。縁側に立つと、鹿威しの音が聞こえる。近くを流れる清流の音が聞こえる。それらが交わると、水の中だ。月が庭一面に広がって、大之神を見ていた。美しい白い月に兎が踊っていて、大之神はうっとりとそれを眺めた。月は顔色を変えないから、大之神の心は揺れて、頬が赤く染まった。清流の音に、囃子の音が重なるようである。それはまぼろしの音であって、本当の音ではない様子。しかし。大之神には本当だった。女の光を見るようで、大之神は、その場に座り込むと、時折咳ごみながらも、延々とその光景を眺めた。獣や、芸術に魅せられるのと同じ、不思議な酩酊と、昂揚があった。月は、次第次第に近づいてきて、大之神を包み込むほどに降りてきた。白い光が、庭に溢れんばかりである。そうして、月の光は、庭の池の水面にも映って、瞳のようにも思える。巨大な目玉のように、大之神に思える。上からも下からも覗き込まれるようで、大之神は戦いた。同時に、美しさに陶酔するようである。大之神は立ち上がると、草履を履いて、庭に降りた。庭では、どこから聞こえるのか、虫の音が響いている。鈴虫は、大之神の部屋で飼っているが、鈴虫とは違う、別の虫の声。大之神が池を覗き込むと、月を鯉が散らしていく。しゃがみこんで、そっと指先を池につけると、月が割れた。掌の中に月の欠片を浮かべて、ほほえんで、しかし、掬い上げると水と共に月は掌から零れ落ちた。大之神の目に映るのは、濡れて細い指先だけだ。白い月は、大之神の指と比べると、幾分も黄色い。濡れた手を袈裟で拭くと、大之神は立ち上がり、月を見上げた。煌々ときらめていて、濡れているようにも、燃えているようにも思える。心次第である。見つめる度に、色が変わるように思う。月の兎が跳びはねて、宮の中を転がり回る。幼い空想に取り憑かれるようだったが、月を見る度に、大之神は、その輝きを手にしたいと何度も思うが、所詮は叶わぬ夢。
 座敷の戻ると、狆も、ハウンドも、梟も、金糸雀も、菊戴も、日雀も、大之神を見つめた。全ての目差しが大之神に注がれて、温かく、冷たい心持ち。それは大之神には不可解で、生きている美もあれば、あの月のように、手の触れられない美もあるのだと、なお強く実感させる。獣たちは、それぞれの持ち場に戻って、眠るもの、甘えるもの、それぞれだ。しかし、大之神は心がここに無いようになった。蝋燭の灯りに揺られる部屋の中、数多の骨董が、これまた大之神を見つめている。その中で、一つの西洋人形が、ときおり蝋燭の灯りに、ときおり月の瞬きに当てられて、ほほえむように、大之神を見つめている。大之神は、身を乗り出すようにして、その人形を見つめた。人形も大之神を見つめる。互いに見つめ合い、暫し、二人はまるで恋人のよう。大之神は、幼い頃からこの人形の身体がどのようになっているのかが知りたくて、身に付けるドレスを脱がしてやろうかと、何度か考えたことがある。しかし、実行しないのである。それは、大之神の不思議な矜恃。人形は乙女のようである。大之神が幼い頃から、年頃の娘である。大之神と同い年になっても、彼女は大之神をやさしく見つめている。ビスクドールである。大きさは二尺ほど。その掌に収まらない人形の脣が、妙に色艶めいて見える時、大之神は、妙な心持ち。それは恋に近いようで、花柳界の女と対峙するとき、女中と対峙するとき、そのような思いは立ち顕れない。立ち顕れるのは、この魂のない娘と視線を交わす僅かのひととき。人形が、人形ではなくなって、人間の娘のように思えるとき。大之神は、この娘の年頃の身体を一目見たくて、ドレスの裾に手をやった。然し、指先が動かないのである。死んだ指が、死んだように動かないのである。これは何事と、指先を見てみると、震えて物も握れない。大之神は、人形からそっと手を放し、その人形の目を、じっと見続けた。しばらくの間そうしていた。それは、娘から怒られるような心持ち。人形の娘が果たして怒っているのかどうかは測りかねたが、然し、大之神からしてみるに、恐れが大きく上回っていた。花柳の女の帯を紐解くとき、斯様な心は生まれない。果たして、秘密のままに留めておきたい、その願望の表れ。
 今宵もまた、大之神はむすめの目を見つめ続ける。それしかできないのである。娘はまさしく聖処女である、誰しもがこの娘の身体を見たことがない。乳房も、尻も、器も、隠されたままである。大之神は、神を見るかのように、娘を見た。月を見るときと、変わらぬ瞳である。汚れのない、病気もない、美しい娘である。一度契りを交わそうと、奮い立とうとした夜もある。然し、その夜ばかりは、大之神の指が肩に触れたとき、娘の目に幽かな蔭り。まぼろしか否かはわからぬけれども、然し、大之神は手を引くと、しずかに、娘の赤い脣を見るに留めた。脣は花の花器を思わせて、血が通うよう。
 しかし、この乙女も、人間が拵えたもので、本当ではない。所謂偶像で、心の拠り所でしかないのである。大之神は、娘を見つめながら、そのガラス玉で作られた目の中の輝きに、外で見た月の光を見出した。月の宮に住む乙女に思いを馳せた。その夜に、大之神は、死んだ母の夢を見た。顔すら定かではないのが、夢の中のせいか、思い出の欠片が割れてしまっているのか、大之神にはわからなかったけれども、美しいように思える。母は、女の匂いがしなかった人である。それは、幼い頃でしか母のことを知らないからかもしれないけれども、薬種商の家に嫁いだ母もまた、薬師の家柄の令嬢であった。美しい人が、美しい人に嫁いで、美しい子が生まれた。その子の見る夢で、母は乙女である。夢の中で、大之神は幼子だった。母は、大之神の側にしゃがみ込んで、耳もとで何かをささやいた。何と言ったのか聞こえないのは、夢のせいだろうか。
 大之神が起きると、眦が濡れていて、泣いていたのだろうと、大之神は床で涙を拭った。犬たちが近づいてきて、大之神の涙を舐めてはじめる。温かく臭う息が、大之神の鼻を掠めて、妙な心持ち。不思議と、その日は喀血がなく、晴れ晴れとした思い。咳も出ず、妙であった。夢の中で会った母の愛情からであろうか、なにかの妙薬が心に作用して、病魔が一時とはいえ、去ったのであろうか。母と月と人形に、何か関連めいたものがあるのだろうか。
 座敷から出ると、女中の声が聞こえてきた。若く、張ったような声である。夢の中で、母が何かをささやいていたようなやわらかい甘い声ではない。生きている活力のある声である。してみると、あの夢の中の母のささやきも、自分の声も、どこか死に近い、幽霊のような声なのかしれない。大之神は、その幽霊の声を思い出そうと何度も何度も夢を反芻してみるけれども、しかし、夢はそのたびに薄くなっていく。大之神の思いだけが濃いようだ。(続く)

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