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小説 ふたのなりひら①

キャラクターイラストレーション  しんいし智歩 

両性具有をテーマにした小説です。

心臓を潰す。この瞬間が、恍惚でもあり、そうして、心苦しいのが、相馬が採集に惹かれる理由かもしれなかった。
 蝶々の採集である。相馬は、微睡みの中、自分の指先が潰したであろう、幻の蝶々の、幻の心臓の感触を指の腹で感じていた。蝶々の水飲み場で、人間に対して、何の恐怖も警戒も感じていないその小さな生き物を、指先で捕まえて殺すのである。先程まで、ひたひたと上下していた羽根はもう羽ばたきを止めて、からくり仕掛けの模型と化す。その羽根を、陽に透かして、黒い太陽を見つめた。相馬は、三角ケースから三角紙を取り出すと、その蝶々の遺骸を、丁寧にしまってやった。
 あれは、どこだったかな。相馬は、寝ぼけなまこで、気持ちの良い、死の余韻を指先で弄びながら、そうだ、あれは台湾だった。台湾で採った、ウスキシロチョウだ。あれは、滅多に捕まらないから、よく覚えている。相馬は目を上げて、壁を埋め尽くす、蝶々の標本箱の一群の中から、その一頭のウスキシロチョウを認めて、しばらく、それに魅入った。とても貴重なものだったから、一つで箱を占有している。
 なぜ、今あのような夢を見るのか。そうだ、俺は恐らくは退屈しているんだ。そう、結論付けると、立ち上がって、蝶々の標本箱の一つ一つを見つめた。様々な色が、模様が、相馬の目に飛び込んでくる。極彩色の天国である。そのたびに、彼の目色は彩りを変えるが、しかし、今日の相馬に、夢の中でも見たウスキシロチョウはなお鮮烈だった。雌雄モザイクの、遺伝子の異常で作られる、左右非対称の紋様。しかし、その異常が美しいのである。日本には、沖縄か鹿児島にしかいない蝶である。台湾旅行に赴いた時、この蝶々を手に入れることは、彼に目的の一つだった。
 台湾の南山渓の果樹園で、この蝶々をいくつもの羽根の中に見出したとき、心拍数が跳ね上がった。数百万に一頭の割合である。相馬は虫取り編みで、その目当ての一頭を慎重に捕らえると、羽根を、異常のあるその羽根を傷つけないように、優しく心臓を潰した。簡単に死んだ。
 その感触が、今も相馬の指にある。そうして、蝶を殺すたびに、相馬は小さな喪失を覚えるが、生き物の殺生にひどく傷つくその勝手な心根とは裏腹に、幾万という頭数を殺してきたものだ。マレーシア、フィリピン、タイ、台湾、韓国。アジアの蝶は、取り尽くしたかもしれない。華美な趣味だと人は笑うが、彼自身には、快楽殺人者と変わらない、無機質の果てだと、自分を隔てて見てみると、そのように感じるときもある。
 相馬は微かに開いたカーテンから差し込む陽の光から逃げ込むように、そっと部屋を閉め切った。そうして、クローゼットからストライプのスーツを取り出すと、それを羽織り、部屋から出て行った。
 軋む階段を降りていくと、客の一人もいない店内が見えてくる。相馬はBOYARDを胸ポケットから一本取り出すと、脣に咥えた。古い、フランスの紙巻き煙草で、もう生産されていない。彼の好きな映画である、『ブレードランナー』のヒロインのレプリカントが吸っていた。たしか、ハリソン・フォードの演じるデッカードと同じブレードランナーのホールデンも吸っていた銘柄である。骨董の類だ。そうして、様々ながらくたの並ぶこの店の玉座に腰を下ろす。                           三月に入って、一枚も、一冊も、一つも売れていない。相馬は絵画や、古書、骨董を販売するギャラリーを営んでいた。『蝶の庭園』という店名もつけたのだが、その名前がいけなかったのかもしれないと、相馬に思える時がある。蝶々に関するものを扱う店なのだと、勘違いされているのかもしれない。
 しかし、扱っている物が特殊なのが一番の問題なのであろうということは、相馬にもわかっていた。耽美派や、好事家の好む本などは、今の世の中では全て電子カタログを開けば、その内容も、質感も、感じられる。コレクターと呼ばれる類の人種も、今は全滅危惧種なのは、それに一因があると思われた。大枚を叩くことなく、所有に近い感覚を味わうことができる。『ほんもの』を扱うのは、金持ちの道楽だった。
 相馬は、自分が度の過ぎたコレクターだという自覚はあるけれども、だからこそ、蒐集には金も時間もかかることを、よく理解していた。
(店主が煙草を咥えているのもな。)
相馬は煙草を指先に挟んで、弄びながら、改めて店内を眺めた。中村忠二のモノタイプの版画に詩画、ヨルク・シュマイサーのリトグラフ、篠原有司男の造形物。全て、数万程度の小遣いで買えるものだが、誰もが皆、財布の紐が固いようだ。
 改めて、お買い得品が揃っていると、相馬は独りごちるように頷いた。そうして、絵を観ているうちに、飽きてきて、次に採集に行けるのはいつになるだろうかと、ぼんやりと、窓外へと視線を移した。
 人影が時折硝子越しに浮かんでは消える。男、女、女、女、男。通りすがりの人々の性別を頬杖をつきながら数えていると、相馬の目に、蝶々が飛び込んできた。それは、瀕死の蝶のように、今まさに、最後の火を燃やすように羽ばたいている一頭のように、相馬には思えた。女性は、きょろきょろと、横断歩道もない車の行き交う道路を渡ろうと、タイミングを見計らっている。そうして、意を決したのか、危なっかしい足取りで、しかし、飛ぶように、道路を渡ると、向かいのアパレルショップのショーウィンドウに、マネキンと並ぶようにもたれかかった。そのまま、動かなくなって人形だった。誰かを、待っているのだろうか。
 ずっと、相馬はその蝶々を見ていた。女性は、白いワンピースを着ていて、PVCバッグを片手に、その中から色々な小物が見えたが、目を細めても、相馬には何かはよくわからなかったが、しかし、女性のその目色に、心奪われたのである。瀕死の蝶は、何かを待っているのか、誰かを待っているのか、そわそわと、辺りを見回している。
 探し人だろうかと、相馬が思うのと同時に、瀕死の蝶々は顔を上げて、相馬を見た。相馬は、その目差しに、思わず目を逸らすが、再度彼女を見ると、もう明後日の方角を向いていた。相馬に、彼女は何か、道を探しているのかもしれないと、そのようにも思えたが、しかし、携帯でナビを見るわけでもないその姿に、彼女の目的というものが見えなかった。
 しかし、まるで蝶々である。白いワンピースの裾から伸びた手先までも白いので、絹か何かのように見える。それが、ひらひらと動くのである。そうするともう、相馬には蝶々に見えるのである。瀕死の蝶々のように、危なげだが、相馬の愛して止まない、死の間際の美しさがあった。
 相馬は、硝子越しに見える彼女の身体を、指先で摘む素振りをしてみせる。片目を閉じて、照準を合わせると、その場から動かない彼女は、格好の獲物である。摘んで見せて、白い羽根を優しく撫でると、そのまま心臓を潰す。そうして、女性を三角紙で丁寧に包んで、そのままピンセットで突き刺す、その一連の流れが頭の中に鮮明に浮かぶ。相馬は、白昼夢から逃れるべく頭を振って、胸ポケットからBOYARDを取り出すと、軽く咥えた。おどろおどろしい性癖のようで、相馬は震えそうになる。そうして、また彼女を見つめていると、今度は、相馬を間違いなく、見るようだった。
 相馬に目を逸らせなかった。それは、彼女がある意味で、彼が勝手気ままに夢見た幻想そのもののような姿のままに、羽根をひらひらとさせるがごとくに脣をぱたぱたとさせているからであろう。そのさまは飛ぶようではあるが、はっと、相馬は彼女が何かを伝えようとしているのだと感じた。飛ぶように見えたその口元を観察していると、彼女はため息をつくようにして、直ぐさま彼の元へと歩んでくる。双眸がきらきらとしていて、微かにほほが痩けている。その様が、彼女を瀕死の蝶に見せたのかもしれない。瀕死の蝶という言葉が浮かんだのは、無論、相馬が大の蝶狂いであることも理由の一つではあったが、しかし、それは彼がつい最近に観た映画で、『欲望という名の電車』に出演しているヴィヴィアン・リーが、彼女の印象に重なるからという、もう一つの理由があった。テネシー・ウィリアムズの戯曲に書かれたヴィヴィアン・リー演じるステラという人物は、彼の書くところの瀕死の蝶さながらである。その蝶々を、マーロン・ブランドが恫喝する。
 蝶々は、頼りない右腕で硝子戸を開けると、カウンターに座る相馬を見て、
「ここは何のお店ですか?」
と尋ねて来た。相馬は、その声の思わず低く震えるのに驚いて、しばらく何も言わなかったが、はっと、我に返ったように、
「アンティークです。ここは、古書や、骨董を扱ってる、アンティーク店です。」
その答えに、納得したように蝶々は何度も頷き、店内を見回した。相馬は、ただただ、蝶の水飲み場に珍しい蝶々を見つけた心地で、女性の動きを眺めていた。女性は、彼女とは縁のないような絵を見かけると、その前に立って、しばらく見入っている。そうして、もう五年は動いていない、全裸の四谷シモンの人形に恐る恐る指先を伸ばそうとして、
「誰かと待ち合わせですか?」
相馬の声に、驚いたように、女性は振り向いた。
「待ち合わせ……。待ち合わせじゃあありませんわ。」
相馬は頷いた。女性は、また人形へと視線を向ける。
「ずっと、向かいのショーウィンドウ前にいらしたでしょう。だから、誰かと待ち合わせかと。」
女性はかぶりを振った。そうして、
「少し疲れたから、休憩していたんです。朝からずっとお散歩していたの。」
そう言われて、相馬は思わず腕時計を見た。針は二時を差していた。
「それで、あそこで人の顔を観察していたんです。」
「へぇ、人の顔を。」
「たくさん通る人たちの、顔の一つ一つ、眺めていたんです。どんな悩みを抱えているんだろうって。」
「妙な趣味ですな。」
「勉強になるんですよ。だって、誰でも悩みを抱えているでしょう?それを、どんな風に隠しているんだろうって。そういうことを考えるのが、それが勉強になるんだって……。」
相馬は頷きながら、改めて女性の顔を見た。年齢は二十半ば頃だろうか。明るい亜麻色の髪の毛が、それ以上に彼女を若くさせているようだった。
「勉強?何の勉強です?」
「詩を書いているんです。」
「詩?詩って、あのポエムのような。」
「ポエムのようなっていうか、ポエムですよ。」
女性はほほ笑んだ。そうすると、眦が新月になった。美しい円みを帯びていた。
「詩をお書きになるんですか?」
「書いたり、読んだり。」
「誰の詩がお好きなんですか?」
どうしても、質問ばかりしてしまうのを内心気にしながらも、相馬は彼女に尋ねていった。そうすると、彼女は、相馬の質問を一つ一つ、丁寧に答えていく。
 彼女は、詩人では萩原朔太郎が好きなのだという。萩原朔太郎という名前を聞いて、相馬は初めて彼女と接点が出来たことに色めきたって、カウンターの下に積み重ねられている古書の束から、萩原の『月に吠える』の初版本を取り出した。
「これは、萩原朔太郎の『月に吠える』の初版本です。この本は、五百部刷られていまして、今ここで扱っているのは削除版です。これは、萩原朔太郎の自費出版なんです。数も少ないから、大体百万から二百万はします。」
女性は目を大きく開けて、口には出さずに口だけ動かして、
(にひゃくまん)
と言ってみせた。別に、相馬がすごいわけでもなんでもないのだが、しかし、古書や美術品の値段を褒められると、何故か自分が嬉しくなる。彼女の驚きに相馬は頷いて、
「無削除版なら、その何倍もします。私もお目にかかったことはないが。」
「じゃあ、あちらの方は?」
あちらの方と指差されたのは、先程の四谷シモンの少年人形だった。相馬はまたほほ笑むと、
「六百万です。」
そうすると、また女性は、
(ろっぴゃくまん)
と愛らしい仕草で、驚きを表現する。なるほど、芸術に、芸術作品の価格に無知なのだから、買い手にはなりようもないが、しかし、さもしい相馬には嬉しい話し相手だった。
「そっちが二百万円で、あっちが六百万円。お金持ちなんですね。」
「売れればね。手元にあるなら、ただ所有欲だけが満たされる。でも僕はこれを商売でやってるから。」
「たくさんの骨董品があるのね。」
二十代の全てを、そのような世界に身を投じて手に入れた品々だった。魑魅魍魎の海千山千の連中が跳躍跋扈する世界。今は、もはやただ俗物自慢でしかない山盛りの芸術品と、町屋を改築したこの粗末な店、そうして、莫大な借金だけが、相馬の持ち物だった。
「色々な所からね、蒐めたんです。でもね、こういう世界は際限がない。欲しい物を手に入れても、また新たに欲しい物が飛び出てくる。まぁ、無間地獄というやつですね。」
相馬の言葉に、女性は口元に手を置いて、ふふとほほ笑んだ。そうすると、わずかに甘い匂いがした。
「朔太郎の詩はお読みになるの?」
「いいや。恥ずかしながら、ただ本を持っているだけ。きっと、あなたの方が何倍も朔太郎をお好きだと思います。」
「私だって、そんなに詳しくはないんですよ。」
「好きな詩は?」
そう問うと、女性は天上を見上げて、考え込むようだった。このような仕草の一つ一つが、何気なく幽玄で、彼女は妖しかなにかではないかと、相馬には思える。
「ああ、あれ。『青猫』っていう詩集。その中の詩に、印象的な言葉があるわ。

『てふ てふ てふ てふ てふ てふ
このおもたい手足 おもたい心臓
かぎりなくなやましい物質と物質の重なり
ああ これはなんといふ美しい病気だろう』。」

彼女はそう諳んじると、照れたように、相馬を見た。
「妖怪めいた言葉の連なりですね。てふてふ、てふてふですか。」
「てふてふは、蝶々ですよ。」
そう言うと、相馬は、何か雷でも背骨を貫いたように、彼女の目に魅入られた。色素の薄い、儚い目をしていた。この娘もまた、そのまま絵画か何かのように、そのように相馬には思える。このまま、額縁を持ってきて、そのままに彼女を収めたのなら、もうこの館で飼うこともできるだろう。
「蝶々が、お好きなんですか?」
妙な夢想を心に抱えておきながら、しかし、それを遠くにおいて、相馬は自身が操り人形にでもなったかのように、陶然とした面持ちで、彼女に問いかけた。彼女は頷いて、
「てふてふ、という言葉の響きね、そう、その響きが、好きなのかもしれませんわ。それから、美しい病気という言葉。」
そう言いながら、右手の五本の指先をひらひらと舞わせて、それがちょうどうす暗い店内に差したシェードの灯りの下に影絵を作った。
「実は、僕も、いや、僕は、ですね。僕は蝶々が好きでして。」
「蝶々が?」
「二階に、山のように蝶々の標本があります。それは、売り物ではないけれど。」
そう言うと、彼女は興味が湧いたように、相馬の顔を見つめて、一言、
「見てみたいわ。」
そう言った。

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