薔薇の踊子
1-16
公武からの返信が来たのは、翌日の昼を回っていた。そうして、そのLINEには、昨日川端が話していたとおり、『白鳥の湖』のお誘いがあった。
〈新幹線で行って、それから帰りは夜行バスだ。〉
そう書かれていて、恵は慌てて財布を開くと、中には一万円もない。加奈子に借りることなんて出来ない。それから、公武に借りるのも恥ずかしい。柚希だって、そんなお金はないだろう。いくらかかるのだろう。早く返信しないと、もうずっと既読になっていて、そんなことが、恵には焦りに変わって、耳先が熱くチリチリとした。すぐに絵里奈にLINEを送ると、
〈貸してあげるわ。昼休み、食堂に来られる?〉
恵はすぐに御礼のLINEを打つと、今度は公武に返事を返した。
どれくらいかかるのだろうか。チケット代も考えると、四万円、もしかすると、五万円くらいかかるかもしれない。くらくらとした。そう言えば、昨日のエイフマン・バレエだって一万円以上したのだ。それをタダで観られたことの幸運と、川端への申し訳ない気持ちが生まれて、そうして演劇や踊りというものが、無論それはコール・ド・バレエのように、複数のダンサーや音楽家、それから裏方のスタッフというものがいるのは当然だけれども、観るだけでも莫大なお金がかかる、そのような芸術であることを、恵は今更ながらに感じた。それであるのならば、そのお金を取っても満足させられる程の踊りを踊れなければ、やはりバレリーナとは言えないだろう。そう考えると、恵は身震いしてきた。お金をもらって舞う公演は、絵里奈は何度も出ている。恵はほんの端役でしかなかったから、その感覚というものがまだ今ひとつ実感は出来ないが、しかし、それはもう目と鼻の先に来ていると言っても、過言ではないだろう。
スマートフォンが振動して、公武からのLINEだった。
〈気にしないで。新幹線代も出すよ。〉
恵はすぐに、
〈悪いからいいって。自分の分は自分で出します!〉
そう送ると、次はスマートフォンの電卓で、新幹線代を逆算する。三万円ほどかかりそうだと絵里奈にLINEすると、すぐにわかったとの返事が来た。
昼休み、絵里奈は食堂で待っていて、恵を認めると手を振った。学生服だと、一つか二つ、子供じみて見えて、同い年のようだ。
「はい。お金。」
財布を取り出すと、そのまま一万円札を三枚取り出して、恵は慌ててそれを隠すように促して、周りを警戒して見回した。
「シスターに見つかったら事だわ。」
「大丈夫よ。こういう取引はね、逆に堂々としていると、疑われもしないものよ。」
絵里奈のその論理はわかるけれども、恵はため息をついて、
「ありがとう。でも、シスターを甘く見てはいけないわ。」
きょろきょろと四方を見て、自分の懐に三万円を仕舞うと、絵里奈と向き合って、ほほ笑んだ。
「いつ行くの?」
絵里奈の質問に、恵はかすかにほほを赤らめて、
「次の日曜日。」
「観劇づいてるわね。」
「でも、お母さんに何て説明したらいいかわからないわ。前の、エイフマン・バレエだって、まだ言っていないのに。」
恵は、その言い訳をするのにも、頭を悩ませていた。しかし、絵里奈は悪びれもせずに、
「内緒で行ったらいいわ。駆け落ちよ。そのまま帰ってこないっていいじゃない?」
「そんな、冗談じゃすまないわ。」
「そして心中する。」
「馬鹿みたい。」
「大丈夫。私、東京の木野村バレエ教室に、お友達がいるわ。その娘に話を合わせてもらいましょう。」
「ほんとう?嬉しい。ありがと。」
絵里奈の言葉に、恵はぱっと明るくなった。
「何か、踊りのヒントになるといいわね。」
絵里奈はそう言うと、立ち上がって、そのまま食堂を後にした。恵はそのまま天井を見上げて、均等にぶら下がっている、フランク・ロイド・ライトの設計のライトを見つめながら、その円い橙の鈍い灯りが、日のようだと思えた。そうして、目を閉じると、娘たちが遊ぶ声が聞こえてくる。
公武に友達が少ないと、川端が言っていたのを思い出す。宇賀神の男子生徒は、およそ七百人ほどで、明日塔の三倍に近いが、その大勢の男子生徒の中でも、公武は浮いた存在なのだろうか。公武はローザンヌのバレエ学校でも、浮いていた記憶を話してくれたが、彼は複製人間である。彼は、今がまだ八歳で、あの今校庭の芝庭から聞こえてくる小学部の少女たちよりも幼そうだ。それだというのに、あの少女たちのような声を上げて遊んだ記憶はない。ただ、彼に対抗心を燃やした娘の瞳だけを、思い出として捉えている。
声がだんだん遠くなって、気付くと恵は食堂で寝ていた。起きると、シスターが三人集まって、何やら話をしている。それは、初め恵のことを話しているのかとぼんやり思えたが、関係のない、何か西洋の絵柄のタピスリーを持って、それをどこに掛けるかの相談のようで、急に先程の三万円が無くなっていないか、慌てて懐に手を伸ばした。それが胸元にあることを確認すると、椅子から立ち上がり、食堂から出る。
小階段を下りると、ホールに出た。小さなホールだ。このホールで公演する。初めはワクワクしていたが、せいぜいが五十人入ればもう満員だ。
(こんなに小さいところでいいのかしら。)
恵は、簡単にステップを踏んだ。そうして、自分の身体が、前よりももっと羽のようなことに気付いた。
日曜日は、公武の屋敷に集合して、そのまま川端に神戸まで送ってもらった。絵里奈が、木野村バレエ教室の友人に手を回してくれたおかげで、加奈子は特に怪しいと感じなかったようだ。新幹線に乗ると、窓際に座った公武はすぐに眠ってしまって、恵は一人、スマートフォンでつまらない時間を過ごした。そうしていると、京都を超えたところで、公武が何かを呟いているのが耳もとに入ってきて、恵は寝てしまったのだと目を擦った。
「どうしたの?」
「いや。京都だね。」
「よく来るの?」
「たまに。御父様の骨董品漁りの付き合いでね。岡崎や、下鴨。詩仙堂にも行ったけれど、美しいね。」
岡崎と下鴨は、昔家族で旅行に来たことがあったことを思い出した。夏の南禅寺で、紅葉が青く濡れていた。
「おじ様、この前エイフマン・バレエに連れて行ってくださったわ。」
「ああ。聞いたよ。どうだった。」
「素晴らしかったわ。みんな背が高いからかな。特にフェッテがね。大きいのよ。」
恵は思わず手振りで説明しようとして、慌てて止めた。そうして、
「すごく簡略化されていてわ。だんだんだんだん、主役の三人にね。それ以外は、顔も見えないみたい。」
「それはマシュー・ボーンとの違いかもしれない。彼はアンサンブルのキャラクターに大分演技をさせるだろう。過剰装飾というかね。」
「過剰装飾?」
「マシュー・ボーンはコメディの要素もたくさん入れるし、画面を作り込むね。だからまぁ、誰が観てもある程度楽しめるわけだよ。退屈しにくい。でも、エイフマンは逆だね。とことん身体で遊ぶだろう。そして説明がない。演出家の違いで、作品の色合いががらりと変わる。」
公武がすらすらとそう言うと、恵は何も言えずに、ただ彼の顔を見た。
「『白鳥の湖』も何十回と観てるから、今日は初めて生で観るから楽しみだよ。」
公武はそう言って、また窓の外を見つめた。
「詳しいよね。やっぱり、演出家でバレエは変わるの?」
「まるで変わる。踊り子で変わることもあるけれど……。バレエ・リュスも、あれは同時代の天才が特異的に集まったっていうこともあるだろうけれどね。」
「公武さんが演出家を気にするのは、やっぱり振付家になりたいから?踊るだけじゃいあや?」
「いやではないけれどね。ただ、僕は除け者だろう。」
公武は、今度は恵を真っ直ぐに見つめてそう言った。恵は目を逸らせずに、そのまま彼を見つめたまたで、
「そんなことないわ。誰がそんなことを言うの?」
しかし、虚ろな目である。虚ろな目で返答をして、虚ろな目がまた言い返す。そうして、公武の目の虚ろさは、黒い湖のように澄んではいるが、底が見えない。それとも、底がないのか。
「僕は複製人間だ。だから、除け者だよ。全員が同じような目をして僕を見ている。目は口ほどに物を言うって、上手いこと言うなと思うよ。誰もそんなことは僕に言ってはいないが、目がそう言うんだよ。」
恵は何も言えずに、しかし、公武の目に、かすかに透明な一滴が隠れているように思えた。しかし、それは自分のもので、公武のものではないのだった。一滴頬を伝うと、公武が困ったようにほほ笑んだ。
「ハンカチ、持ってないんだ。」
「いいよ。男子は持ってないよね。」
そう言って、ティッシュを取り出すと、恵はほほを拭いた。
「除け者だから、振付家になりたいの?」
「振付と、演出は、チームの動力だろう。僕は、僕の家族を作りたいのかもしれないね。」
公武はそれだけ言うと、天を見上げて、そのまま目を瞑った。恵の心は、哀しいのと、嬉しいので、体中を転がった。
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