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紫陽花の耳輪

1-3

 青い小鳥をわたしてその翌月に、彼ははじめて鎌倉に行ったのだった。鎌倉の町は、思っていたよりも古びている印象を彼は抱いた。古都という言葉に、すこしばかり過大な期待を抱いたのかもしれない。しかし、京都も同じようなもので、外国人の抱くオリエンタルの理想とは、かけはなれているだろう。
 着いたその日に、鎌倉文学館が見たいという彼の期待にこたえて、恵は案内をかってくれた。
 恵の好きな作家は谷崎潤一郎で、彼は川端康成が好きだった。鎌倉は、とくに川端康成に縁深いところであるから、文学館は彼に楽しみだった。
 バスに乗って四駅ほどの、海岸通りというバス停でおりると、文学館はすぐそこで、あたりにはちらほらと観光客がいるばかりだった。夏前で、空には雨雲がかかっていた。いつ雷雨に変わるかわからないほどであるが、蒸し暑さに、いっそうふればいいと彼には思えた。
 うっそうと茂るような生け垣にかこまれて、ときおり菫が赤い花を咲かせていた。文学館の敷地の入口は坂道になっていて、小高い丘だった。入場口で支払いをすませると、またうっそうとした緑の中を歩いていく。そうすると、石垣でできた短いトンネルが現れた。鳥たちが鳴いていて、ひとけはない。
 トンネルを通ると、急に音が絶えた。
 そうして、出るとまた音が生き返った。
 不思議なトンネルだった。
「妙なトンネルだね。昼間なのにうす暗いだろう。見ていると、『ツィゴイネルワイゼン』を思い出すね。」
「なぁに、それ。」
「映画だよ。鈴木清順の映画だ。内田百閒の、『サラサ-テの盤』だよ。読んだことはある?」
「ないわ。」
「まぁ、内容はよくわからない映画だけれどね。その映画の中に、釈迦堂切通っていう、さっきのトンネルのような洞窟のような場所が出てくる。石の間を通るようで、向こう側に、日の光が当たっていて、向こうは見えているんだが、霊験あらたかなところだからかな、霊界への門のように見えるんだよ。まぁ霊場だね。」
「まぁ。怖いですわ。そういう話、きらいだわ。」
「映画の中でもそういう役割をするんだよ。それを思い出した。あそこの門も、死んだ文士たちのもとへと続く、魔界の門かもしれないね。」
「魔界……。」
「それとも仏界かな。」
そんな話をしていると、文学館の屋根瓦が木々の間からのぞいた。群青で、空よりも濃い青色である。そこから、白亜の壁も見えた。美しい洋館だった。
 恵につられるように、庭先に出ると、大きくひらけて、文学館の全体が見えた。来た道をふりかえると、鎌倉の海が一望できた。空模様は悪かったが、しかし、静かで雄大なながめだった。文学館の脇に、少女の像がおかれていた。『望遠』という名がつけられている。青銅の少女は、鎌倉の海を見つめつづけていた。
 文学館の客は、彼と恵だけだった。鎌倉に縁のある文学者の書籍や原稿が置かれていたが、彼の興味は川端康成だけで、その他に見るべきものはとくになかった。
 川端康成は小さくコーナーを設けられている程度で、野田書房から出た『禽獣』と、直筆の原稿が一枚飾られているだけだった。彼が一人で館内をまわっていると、恵は、窓枠から見える鎌倉の海を見ていた。何かを思うようで、かすかに顔に疲れがあった。
 彼は恵の横に並んで、一緒に海を見つめた。
「ここも静かな場所だね。」
「あまり人が来ないのよ。あなたは文章を書くから、こういう場所が好きでしょうけど、今の人は、思っているよりも本を読まないって聞いたことあるもの。」
「僕もたいして読まないよ。読むよりも、書いている方が好きだね。」
そうして会話がとぎれると、波の音が聞こえた。遠く、さらにガラスでへだてられているからか、音は耳の中を流れるようだった。
「この辺りに、川端康成の家があるらしいね。」
「ええ。ちょうど、文学館を出て、坂をくだったところに。」
『山の音』の舞台である。文学館ではほかに見るものがないと、二人は早々にここをあとにして、川端康成邸に向かった。長谷のあたりは高級な住宅街である。平日の昼間だからか、ここにも人影はあまりなかった。
 川端康成邸は、外からしか見ることができないようで、固く門が閉ざされていた。中の光景は何も見られなかった。
「いろいろな国宝が、眠っているってうわさ。」
「芸術品をあつめていたからね。でも、ほとんどは美術館にいっただろう。」
そこから二人は、邸のすぐ裏手にある、甘縄神社へあがった。長い石段をあがると、小さな境内があった。
「昔、一度だけ来ました。そのときは秋で、萩の花がきれいに咲いていたわ。」
恵はそう言って、境内におかれた小さなベンチに腰をおろした。暑さのせいか、ときおり胸がむかつくようで、何度もさすっていた。白いワンピースには影が差して、恵の色が濁るようだった。
「大丈夫か。体調が悪いようだね。」
彼はベンチに並んで腰かけると、境内を見回した。小さな神社で、山の中にあるかのようだった。山そのものに取り込まれているようで、ここには山の神がいるのだろうか。しかし、何の音も聞こえない。
 耳を澄まして、目を閉じて、開けた。小さな黒斑が入った白い鳥が、ちょんちょんと飛びはねているのが目に入った。彼はその鳥をじっと見ていた。鳥は警戒の色もしめさずに、ただ飛びはねつづけて、そうかと思うと、とつぜん羽ばたいて、空に消えていった。
 恵は少し楽になったようで、二人は階段をおりて、もう一度川端康成邸をのぞくと、そのまま大通りに出て、バスに乗った。
 バスにも外国人が多くのっていて、フランス語のような言葉が、車内に満ちていた。外を見ていると、恵が彼の襟をゆびさきでひっぱって、
「ほら。」
そうすると、さきほどの黒斑の鳥が、町の銀杏の木にとまっているのが見えた。緑の葉の中に、かえって目立つようだった。
「さっきの鳥ね。私たちをおってきたのかな。」
「そうだとすると、おもしろいね。」
バスが動きだすと、鳥の姿は見えなくなった。
 恵は八王子に住んでいて、ミルクホールでの食事の帰り、家によると、眠っていた小鳥が目を覚ました。鳴き声も立てずに、寝癖のように広がった羽尾をして、恵と彼を見ていた。彼は、餌付けでもするかのように、ゆびさきをマメルリハにちかづけて、その反応を見た。小鳥はねむたそうにしたままだった。
「もう忘れられているのかもしれない。」
「一月もたてば忘れるわ。小鳥だもの。」
恵はそう言って、鳥籠の扉を開けると、右手をそっとその中に差し入れた。小鳥はすぐに気がついたようで、しばらくその手を見ていたかと思うと、そっと両足をのせて、そのままおとなしく手の上に留まった。恵が右手を引き抜くと、籠の鳥は小さく鳴いた。青色が濃く、彼が小鳥を渡したときよりも、少しばかり大きくなっているように見えた。
 その夜も、彼は何度も恵を求めた。恵のからだは、純潔のころとくらべると、いくらか豊かになっていて、形と声も変わっていた。ふれながら、魂まで変わっているのかもしれないと彼には思えた。
 恵を抱いた夜には、いつも一人で起きて、闇の中で妻を思った。妻が死産をしたのは、もう二年も前で、それから、二人の間に子供はなかった。
 彼は、自分の今までの罪が、妻から子供を奪ったのではないかという恐れにとらわれていた。ひどく矛盾のある考えで、それならばなぜ今恵を抱くのか。恐ろしい矛盾だった。
 眠れなくなると、ベランダに出て夜景を見つめるが、この光がまたたく東京の夜も、彼には恐ろしいものに思えた。どうやっても、この光から逃れることは出来ないだろう。
 しかし、妻は今頃どうしているのかと考えると、彼の心に、加虐的な喜びがわいた。部屋に向き直ると、ベッドからかすかにはみ出た恵の手が見えた。闇の中でも白い手である。その白い手のゆびさきの美しく見事に女に変わっていくさまに、彼はまた恐ろしいものをおぼえた。
 翌朝、恵を会社までおくると、彼は京都までの帰り道、鎌倉にもう一度よった。
 平日でも鎌倉には人が多く、その日はよく晴れていた。彼はすぐさまここからはなれたいと気持ちにかられて、昨日よったミルクホールに足を運んだ。すると、昨日は気付かなかった壁づたいに、大きな日まわりがあることが目に留まった。
 日まわりは、陽差しを受けて、黄色い花を揺らしていた。花びらのひとつひとつが、さくらやあじさいよりも幾分か大きい。
 日まわりは、妻のように思えた。なぜそう思えたのか彼にはわからなかったが、しかし、日まわりの花びらの大きいのが、彼には妙な安心だった。彼は日まわりの花びらにふれた。思っていたよりも花びらはうすく、頼りがなかった。しかし、その日まわりは、この店の軒先で、人目にあまりつくこともないのに、きらきらと輝いている。なまめかしい美しさすらあった。
 急に、彼の心に、自分の卑しさと恐ろしさとが広がって、ミルクホールに入ることもなく、鎌倉駅まで戻ると、すぐさま電車に飛びのった。
 彼は、電車の中で妻を思った。そうして、恵を思った。二人の女性に甘えているのが、愚かで情けないことだったが、しかし心地よいのだった。
 そういう思いで、会社に戻ると、彼は自分がしていることが、一種なにかの遊びめいたもののようにも思えた。倒錯している遊びだったが、しかし、それならば、なぜ神というものは、俺から子供を奪ったのだという怒りが心に立ち上がった。

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