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ふたのなりひら

1-5

「髪の毛は伸ばさないの?」
尋ねられて、森はかぶりを振った。自分の特性が、どちらかというと、男に寄っているからだろうか、前髪はきれいにまっすぐに調えて、後ろ髪はきれいに刈りあげている。それでも、娘と間違えられるほど、森は美しい目をしていた。鏡に映る自分を見るたびに、山猫めいて見えるのが苦手だった。そうして、隣でそう呟く恵は、狐めいている。動物に例えると、男も女もないものだが、そのように例えるときのみ、皆が同じ土俵にいるように思える。
「髪を伸ばすと、女みたいに見える。」
「化粧を教えるよ。そうすれば、かわいく見えるよ。」
「今は子供だから。」
森はそう言って、立ち上がると、リビングに向かった。外はよく晴れていて、森の絵が、世界的な芸術家の横に貼られている。それは、蝶々の絵だった。相馬の好きな、ウスキシロチョウである。五年前に描いた絵で、拙い色が、却ってアートに見えて、森は気に入っていた。それは、美しいまでに調った蝶々だった。その横には、ガリレオ・ガリレイの描いた月の絵の模写が飾ってあった。これも森が描いたもので、月の灯りがウスキシロチョウの羽根に似ていると思ったのだ。
 恵がリビングに来て、森の肩を叩いた。そうして、二人は中央に向かい合うと、今日の授業を始めた。授業と言っても、もうとりとめもない話が大半だった。語学、数学、歴史、生物学など、様々なことを教えてもらったが、しかし、やはりそのほとんどは会話へと変じていく。恵は、もう森には母のようなもので、五年に渡る歳月で、フタナリヒラとしてのほとんどを、教えてもらったように思える。
 何よりも、父の相馬といるよりも、恵といる時間の方が長いように思える。恵には、自身の身体の性徴に関して、聞けば答えが返ってくる。それが、彼(彼女)の心を安定させている。
 なんの化粧もない素肌で、恵は森を見つめる。それもまた森には鏡で、顔が動くごとに、女の色から男の色へと、男の色から女の色へと変わっていく。印象に余白があって、紗がかかっている。
「それは私の特徴かもしれない。」
恵はそう言うと、両腕を伸ばして、大きく欠伸をした。
「私の性徴かもしれない。狐みたいだからね、化かしてるんだよ。」
「僕も同じようなものかな。」
「森はもっとはっきりしているよ。森はそのままお稚児さんが大きくなったみたいだ。理想的なフタナリヒラでしょう。」
「そうかな。女の子みたいだよ。」
「女の子でもあるでしょう。森はいくつになった?」
「十。」
「かわいい盛りだね。」
森はそう言われて、複雑な思いだった。そうして、今度は庭を見る。竹林が揺れていた。風が強いようだった。
「化粧を覚えれば、もうただの女の子に見える。私だって、化粧にはずいぶん助けられている。」
「僕は男になりたいんだよ。」
「どうして?」
「どうしてか……それはわからないけれど、そう思うんだ。」
「森の心は男に傾いている。そういうわけだね。」
森は頷いた。改めて、恵の顔を見てみる。細い眦が童子のようで、脣の赤いのが映えた。
紗がかかるとはいっても、女めいて見えるのは、森に羨ましい。はっきりとしたフタナリヒラだ。森は、自分が女のように見えるのが、ここ最近はとくにいやだった。
「李先生はきれいだ。」
「ありがとう。うれしいよ。」
「僕も、そういう風になりたいんだ。」
「男らしいフタナリヒラね。」
森は頷いた。そうすると、恵は胡座をかいて天を仰いだ。
「李先生、僕たちは、妙なものだね。なんか揺らいでるね。」
「そう、とりとめもないね。」
「先生は怖くならないの?」
「どうして怖くなる?」
「自分の、立ってる場所とか、わからなくならない?」
少し早い思春期だろうかと、恵には思えた。フタナリヒラは、普通のジェンダーとは異なるから、様々な体験、性徴の変化を感じる故だろうか、心の成長も早い。もちろん恵も、今の森の年頃には、潮があって、精通もあった。しかし、何の意味もない、ただの生理現象である。
「森くらいの年頃なら、必ずなるよ。心配いらない。」
森は黙った。森のほほは朱くなって、愛らしい。
「賽の河原だね。」
恵はのど仏を撫でながら、独りごちた。
「さいのかわら?」
「私たちのことだよ。美しい、賽の河原の子どもたち。石を積み、鬼が顕れ、崩される。」
森は不思議そうに、目を細めて、恵を見た。
「それはなあに?」
「地蔵和讃。森は、識らないだろうね。私は、先生に、ああ、私を教えてくれた、普通のお医者様に教えてもらったんだ。忍辱慈悲の御肌に 泣く幼子も抱き上げ なでさすりては地蔵尊。」
森は小首を傾げた。錫杖の鈴音が彼女(彼)の耳にだけ聞こえる。
「雌雄モザイクの話はしたね?」
「パパも持ってるよ。」
「そう。あの雌雄モザイクの生き物のように、半分に、綺麗に分かれていたら、よっぽど楽だったかもしれないね。」
森は、男と女が右半身と左半身できれいに繋がっている姿を想像して、ぞっとした。
「人間はホルモンバランスのせいで、あのような姿形にはならない。だから、私たちには隔てがないんだ。」
「それはいいことなの?悪いことなの?」
「どうだろうね。辛くはあるけれど、でも、人に好きになってもらえるだろう。」
恵はそう言うと、そっと目を伏せた。感傷的なことを口走ったことに、虚しさが募った。そうして、リビングに置かれた本を手にとって、森を促した。今読んでいるのは、スティーブンソンの宝島だ。向かい合って、読書をする日もあった。基本的に、地の文は恵が読む。そうして、会話文になると、互いに読み合うのだが、森は地の文が好きだった。物語を聞くのが好きだったし、何よりも恵の声を聞くのが好きだった。低い声を聞いていると、落ち着いてくるのだ。その声は父親めいていたが、母親の語り口だった。
 読書が終わると、その後は語学や数学に移行するが、天気の良い日などは、庭に出て絵を描く。音楽や絵画や彫刻などの、芸術の素養こそが何よりも大事なのだと、恵は考えている。それは、先生によっては異なると、そうも話した。たまたま、恵の先生が、美術や音楽を愛していたのかもしれない。そうして、森はたくさんの絵画に囲まれていて、自分に絵の才能はないのだけれど、描くことや見ることは楽しかった。
「何が美しいのかっていうのは人によって変わるけれどね、私は絵が好きね。数字が好きな人もいる。あなたのお父さんは蝶々でしょう。」
恵の言葉を聞きながら、森は自分の中に音楽が流れているのが聞こえた。それは、プロコフィエフの『ピーターと狼』である。楽聖の作った子供のためのオーケストラで、犬や猫や鳥、それから狼やピーターなど、登場するものたちが全て、それぞれの楽器で顕される。ある日、恵の携帯が鳴って、その着信音が『ピーターと狼』だった。それを聞いた時は、丁度、この家に泊まった日だったように思う。美しいメロディで、動物たちが音を通して森の前で物語を紡いだのだ。森は、自分がピーターだったのなら良かったと思う。それならば、何も気にすることもなく、動物たちと音に塗れて戯れていられるのだから。

キャラクターイラストレーション ©しんいし 智歩

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