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薔薇の踊子

1-14

 翌日は日曜日で、恵は柚希を伴って、御心坂から公武の屋敷へと向かうと、玄関の呼び鈴を鳴らす。一人で言いつけは守れないが、いざとなれば、柚希の唆されたのだと言い訳をしようと、ずるい心があって、柚希と映画を観に行くと嘘をついて、家を出てきた。呼び鈴が響いても、誰も出ない。出かけているのだろうかと、柚希と顔を見合わすと、扉が開いて、川端が現れた。恵の身体はふいに固まって、
「やぁ。いらっしゃい。でも悪いね。公武は風邪を引いて寝込んでいるんです。」
恵は肩の力が抜けたようで、
「そうですか。じゃあ、お見舞いでも。」
「上がってください。」
恵と柚希は川端に一礼をして、そのまま靴を脱ぐと、玄関に上がった。勝手知ったる我が家というように、すいすいと公武の部屋を目指して歩いていく恵とは対象に、柚希はあちこちを見回しながら、恐る恐る恵の後ろをついてくる。
「すごいお屋敷。超お金持ちじゃん。」
柚希は玉の輿に乗るが夢だといつも言っている。柚希の実家も山の手の豪邸で、充分に大きいが、やはり川端のこの屋敷は、その中でも郡を抜いて広い。そうして、廊下を進んでいくと、音楽が聞こえた。プロコフィエフだった。
 部屋に入ると、公武は布団に入ってはいたが、起きていて、ノートに何かを書いていた。
「恵。それから……。」
「三芳柚希です。」
柚希は、いつもより高い声をだして、公武に挨拶をした。公武はほほ笑んで、
「高瀬公武です。宇賀神の一年です。宜しく。」
柚希は頷きながら、恵の耳もとにささやくように、
「イケメンじゃん。」
恵は苦笑しながら、
「ごめんね、急に来たりして。」
「いや、嬉しいよ。今日はレッスンだと思ってたから。ごめんよ。今日は踊れない。」
「風邪?」
「夏のね。食欲が出ないんだ。まぁ、すぐに治ると思うよ。」
「振付を描いているの?」
公武の手元を見ながら恵が尋ねると、公武は頷いた。
「今描いているものだけじゃ、足りない気がして。色々と模索中だ。」
「覚えられないわ。」
恵がほほ笑むと、公武は頷いて、
「君なら対応できるさ。」
恵は、バレエには詳しくない柚希が隣で聞いているだけだというのに、誇らしい気持ちになった。背中から、汗が噴き出しそうになる。公武は、風邪の割には元気そうだったが、大事を取るように伝えると、また来るとだけ言って、公武の部屋を後にした。
「すごい写真だらけ。全部バレエの演目?」
「そう。彼のねー……。」
そこまで言いかかって、恵は言葉を紡ぐのを止めた。しかし、柚希は単純に、公武が男前だからだろうか、彼の容姿ばかりを褒めている。柚希は無論ニジンスキーのことなぞ知らないから、彼女にとっては、男前の他校の生徒という認識に過ぎないだろう。それならば、知る人がほとんどいないのであれば、何の問題があるというのかと、恵にはそう思えた。そうして、廊下を歩いていると、夏の日差しが廊下に差し掛かって、そこを盆の上にグラスを三つ乗せた女性が歩いてくる。マダムだろうか、女性は紫紺の銘仙を来ていて、二人を認めると、かすかにほほを紅潮させて、
「あら。せっかく用意したのに。飲んでいけば?」
恵は一礼をして、
「お構いなく。でももう帰りますので。ありがとうございます。」
そう言うと、マダムの脇をすり抜けて、振り向くこともなく、玄関へと向かう。その様子が、失礼な態度ではないかとと、柚希は不安そうにしていたが、恵は散り散りになりそうな心を宥めようと、下を向いて、玄関へと向かった。
 玄関で靴を履いていると、川端が顔を出して、二人を見つめた。
「公武のためにありがとう。君たち、今から少し時間はあるかい?」
恵は小首を傾げた。そうすると、川端は、またあの例の猛禽の目になって、
「公武が風邪を引いたから。町枝も今日は家に残ると言いだしてね。チケットが二枚余ったから、君たち一緒に行きませんか?」
「何ですの?」
「エイフマンバレエですよ。『アンナ・カレーニナ』をね。びわ湖ホールでやるんです。二十年近く、日本には来てなかったから……。」
ボリス・エイフマン。ロシアの偉大なコリオグラファーの一人。公武も、彼の事を好きだと話していたのを、恵は思い出していた。
「公武が行きたいと言っていたんです。せっかくの券が余るのも勿体ないから……。」
恵は断ろうと思ったが、柚希が耳打ちをして、
「ねぇ、私バレエ観てみたいわ。高いチケットなんでしょう?」
そう言われて、恵は少し考えて、静かに頷いた。川端は車を回してくると言って、そのまま玄関から出ると、奥の車庫に向かった。バレエの演目はそれなりの数を観ているけれども、しかし、前衛的な作品を劇場で観ることは少ない。ほとんどがクラシックの演目ばかりで、時折関西に来た海外のバレエ団の演目を観に行くことはあっても、定番の『白鳥の湖』や『ドン・キホーテ』、『くるみ割り人形』に、『眠れる森の美女』である。それ以外の作品は、日本のバレエ団やバレエ学校のやる、一幕ものが多くて、そういう意味では、恵も少し興味があった。何よりも、公武が信奉している振付家の一人であるのならば、それは勉強として観ておく必要性があると感じた。
 公武の屋敷からびわ湖ホールまで、車で一時間半ほどだった。その間、運転席の川端は、ずっと音楽を聴いていたが、しかし、その音楽が誰の曲かはわからずに、
「誰の曲ですか?バレエ?」
川端は、ルームミラー越しに尋ねた柚希をちらりと見つめて、
「ヨハン・ヨハンソン。最近亡くなった、アイスランドの作曲家だ。『オルフェ』というアルバムです。残念ながら、バレエじゃないよ。」
「バレエの曲かとばかり。」
「バレエの曲以外でも何でも聞くよ。R&Bも、パンクロックも、グラムロックも。君は音楽が好きなんですか?」
「好きですわ。私はもっぱらロックですけど。」
「演奏もやるの?」
「ギターを。それで、恵がドラム。そういう約束で、バンドを組む予定もあるんです。」
恵は吹き出しそうになった。柚希はまだ、バンドを組むのを諦めようとしてないらしい。そうして、そのまま流れていく高速道路沿いの景色を眺めた。
「ドラムをやるようには見えないね。」
恵は自分に話題を振られると、少し警戒したように、
「意外に野蛮なんですよ、私。」
「それは怖いですね。公武にも気をつけるように言っておきます。」
そうして、そのルームミラーに映る目は、柚希に向けるものとは異質の、以前見たような、冷たい猛禽のものになっている。川端は、公武と恵が踊ることに、何を思っているのだろうか。

 びわ湖ホールは初めてで、その日はよく晴れていて、ホールから望む琵琶湖の景色が、日の下に、水鏡のように白く染まっていた。柚希は嬉しそうに、スマートフォンでそのカメラを写真に収めている。それを横目で見ながら、川端はゆっくりとホールのガラス張りの壁の前に立ち、その景色を眺めていた。恵も並んで琵琶湖を見つめていると、
「琵琶湖には龍が棲んでいると言いますね。」
「龍ですか。」
「架空の生物です。その龍の伝説を描いた、画家がいました。女性のね。三橋節子と言うんですが、三五歳の若さで幼子二人を残して亡くなった、美しい絵を描く人です。」
その画家の名前を聞いたことはなかったが、なるほど川端は蒐集家であることを思い出して、恵は、
「その人の絵も持っているんですか?」
川端はかぶりを振って、
「欲しいとは思いましたが、大津のね、琵琶湖の辺にある、長等山の中腹に、彼女の美術館がある。静かな場所で、絵が眠っています。ああいう、人目に触れない芸術もいい。三橋さんの描く絵には、愛情があって、絵はあそこにあるべきだというね、そういう空気があるんですよ。」
「どんな絵なんですか?」
「琵琶湖の様々な伝説を、若くして死んでいく自分と、残された娘息子のことに重ねて描いた芸術です。彼女は利き腕を失って、左手に筆を持ち替えて、その絵を描いていたんですから、驚きです。識らなければわからないでしょうね。」
「その絵に龍が?」
川端は頷いた。その視線の先の琵琶湖は静かな凪で、しかし、湖底深くに龍が潜んでいたとしても、信じられる。
「大津には、三井寺の晩鐘があります。その晩鐘が絡んだ物語の絵を描いている。琵琶湖湖畔に住む若い猟師が娘に恋をするんです。二人は夫婦となり、子供を授かります。しかし、娘は琵琶湖の龍の化身で、二人は別れざるを得なくなる。龍が心配なのは愛する我が子です。毎晩泣き喚くものだから、泣かないよう、乳の代わりにこれをしゃぶるようにと、目玉をくり貫いて渡すわけです。ここは面白いんだけど、その渡した目を、子供は舐めすぎて無くなっちゃうわけです。困った龍は、もう一つの目を渡します。そうしたら、もう盲目で、何も見えなくなるわけです。だから、夫に頼むんです。かわいい子供が大丈夫か心配だから、毎晩子供が無事ならば、三井寺の鐘を鳴らしておくれと。それから約束を守って夫は鐘をつく。そうして、今も夜になると、三井寺の晩鐘がなるわけです。」
不思議な話で、その、初めて聞いた画家の、我が子と分かれて逝く哀しみが、まだ幼い恵の心にも想像出来るようだった。
 そうして、ホールのブザーが鳴って、もうあと五分で始まるというアナウンスが流れると、柚希は慌てて恵たちの下へと走ってきた。化粧室にでも行っていたのだろうか。三人は座席に着くと、S席の良い場所で、舞台上の踊り手たちのダンスも、すぐに見える場所だった。
 客席が暗くなって、舞台が明るくなると、緞帳は上がっていて、小さな子供がおもちゃで遊んでいる。その子供を慈しむように、母であるアンナ・カレーニナが登場し、続いて夫のカレーニン伯爵が、壇上に姿を現す。カレーニン伯爵に促されるように、息子をおいて、アンナは社交界へと出かけてしまう。そうして、場面が切り替わると、社交界を踊る人々の姿が映る。その群舞に迫力に、恵は一気に作品に引き込まれる。
 まずは、皆背が高いエイフマンバレエは、男性は184㎝、女性は173㎝が入団の最低基準と言われているが、その背の高さで、ダイナミズムな動きが、一層に大きい。そうして、激しい群舞だからだろうか、迫るような勢いがある。その社交界で、アンナと出会うヴロンスキー。二人は熱い恋に身を焦がし、その恋に感づくカレーニン伯爵。この舞は、次第にこの三人だけに焦点を絞って、それぞれの苦悶を踊りに焼き付けていく。一度、息子の為にカレーニンの下に戻るアンナ。そうして偽りの幸福が過ぎて、雪舞い散る中レールを走るおもちゃの汽車に合わせて、アンナはくるくると回転しながら一幕は幕を閉じる。
 拍手が劇場に溢れた。身体をここまで使ったバレエは、なかなか観ることはない。柚希も興奮して、立ち上がりそうな勢いだった。そうして、恵の目には、汽車の横で回り続けるアンナの貌が、居座るように何度も何度もフラッシュバックする。
 二幕目に入ると、アンナとヴロンスキーの逃避行の先のヴェネツェアでのコール・ド・バレエが客の喝采をさらった。仮面のカーニバルで、激しい踊りが交錯する。そうして、ペテルブルクに戻ったアンナに迫る社交界の目。アンナの精神は蝕まれて、壊れていく。そうして、踊りは狂気を孕んでいく。貌が変わっていく。踊りが変わっていく。この、精神に異常を来した踊りが、何故か恵の目にすうぅと入り込んでくる。何故か、精神を病んだアンナの心が、痛い程にわかる。
 そうして、最後には、列車を模した黒い衣装のダンサー達のコール・ド・バレエ。激しい群舞に、アンナは取り込まれて、その命を雪の中に散らしたところで幕は閉じる。
 劇場は拍手喝采で、数度のカーテンコールでは、恵も柚希も立ち上がって、ダンサーたちに惜しみない拍手を送った。そうして、川端は静かに舞台を見つめながら、何か物思いに耽るようである。
 踊りが終わって、劇場から溢れる人並みに流されるように駐車場に向かう中、
「あーあ。私もバレエ習っていればよかったわ。ママも恨むわ。」
柚希がそう言うと、
「まだ遅くないだろう。これから始めればいいですよ。」
川端がほほ笑みながらそう言った。
「そうよ。バレエは何才からでも出来るもの。」
「でも、小さい頃から始める方が有利なんでしょう?プロになりやすいんでしょう?」
「ええ。でも柚希は十五才じゃない。まだまだ若いもの。始めたらいいわ。レッスン場に来なさいよ。私も教えてあげるから。」
そう言いながら、恵の脳裡には、まだあのくるくると回り続けるアンナがいて、あの踊りを公武にも見せてあげたかったと思えた。


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