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男の子のように美しい田舎の娘

3. 秋の令嬢

 枯葉を踏む音が聞こえて、私は目を覚ました。その音はだんだんと近くなってきて、このヴィラに近づいてきているようだ。そうして、大きなトランクを両手に持った、一人の娘がロビーに入ってきた。その娘は、きょろきょろと顔を動かして、ロビーに誰もいないことを確認すると、私に視線を向けた。私は何も言わずに、座ったまま会釈をした。娘も会釈を返した。そうしてまた視線を動かした。
 娘は、真っ赤なコートに、革手袋をつけている。ブーツは深い緑だった。目は人形のように大きく、脣は外の紅葉そのものだ。娘は、ロビーに置かれた呼び鈴を鳴らした。そうして、
「ごめんください。」
と呼びかけた。その、呼びかけた声があまりにも清しいものだからか、私は目までが澄むようだった。
 奥からフロントマンが出てくると、娘にほほ笑みかけた。娘もそれに応えるようにほほ笑んだ。私は、二人をソファから見つめていた。うす暗いロビーの中に、硝子を透かして差し込む光が、この娘を美しく白く染め上げていた。陽光に愛された聖少女のように、私の目に映った。
 娘はトランクを重そうに抱えながら、フロントマンに付いていった。フロントマンは、貴公子のように娘の手からトランクを奪うと、まるで空気でも持つかのように、軽々とした足取りで、一階の部屋の奥に娘を連れて行ってしまった。
 取り残された私に、さきほど娘が来たことによって部屋に満ちた空気がより透明になったように思える。またガーデンに客が来たのか、今度は異邦人の声である。がやがやと私の耳を撫でているうちに、私はまた微睡みそうになる。
 立ち上がり、ガーデンに出ると、遠くで芥車を動かす庭師が見えた。私は、ガーデンに咲く花々を手に取り、その香りを吸った。しかし、薔薇の花は少ない。オーナーは、初夏にこのヴィラが花で埋もれるのは、それは美しく壮麗なものだと、そう言っていたものだが、たしかに秋の薔薇たちは少し控えめに、静かにささやくようだ。しかし、花が弱いせいか、茨のするどいのが、私の目についた。その茨の棘のひとつに触れると、私の指先からたちまち赤いものが盛り上がった。
 淡く桃色の薔薇たちを見つめていると、ヴィラからピアノが聞こえてきた。ロビーに置かれていた、アンティークのピアノだろうか。異邦人たちは、ピアノの音に紛れて、陽の光を受けて、絵画めいて見える。
 そのまま、ピアノの音色に導かれて、ロビーに戻ると、さきほどとは違って、淡黄色のワンピースをまとった娘が、こちらも先程の異邦人たち同様に、陽の光の中で、絵画めく姿で、ピアノを奏でていた。私は、玄関口で、娘の指先を見つめていた。娘の指先のひとつひとつが精緻に動き、自動人形のようである。私は、先程袖にされた人魚と蛇使いの娘を見つめた。彼女たちは、娘の指の動きに見惚れるように、焼き餅を焼くかのように、目差しを向けている。そうしていると、娘はヴィラに舞い降りた、新しいオルゴールであろうか。横顔はクラシカルで、異邦人の顔立ちである。しかし、オリエンタルな美しさもある。変幻自在のオルゴール人形。
 私は、音を立てないようにゆっくりと、ゆっくりと、人魚の元へと向かうと、彼女に目配せした。人魚は、浮気がちな私にまだ怒りの炎を目にたたえていて、しかし、手を差しのばした私に何の反抗もすることもできない。
 人魚を裏向けて、足裏のゼンマイをくるくると巻いてやる、そうすると、人魚が歌を歌い始めた。その音色に、娘はようやく私に気付いて、しかし、演奏を止める気配はなく、人魚の歌に演奏を合わせはじめる。人魚の歌と、娘のピアノとが交じり合い、私はその小さな演奏会に、しばらく耳を澄ませる。
 人魚の歌が終わると、娘は演奏を止めて、私を見つめた。その目はやはり大きく、私を射貫くような光が水晶の中にきらめいている。それを見つめていると、やはり娘はオルゴール人形のように思える。すると、娘は私に会釈して、ほほ笑んだ。そうすると、人形の中から人間が立ち現れるようだった。私も会釈を返して、立ち上がると、娘に握手を求めた。差し出された娘の手はとても小さいもので、先程の演奏が、この小さな指先から生まれているのに、私はおどろいた。
 娘は、両親と共にこのヴィラに泊まりに来たそうだが、その両親の姿は見えない。なんでも、東京からこの高原にピアノの発表会に訪れたとのことで、娘だけ前入りで、明日両親が来るとのことだった。
 そう言いながら、娘はピアノを弾いて見せた。それは、バッハのフーガであるが、その曲調に私はまた堀の『美しい村』を思い出した。そうして、私の恋していた娘も、また音楽を奏でていたことを思い出して、その感傷が心に差し込んだ。
 娘は、ピアノを弾きながら、歌を歌い始めた。曲はいつの間にかさらりと変わっていて、『花瓶』という邦楽だと言う。突然の歌声に私はおどろいて、しかし、その声の清らかなことに胸を打たれるようであった。まだ声変わりもない少年の美しさがその声にはある。感傷的な歌詞とは裏腹に、娘の純潔なのが浮き立つようである。
 娘はピアノを弾き終わると、庭を見に行くと言って、立ち上がった。それならば、タリアセンまで足を伸ばさないかと私が提案すると、娘の顔はぱっと花やいで、さっそく用意すると、部屋まで戻った。
 娘を待つ間、ソファに腰を下ろしていると、オルゴールの奏でるまぼろしの音が聞こえはじめた。顔を上げると、人魚が私を見つめている。私は伏し目がちになって、床に敷かれた薔薇色の絨毯を見つめた。薔薇色。私は薔薇色に囚われているように思える。薔薇にはさまざまな色があるけれども、しかし、それは女心のようでもある。
 薔薇色を黒く染める影が私に差して、顔を上げると、真っ白なサンダルに履き替えた娘が佇んでいる。私は立ち上がると、タリアセンまでの道のりを、銀杏並木の下をくぐり抜けながら、娘に色々と説明をしながら歩いた。私はここでは娘より幾日か先輩であるから、娘も私の言うことに、年頃の少女らしい懐きようで、何度も頷いた。
 高原は秋の風のせいか、少し寒いほどに思える。娘のワンピースは何度もはためいて、それが町をさらにきれいに洗った。
 タリアセンは山並みよりも紅葉に彩られていて、火の祭りのようである。しかし、音はなく、風音と、水音と、野鳥の声だけである。タリアセンの中央を彩る、鏡のような湖。
その湖の鏡に、睡鳩荘が揺らめいている。あれが、ジブリの映画の『思い出のマーニー』の洋館のモデルだと言うと、娘は声を上げて、その景色に魅入った。鏡に、娘も映っている。水の透き徹るようなのに、黄や赤色の葉が生命のしるしのように映り込み、そうして、その中でも一際、娘のワンピースやその白い肌が、作り物めいているほど、美しいのだった。
 娘はしゃがみ込み、微鳩荘を見つめ続けた。そうしているうちに、眠たくなってしまったのか、娘の白いほほが薔薇色に染まり始めて、それは耳にまで波及した。漏斗のような耳の形のいいのに、私は何も言わずにただそれを見つめる。そうして、その意識が自分の耳の形に映ると、私も眠たくなるたびに、耳が熱を帯びて赤くなることを思い出した。それをからかって、あの東京の娘が、私の耳で遊んだこと。その指先が、私のうなじに映り、刈りあげた髪を撫でる優しい手付き。その聯想から、今目の前にいる娘の指先が湖面に触れるのを見るにつけて、その指先が動くたびに、水面が鍵盤に見立てられて、水のピアノが音を立てた。そうして遠く、ピアノにドラムの音が重なる。遠いようで近いメロディ。
 私は紅葉で染まった道を行きながら、娘にさまざま建物を紹介してやった。一つは、『美しい村』の堀辰雄の1412番山荘。また、有島武郎が波多野秋子と心中した、浄月庵。
 そうして道を進んでいくと、イングリッシュローズ・ガーデンが目の前にあらわれる。しかし、イングリッシュローズたちは、花の盛りはもう過ぎたからか、茨と葉を残して、緑の叢になっていた。娘は残念がったが、しかし、これが薔薇の本来であると、私には思えた。
 そうして、娘はその叢の横に小さく咲き誇る、コスモスの花に目を留めた。秋のさくらを掌に乗せて、娘はその愛らしい姿に小さく息を吹きかけてやる。そうすると、あの庭師とはまるで違うやわらかい掌の上で、コスモスが笑うようである。私は叢に腰を下ろして、その姿を見つめ続けた。
 娘と二人でタリアセンを回るうちに、次第に日が暮れ始めていた。もう冬すらも近いのだと私には思えた。この花迷宮の中を、もう少しの日が経てば、雪が白く染め上げるのだろう。しかし、この娘は、雪の中にあっても、美しい花を咲かせるような温かみに充ち満ちているように見える。
 娘は私を見つめると、
「明後日の発表会、来てくださらない?」
と招待状を私を招待した。私が頷くと、この娘はまた何もない場所で、指先を動かして、ピアノを弾く素振りをしてみせた。そうして脣を何度も開きながら、まぼろしの歌を歌った。

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