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セイレーンの顕れ

前編

 海鳴りが聞こえていた。それは巨獣かなにかの歌、或いは貝殻の鳴き声を思わせた。計は、部屋をぐるりと見回した。たくさんの人形が置かれている。それら全てはアンティークの人形である。その人形たちの視線は、全てが計に注がれている。
 ブロンドの少女や、蛇遣いの少女、置かれている人形のほとんどは少女たちだが、その中にはいくつか少年が交じっている。少年と少女の人形が、部屋を満たしている。それらは、部屋に置かれたグランドピアノの上にまで浸食していて、しかし、目の色は冷たいのである。その中のひとつに、狼を従えた少年がいた。少年は、瑠璃色の服に身を包んでいて、膨らんだほほに挟まれて、真っ赤な脣が光っている。それは、どうしても欲情的な色にも思える。
「ピーターと狼だよ。」
振り向くと、ほほの痩けた、青白い目をした老人が立っていた。色素が薄いのか、肌色もどこか透けて遊絲のようで、死者の国の匂いだった。
「膨大な数ですね。博物館を開けそうです。」
計が人形を見つめながら呟くと、老人はほほ笑んだ。老人が蒐集家だと噂には聞いていたが、これほどのものとは計も思っていなかった。老人は、少年少女に囲まれた聖職者か何かのように、或いはサンタクロースのように、ピアノに腰を下ろすと、計を見つめた。
「本宮計君だね?」
計は頷いた。そうすると、老人は計の目をじっと見つめた。
「君の詩をいくつか読んだことがある。」
「ほんとうに?どこでですか?読める場所なんて、そうないですよ。」
計の言うように、計の詩や散文などは、ほとんどが好事家の読む文芸誌の片隅に載るくらいのもので、計自身、名のない詩人の一人に過ぎなかった。
「花や妖精の詩を書いていたろう。」
「ええ。詩を嗜むんですか?珍しい趣味ですね。」
計は棚に乱雑に積まれているようで、しかし、宇宙に並ぶ宝石のように緻密に配置された人形たちを見つめながら呟いた。
「少し前、今から十年ほど前、君の詩もそれなりに評判だった。もちろん、そんなに大きな世界ではないだろうが。」
「小説よりも小さな世界です。でも、小さくても無限でしょう。」
計が応えると、老人は頷いた。そうして、ピアノを弾き始めた。しかし、その指先は拙く、節くれ立った指はひどく鍵盤を困らせて、少年少女もみなが顔をゆがめた。計は部屋の片隅に置かれていたソファに腰掛けると、老人を見つめた。生物学の権威で、人形の蒐集家であるという男と、今ピアノに悪戦苦闘している老人は、どうしても結びがつかなかった。盲しいている。そのような印象を受けた。
 日が暮れ始めていた。部屋の中には闇が覆い被さり、人形たちの目は輝きはじめた。それは星々がまたたくような光だった。そうすると、計にはこの部屋がやはり宇宙を描いた地図に思えた。宝石の散らばる星図だった。老人はピアノを操る手を止めて、
「教師の仕事はどうだね?」
「子どもを教えるのは大変です。忍耐のいる仕事だから。」
計が応えると、老人は笑いながら立ち上がって、ランプに火を灯した。そうすると、部屋に温かみが差して、ビロードの絨毯がきらめきだした。
「君は優秀な家庭教師だそうだね。」
「教え子が優秀なんですよ。」
計は皮肉めいた口調で応えると、麦わら帽子を被った人形に手を伸ばして、そのほほを撫でた。おしゃまな人形はほほを赤らめた。
「謙遜は人間の美徳のうちのひとつだよ。」
老人はそう言うと、部屋の隅に置かれていた電話に手をして、「ここに来るように」と、小さく呟いた。受話器を置くと、老人は計を見つめて、
「情操教育についてはどう思う?」
「芸術に囲まれていても、芸術的な感性は育たないでしょう。芸術は教えられるものじゃないですから。」
「芸術家の先生でもか?」
「もちろんです。芸術の先生は、自分で見つけるものですから……。でも、触れ合いが増えれば、その分それが芽吹くことはあるでしょうね。でも、あいにくなことに僕は芸術家じゃありませんから、仮に僕が娘さんを教えたとしても、芸術家に育てることは難しいでしょうね。娘さんを詩人にでもしたいのなら、ここは最高の環境でしょうが、都会の喧噪の中にも、汚濁の美がありますから。」
計がそこまで言うと、ドアをノックする音が聞こえた。はじめ、ドアが開いて入ってきたのは、人形だと計には思えた。それほどまでに白い肌で、雪で化粧をしたかのようで、脣には薔薇が咲いているのかと思えた。少女は、開いたドアの隙間からその顔を覗かせて、計を見つめた。黒い弓のように立ち並んだ睫が、天に向けて放たれるようだった。そうして、瞳も冷たいほどに黒くひとつの星のようでもあり、夜空だった。
「恵だ。」
恵は計を見つめて、かすかに会釈をして見せた。計もそれに倣った。恵は、白いブラウスと、紺色のスカートをはいていて、足は蝋作りのようで、チュチュのような赤い靴を履いている。おろし立てのバレエ人形を思わせて、ブラウスやスカートの襞が、恵が歩くたびに揺らめいて無限だった。
 恵が所在なくそこに立っていると、
「一曲弾いてあげなさい。」
老人に促されると、恵は先程まで老人の座っていた椅子に腰を下ろして、鍵盤に指を這わせた。ひとつひとつの指が、白蛇のように滑らかで、鍵盤の色と溶けあい水の中を泳ぐようである。恵が指先を動かすと、音色が流れた。それはドビュッシーの『月の光』である。さきほどの老人の演奏とは違うその音色に、計は耳を澄ませた。そうして、ピアノを弾く恵の横顔に、目が吸い寄せられるようだった。演奏が終わると、恵は目を細めたまま、小さくため息をついた。恵が老人に視線をやると、老人は頷いて、
「部屋に戻っていなさい。」
恵は頷いて、そのまま部屋を出ていった。そうして、扉から出るとき、振り向き様にちらりと、計を見つめたのだった。計は、ソファに座ったまま何も言わなかった。香りだけが、部屋の中には残った。
「あれは人間に見えるか?」
「彼女が先生のお作りになったという、新しい複製人間ですか。」
老人は頷いた。計は、
「芸術家じゃないですか。僕に教えられることなんて、ひとつも無さそうです。」
「音楽は嗜みで始めたんだよ。でも、色々と、たくさんのことを教えてやりたい。」
「ご自分で教えてあげればいいじゃないですか。」
「私は研究と人形にだけ没頭してきた人間でね。人形好きが高じたせいかな。草花の名前も識らないんだ。」
「僕も同じようなものですよ。僕よりも、年頃の女性を教えるのが得意な教師はたくさんいるでしょう。」
老人はかぶりを振って計を見つめた。
「あの娘はまだ子どものようなものだよ。咲いたばかりの花で、いや咲く前の蕾みたいなものだよ。幼い子どもなんだ、魂がね。」
「お年はいくつなんです?」
「外見は二十そこそこ……。魂はまだ真っさらだよ。出来てからまだ一年。本人は知らない。」
老人は目を細めた。そうして、計を見つめると、
「君にお願いしたいのは彼女の家庭教師だ。給与は一月五十万円支払おう。職務は基本的に四六時中彼女の側にいて、彼女に色々なことを教えてあげること。もちろん、寝るときや入浴は別だがね。教師兼ボディーガードと言おうか。無論ここには外敵なんかいやしないがね……。月に二度、外出の許可は与える。四日間。まぁ休暇のようなものだね。ただ、ここに籠もっていても特に困ることはないだろう。買いたいものがあれば、屋敷の主務に言ってもらえばすぐに取り寄せるし、買いにも行かせる。部屋は屋敷の三階にある家庭教師専用の部屋を無償で貸し出そう。契約は一年間。六百万円に加えて、ボーナスとして二百万円、合計八百万円のうち、契約成立次第、前金として三百万円を君の口座に振り込もう。食費、家賃、電気ガス水道は必要経費として支払うからそれも旨味の一つだよ。良い条件だろう。彼女に教えてほしい事はいくつかある。それは、君の得意な詩のことであったり、芸術のことであったり、そうして、他には生きていくために、必要な知恵や何か、基本的なこと……。」
老人はそこまで捲し立てると、計を見つめた。計は何も言わずに、人形たちを見つめていた。人形たちは、興味津々といった面持ちで、計を見つめていた。
「まぁ、一晩考えてくれたまえ。君に貸し出す予定の家庭教師専用の部屋に泊まるといい。」
老人はそう言うと、人形の一体に指先で触れた。
「たくさんの複製人間が世の中に出回っています。それは、先生の功績のひとつです。あの娘も、そのうちのひとつですか?それとも、あの複製人間は特別?」
計が尋ねると、老人は何も言わずにほほ笑んだ。そうして、そのまま部屋を出て行った。
 応接間にやって来た女中に連れられて、家庭教師が寝泊まりする部屋に向かう道中、廊下はもう暗闇に満ちて、女中が手に持つランプ以外に何の明かりもなかった。女中の顔は、ランプに照らされて、絵画を思わせた。
 長い廊下で二度ほど角を曲がる。部屋は突き当たりだと、女中が言った。暗闇に目が慣れてきても、屋敷の構図が頭に入らなかった。
 道中、廊下の窓枠から、階下の部屋が見えた。計が立ち止まり目をやると、恵だった。恵は、物憂げな横顔で、鼻筋から脣までが流れるような線だった。ベッドに腰掛けていたが、スカートからは白い足がなめらかに伸びていて、それはぴったりと二足がくっついて、尾びれのようにも見えた。ふいに、恵は計の視線に気付いたのか、目をこちらに向けた。さきほどの黒い夜空が、ダイヤモンドのように輝いて、そのまま薔薇が咲くように脣が動いて何事かささやいた。「ようこそ」と動いたように見えた。
 案内された部屋は、八畳ほどの広さで、シングルベッドと、カリモクの机が置かれている他には、何の家具もなかった。カーテンは開けっ放しになっていて、月の光が差し込んでいる。青白い光は部屋全体を洗っていて、さきほどの廊下とはまるで明るさが違う。海鳴りが聞こえた。計は、荷物を机の上に置くと、窓外を覗いた。青白い月がふたつ、向かい合うようにあった。ひとつは空で、ひとつは闇夜の海の上だった。船の上にいるようだった。あちこちに星々が浮かんでいて、窓外は全て宇宙だった。
 屋敷は岸壁に建てられていた。計がこの丘の屋敷の来る途中、長い森を抜けたが、そこは最果てで、人気もない。その人気もない海を見つめていると、月に照らされて、白い細波が立っているのが見えた。海の中には一つの岩があって、その石を中心に、海はあるようだった。音は海鳴りの他に何もなかった。耳を澄ますと、歌声が聞こえた。かすかにピアノの音も重なるようだ。恵の声を聞いてはいないのに、恵の声に思えた。そして、計の目端に、風に揺れて白いレースカーテンの襞がはためくのが映った。波間には白い泡が浮かんでは消えた。一条の白い水沫が肉体を伴って紅差したかのように見えたのは恵の脣か真白な足かそれとも歌声のせいか。計が目頭を揉んで海を見返すと、ただ静かな海面だった。しかし、星座は海に散らばったままだ。
 計はランプに火を灯して、鞄から幾冊かのノートを取り出した。それは全て、計が自分で書いた詩句を書き付けたものだった。計は、何度かその詩を自分で諳んじてみせたが、急に味気なくなって、ノートをベッドに投げ捨てた。そして、窓外をもう一度見つめた。そうすると、月と星座のいくつかだけとここにいるように思えた。それ以外は何もないように思えた。
 ベッドに腰掛けて目を瞑ると、恵の顔が浮かんだ。先ほどの、人形めいた恵。愛らしい娘だったが、人工的な美しさがなかった。複製人間は、いくらでも美しく作り上げることができる。ギリシャの彫刻や、絵画の中の美女を模すこともできる。だからこそ非人間的なまでに美しい複製人間が、世界の都市を闊歩している。それはマネキンに血を通わしたように機械的でどこまでも歪ではある。反対に、恵は、どこまでも人間の娘のようで、可愛らしい娘だった。あれが老人の個人的な何かを模して作られたことは、計の想像に難くなかった。
 計は、複製人間たちを詠った詩を思い出していた。複製人間が巷に溢れて十年が経つが、その頃に計はまだ学生で、彼らと自分との彼岸はどこにあるのかを世間に訴える、そのようなパフォーマンスに興じるつまらない青年だった。彼らの人権を願い、彼らの人権を詠った。しかし、当の複製人間たちは自らの人権を詠うことなどなかった。彼らは人間の下に甘んじていた。それが計には解せなく、その感情はいつしか彼らに対する不気味な感傷となって、彼らとの間に隔てが生まれた。計が複製人間たちから離れて数年で、彼らの数はさらに増加した。それでも、複製人間が芸術を作ることは、極めて稀であった。どのような苦境にあっても、芸術を作ろうとしない者たち。

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