見出し画像

セルロイド製ピーター・パン ①


ピーター・パンはセルロイド

青いお月さま食べた

ピーター・パンはセルロイド

白詰草の花冠 おつむりかぶせて美少女モンロー

ピーター・パンはセルロイド 天國色の美少年

天井桟敷の観客たちは、彼は自分たちと同じ天使だと、

そう喝采を上げました。


上/天國燐寸


ネヴァー・ネヴァーランド。識ってる?

詩杏(しあん)の唇から溢れた言葉を、都南(となん)は拾って飲み込んだ。お星さまの味がした。詩杏には、天の河よりも、たくさんの星が流れている。
都南は、詩杏の夢想に付き合うのが日課だった。詩杏は、様々な事を識っている。いつも、都南にいろいろな事を教えてくれる。

都南ってさ、ピーター・パンだよね。

ピーター・パン?

詩杏は微笑んで、頷いた。詩杏は、本棚から洋書を取り出すと、それをパラパラと捲りながら、何度か瞬いた。都南がそれに見惚れていると、急に顔を上げて、

都南のまつ毛、女の子のみたいだね。

そう言って、微笑んだ。都南は赤くなって、それは絵本の王子さまのように、愛らしいのだった。詩杏は、そっと指先を都南のまつ毛に乗せて、それはゆっくりと、彼の二つ旋毛のおつむりへ、それから項へと流れていく。詩杏は、都南を抱くようにした。都南は詩杏の心臓の鼓動を聞いた。都南の匂いに、詩杏はひどく狼狽したようで、然し、落ち着きを取り戻すと、また頁を捲る。

ピーター・パンは大人にはならないの。

どうして?

さぁ。子供でいるのが楽しいのかな。

遊んでいられるから?

たぶん。だって、私達も、こうしていたい。ねぇ、そうじゃない?

うん。こうしていたいな。

都南に、詩杏は僅か一つ上の姉のような存在だったが、然し、母親のようでもある。そして、兄のようでもあって、然し、父のようではなかった。なぜなら、御伽めくほどに美しい少女であったから。
 都南は、挿絵を見ている内に、うとうとと、夢に落ちていきそうになった。革張りの、美しい本で、父の書斎を思い出していた。あれは、確か、この部屋、まだ、都南が二つか三つの折の神話の人物だった時代、幽かに開いていたドアを開けると、窓外いっぱいに、菫がかった五月の夕方が広がっていた。vrrrrrrrrrrと、飛行機のプロペラの音が聞こえたような気がする。空模様は、だんだんと、青が降りてきていて、月がうっすらと近づいてきている。絹のカーテンが揺れていて、椅子には父が、舟を漕いでいる。都南の姿に気づいた様で、目を開くと、微笑んで、

こちらに来なさい。

都南は頷いて、父の元へと歩み寄ると、抱きかかえられた。父は都南のおつむりの匂いをいっぱいに嗅いで、次いで、パイプを咥えると、胸ポケットから燐寸を取り出した。愛らしい少女が描かれた箱で、漢字で何かが書かれている。

天國燐寸と書いてある。

天國燐寸?

父は燐寸を取り出すと、その蚕の繭めく美しい穂先を箱に擦り付けて、ぼうっと火の輝きが、菫の空に瞬くと、月を飲み込んだ。都南にそれは、星の生誕に思えた。

何か読んでやろうか。

そこで、何を読んでもらったのか、記憶が途切れている。ただ、父の匂いだけが、あの、火を抱えたセルロイドパイプの匂いだけが、天國という言葉と重なっている。都南は目を開けると、詩杏は窓外を見ながら、歌っていた。昔、どこか、レーディオで聞いたことのあるような、遠い曲、七理紫水……。

目にはさやかに 見えぬどそれは

連ねる電線(せん)も 建つる柱も

浪路遥かに 隔つる消息(たより)

いかに送るか 奇しき機械

起きたの?

寝ていた?

うん。少しだけ。歌っても、気づかなかったね。

歌ってくれていたから、寝ちゃったのかも。

気持ちよさそうな寝顔。

パパを思い出してた。

都南はそう言って、詩杏から離れると、立ち上がって、制帽をかぶった。

もう帰るの?

うん。もう、遅いから。

外に出ると、果たして暗闇だったが、その分、空には満天のお星さま。詩杏は送るよと、制服のまま、都南の隣を歩いた。来年、詩杏は一足先に中学生になるが、それは、詩杏が大人になるということだろうか。都南はちらりと、詩杏の横顔を盗み見た。詩杏の唇は、何か濡れているようで、都南は戦いた。そうして、いつの間にか、彼女の方が背が高い。胸も少し膨らみ始めていて、明確に、自分と隔てがあった。十二を過ぎれば、男と女は一緒には遊べない。そう、聞いたことがある。詩杏はもう十二で、都南はもうすぐ、十一になる。

お月さま。

その声に、都南が見上げると、巨大な月が今にも空から転がり落ちてきそうだった。

それじゃあね。

詩杏は、歌うようにそう言うと、月の中へと走っていった。都南は黙ったまま、その後姿を見つめていた。
 
自宅へ戻ると、ランドセルを放り投げて、ソファに寝転んだ。まだ、母は帰ってきていない。
都南は起き上がると、父の書斎へと向かった。書斎には、様々な本、蝶や蛾の標本が置かれていて、都南は、それを静かに眺めた。カーテンを開くと、ガラス越しに、外の白い街頭がじっと光っている。その周りを、夏至の陽に灼かれた蛾が飛び回っている。生と死が、この部屋と外とで隔たれている。
 カーテンを閉めると、書斎に置かれたデスクの抽斗を開ける。一段、二段と開けていくと、三段目を開いて、都南は、あっと、声を上げた。あの、燐寸である。天國燐寸と書かれた燐寸箱。あのときのままの愛らしい顔立ちで、少女は微笑んでいる。都南はそこから一本だけ燐寸棒を取り出すと、火を点ける。ふっと、青い月差す夜空を映すその窓に、幼い父が立っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?