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没後弟子

というと、西村賢太が思い出されるが、あれは西村賢太の造語なのだろうか。その人が亡くなった後に弟子になるから、没後弟子なのだが、西村賢太は藤澤清造の没後弟子を自称している。

西村賢太はめちゃハマり症な人なので、以前は田中英光に傾倒していて、故人の親族とまで親しくしていたが、これが仲違いがあったようで、疎遠になっている。その際に、文学館に英光関連の資料を一括で800万円くらいで引き取ってもらったという話が私は大好きである。

そうして師を失った西村氏は藤澤清造に辿り着く。
藤澤清造の文体も吸収している西村氏の文体はまさに俺ジナルで、最高に面白いが、藤澤清造は生前は全く売れていない、無名に近い作家で、その末路まで悲劇的である。彼は弟子の西村氏によって、文学史に蘇生させられた訳で、没後弟子としてこれ以上の孝行はないだろう。

西村氏のお陰で、『根津権現裏』や短編集まで編纂された。西村氏は全集の刊行を目標としているが、これは足踏みしている状態のようだ。
ただ、西村氏の場合は、師匠を圧倒的に超えた実力を持っているわけで、本人も、既に成功していてしまっているから、最近の作風にはその懊悩が見て取れる。

後れてきた世代にはこの問題がある。
要は、尊敬できる人が既に死んでいる問題である。やはり、偉大な故人は最強なのである。無論、先人たちの同輩たちが遺してくれた様々な著作で、その活躍ぶりがアーカイブされているわけだから、情報収集には事欠かず、その点は大変ありがたい。けれども、肝心のその人が、もういないわけである。
私なんかもそのクチで、現在を生きている作家さんで特に尊敬している人はいない。
ここでいう尊敬とは、魂を持っていかれる程の作品を書かれている、という意味においてであるが。でも、キリスト教なんかも、簡単に言えば信者は没後弟子みたいなものだろうか。

目標とする人間が生きていて、その人と接することが出来る人は幸せである。



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