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美獣

1-1

さぁっと拍手の音が耳に流れ込んでくる。
 『彼』は目を開けて、目の前に立つ男を見つめた。筋肉は張り詰めていて、しなる弓のようだった。
 男ー公武は、まだ子供である。しかし、大人でもあった。身体が大人なのだ。彼は複製人間だった。
 『彼』が公武を買ったのはつい二年ほど前であるが、そのとき、すでに公武は二十六の体つきで、年はまだ一歳にも満たなかった。
 公武は美しい足取りで舞台を歩いた。ワツラフ・ニジンスキーによる振付の、『牧神の午後』である。大きな跳躍の見せ場はないし、ただ扇情的な牧神に、見惚れるだけの舞台である。
 舞台袖に公武がくると、『彼』は手にしていたタオルで公武の身体を拭いた。公武は汗まで匂うようで、子供とは思えない豊かさである。公武は子供ではあるが、しかし、それは心の中だけのことで、身体はもはや発情すら迎えている。
 公武は、ニジンスキーの複製人間だった。高い買い物だったが、作家である『彼』に出せない額ではなかった。
 『彼』が複製人間の販売を知ったのは、三年ほど前で、その頃『彼』は、屋敷に禽獣の類を飼っていた。屋敷は動物の住処だった。その動物の住処には、犬や鳥や猫など、さまざまな生き物がいたが、中でも『彼』の一番のお気に入りは、人間の踊子だった。
 踊子は、『彼』が通うバーに働いていた娘である。名前は恵といった。まだ十四であった。十八と偽っていたが、まだ膨らみのない乳房と、若木のような足に、『彼』は娘がまだ少女であることを一目で見抜いて、その、まだ汚れのない身体をいたく気に入ったのだった。
 『彼』は幾何かの金を包んで、バーの主人と、娘を養っている老夫婦に、彼女の世話を申し出た。主人は最初は渋っていたものの、『彼』の言葉にそそのかされて、金をちらつかされて、もう一声と、その気になった。『彼』がまとまった額を伝えると、主人はすぐさま娘を手放した。老夫婦は、涙を流して喜んでいた。それは、『彼』が娘を引き取って、立派な踊子に育てると約束したからだった。
 その言葉はあながち『彼』の嘘でもなかった。『彼』は、禽獣たちを愛でるほか、いつか自分の踊子を育てて、美しいプリマを作れたらと夢想することが、少年の頃からあった。作家になって、すぐさま劇場に通って、踊り歌う少女たちを幾人も見たけれども、しかし、『彼』のお眼鏡に適うほどの子はなかなかいないのであった。
 女も男も、人間というものは、総じて舞踏の姿にこそ美が宿ると『彼』は考えていた。死んだ人形の冷たい美や、ほほを赤らめる人間の温かい美の、どちらも美しいものではあるけれども、その両方を、踊子たちは見せてくれるのである。踊子は人形であって、人間であった。人間であって、動物であった。
 その最も美しいのはバレエであろう。『彼』はバレエの公演、とくに、海外バレエ団の、マリインスキー・バレエや、ロイヤル・バレエ団の公演などは、来日があるたびに、欠かさずに見に行くのだが、そのたびに、恍惚としてしまって、仕事に手も付かなくなる。美しいダンサーたちの肢体に、心が奪われてしまう。
「お前もああいう場に立って踊れば、一段ときれいに見えることだろうね。」
客席で恵にささやきかけると、恵は耳を赤らめて、
「あんな踊り、私には出来ませんわ。だってほら、もう身体の作りから違うんですもの。」
そう言われて、『彼』はうなずいた。しかし、恵も手足は充分に長い。身体も柔らかい。まだ幼いけれども、踊りを習わせたら、すぐにコツを覚えて上手くなるだろうと、『彼』には思えた。
 恵は彼の心に名前のように恵であって、踊りはもちろん、華道茶道なども習わせた。金がかかって仕方なかったけれども、しかし、その甲斐もあって、恵は見違えるようなステップを踏むようになった。百姓が貴族になった。
 編集者は『彼』を、『マイ・フェア・レディ』だと揶揄したけれども、『彼』に気にする様子はない。
 『彼』は毎日レッスン場に付き添いにいくかたわら、女の園で時間を持て余すと、一人で近場のカフェへと向かう。そこで見たテレビのコマーシャルで、複製人間を知ったのだった。
 複製人間は、正式な人間ではない、人形のようなものだと、テレビから流れる割れた音声が言っていた。その人形を、一体拵えるのに、一億ほどもの金がかかるという。それは、子供からでも、大人からでも、どちらからでも選べるのだった。
 『彼』はこのコマーシャルに少しの興味を抱いたけれども、しかし、人間を模倣した何かを金で売買するということに、かすかな嫌悪感があって、気にしない素振りをした。それでも、夜になると、夢の中に出てくるのである。それは、暗闇に立つ恵の後ろから、折り重なるように隠れていた少女が顔を出して、二人の恵になると、手を取り合って踊り出す夢である。奇妙なほどの現実感があって、『彼』はそれが夢ではなくて、現実か未来か、そのどちらかに思えた。目を覚まして、その後に恵に会った時、二人ではなく一人で現れたことを、ひどく残念に思った。空想が現実になって、夢が夢でなくなるのならば、どれほどに美しいのだろうか。
 今目の前にいる公武は、その日からちょうど半月ほどで購入を決めたのだった。複製人間でも偉人の類は、競りが行われる。公武も競りに出されたのだった。
 しかし、三億などという法外な価格を提示したのは、『彼』だけで、他はみな少し腰が引けていた。一年前の出来事だが、今ならば、おそらく価格はもっと高騰して、五億から十億はついたのではないかと思える。同じ複製人間は作ることができないと、『彼』が知ったのは公武を買ってからである。複製人間の人権かと思ったが、どうやらそうではないらしく、単純に希少価値の問題である。売り手側に倫理は関係ないようだった。
 公武の汗を拭いてやっていると、掌に触れる筋肉は吸い付くようだった。
「すごい盛況じゃないか。」
「御父様のおかげです。ありがとうございます。」
公武に父と呼ばれるたびに、『彼』は気恥ずかしい思いを抱いていたが、今はそれも薄れている。
 ニンフに扮したダンサーたちが、他愛もないおしゃべりを交えながら、引き上げていく。公武は、その一人一人に頭を下げて挨拶するのだが、みな連れないようである。全員が素通りしていく。
「淋しいものね。」
恵はそう言って、公武にほほ笑んだ。しかし、目は燃えていて、火が揺らいでいた。
「いつものことです。皆さん、何も言わずに踊ってくださるから……。」
「好色な牧神に生き写しでも、飽きられるものね。」
そう言われて、公武はうつむいた。恵の言う通りで、盛況なのは初めのうちだけだった。ニジンスキーの再来は、熱烈な歓迎でもって、それは狂気と紙一重だった。しかし、それでもどこか歪なのは、公武の個性が現れてきているからであろう。遠目で見るとニジンスキーそのままだが、近くで見ると歪なのである。別人である。しかし、あまりにも近くで見ると、また公武の中からニジンスキーが立ち上がってくる。
 ニンフたちが去った後、舞台袖にはもう三人だけだった。牧神の衣装は、レオン・バクストのデザイン画と同様で、百年以上前の公演と同じものを使っている。『彼』はふいに、自分が一世紀昔に降り立ったかのような錯覚におちいった。そうしていると、『彼』は自分がセルゲイ・ディアギレフになったかのようにすら思えてくる。バレエ・リュス。栄光のロシアバレエ団。あの天才興行師に自分を重ねることに、思わず苦笑してしまうが、しかし、奇跡のようなバレエ団を、公武がいれば作れるのではないかという夢想は、ときおり『彼』の頭をもたげた。
「しかし、公武の人気はすごいだろう。お前も見習わないといけないだろう。」
「私は紛い物じゃありませんわ。ほんとうのプリマですもの。」
「そうだね。でも、公武は客を呼べるだろう。その点、お前はまだまだ半人前だね。」
『彼』にそう言われて、今度は恵がうつむいた。恵の目の火がまた揺らめいた。山猫のような目である。切れ長の眦で、その目には敵意すら見える。十八になって、恵はいっそう美しく育ったが、しかし、公武の存在に、その美しさは添え物だった。
 楽屋で、公武は衣装を脱いで、シャツとジーンズに着替えると、モデルのようだった。『彼』の言葉に傷ついたのか、恵は脣を結んだままだった。
「公武はもう二歳になるね。」
「はい。」
「舞台にはもう慣れたの?」
「まだ緊張します。でも、慣れみたいなものでしょうか。踊るうちに、不思議に緊張は解けていきます。」
「そうだね。舞台から見たら、もうニジンスキーにしか見えないね。」
「ありがとうございます。」
「レパートリーはどれだけになった?」
「『薔薇の精』と『ジゼル』、『遊戯』に『シェラハザード』……。」
「全部ニジンスキーが得意としていたものばかりだね。やはり血だろうか。それとも記憶?」
「どうでしょう。でも、僕の中にいろいろな記憶はありますけど、やっぱりそれはここ二年の物語ばかりなんです。僕の母体とは関係がないかもしれません。」
公武は目を細めて、考え込むようにして答えた。その動きはなめくじのようにのろのろとしていて、しかし、しなやかだった。動きの矛盾が公武の中にあった。
「ずるいもんだわ。何の練習もなくっても、あなたは上手く踊れるのね。それじゃあ一生懸命練習しているダンサーに嫌われるわけね。」
恵は、すらすらと笛を吹くように言うと、バーに掴まり、片足を上げた。公武は何も言わずに、脣を歪めた。
「そう思いませんこと、先生?私はほんとうにほんとうに大変な思いをして、ようやく踊りが形になったんだもの。もっと若くて、もっと小さい頃から踊ってきた子たちがたくさんいるわ。それなのになんて不公平……。」
「だけど公武も二歳だろう。まだ幼い子供だろう。」
「それは屁理屈ですわ。」
恵はほほを膨らませた。赤いほほは、いっそう赤くなった。『彼』は大きく手を伸ばすと、公武の左手を自分の右手で包んだ。公武の熱が、『彼』の中に流れ込むようだった。公武は動揺もせずに、ただ『彼』の手をほおずりすると、そのまま離した。やはり、幼い子供のようだった。
 『彼』が楽屋から出て行くと、残された恵は、公武を見つめた。恵の目に、公武は彫刻のように映る。公武は、恵に見つめられるたび、叱られるのを恐れるように、うつむく。そのたびに、恵の目の中の火が揺れる。
「複製人間って何で出来ているの?血は出るのかしら?」
「もちろん、血は流れています。ご存じでしょう。」
「昔の記憶はないんでしょう?」
「昔って……。僕は生まれてまだ二年です。それからの記憶しかありません。」
「変なの。」
恵はそう言うと、ステップを踏んだ。楽屋に、恵の足音だけが響いた。赤いヒールがきらきらと輝いている。
「じゃあまだ恋をしたことはないのね。」
「恵さんは恋をしているんですか?」
「もちろん。恋を知らないと、女の踊りにならないでしょう。」
「男もそうでしょうか?」
「もちろん。男の人だってそうだわ。女も男も同じよ。恋は踊るようなものでしょう。」
恵はステップを踏み続けて、ヒールのままで、公武の手を取った。赤いヒールを脱ぎ捨てると、はだしの美しい足が公武の目に映った。そのまま、つられるかのように、公武は、恵とパ・ドゥ・ドゥを踏んだ。そのうちに、公武の心は揺れるようで、恵の目に映る火が、彼の中にも注ぎ込まれるようだった。公武の目ぶたは温まって、ふいに目が滲んだ。しかし、恵は飽きたように、ぽいっと手を離して、そのままその場に立ちすくんだ。そうして、散らばったヒールを拾いながら、
「人形の恋なんて知らないわ。あなたはぺトルーシュカみたいなものね。」
恵はそう言って、ヒールを履くと、そのまま公武を残して、楽屋から出て行った。
 公武は、姿見に映る、自分の身体を見つめた。今にも張り裂けんばかりに、筋肉は命に溢れている。しかし、二年経っても魂は、その身体の踊るさまに、まだついていけない。身体の中に矛盾を孕むようで、彼は戦いた。

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