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 その夜に、四人で食事をしたのだった。どこから現れたのか、食堂に四人が会したのは初めてのことかもしれない。いや、食堂でなければこの屋敷に、何度か四人で集ったことはあったかもしれないが、違う魂だろう。食堂のテーブルを四方から囲むこの絵図は、端から見ればそれこそウィーン幻想派の絵画と同じかもしれない。そのような不気味が、この場にはあった。
 食堂は十畳ほどで、四人掛けのテーブルが一つ置かれている。そのまま部屋の壁をくり貫かれて作られた厨房が隣にあって、リビングからそこを通って席に着く。座ると、硝子越しに小さなプールが見えた。今は冬で寒々しく、数枚の枯葉が落ちている。ふやけた枯葉は腐っているようで、冷たそうに時折波紋を立てるプールは茜から聞かされた沢を連想させた。
 食事はフレンチだったが、前菜は蟹をゼラチンでかためて酢飯に乗せたものだった。小さく切った京野菜がゼラチンの上に重ねられている。はじめて見る料理で、箸をつついていると、
「京都はやはり寒いね。」
ふいに投げかけられて、計は何も言わずに川端を見た。
「皆ここに来たら第一声がそれですね。」
川端と茜がほほ笑んだ。しかし、恵はただ口を静かに動かしていた。
「京都は盆地だから、寒さが集まるだろう。雪も意外に降るんだ。『古都』は読んだかな?」
「読みました。先生はお好きでしたね。川端康成が。」
「『古都』が特に好きだね。それから、『雪国』かな。」
「どちらも雪が出てきますね。」
「古都は最後に双子の姉妹が別れるときに、格子戸ごしに最後に見合って、そうしてはらはらと姉の髪に雪が落ちるんだが、その描写が美しくてね。それから、京都と言えばその姉妹のイメージなんだよ。」
川端はなんとはなしに言い放ったのか、それとも恵と茜に含むところがあって言ったのか、計にはわからなかった。それならば、それこそ魔界の所業ではないか。そして、川端はそのまま遠くを見るように、
「だから昔、牧羊社という出版社から出ていた『古都』の特装版、東山魁夷が描いた光悦垣で装丁されたものが欲しくてね。神保町どころか、日本中の古本屋を探したもので、ようやく一冊見つかった。あれはいくらだったかな。百万円はしたかな。」
「数はいくつです?」
「三十冊だけ。他にも同様の会社から出たもので、三百五十冊あるバージョンや、千二百冊のバージョンもあるんだが、それはもう量産品だろうね。」
「三百五十なら充分稀覯本でしょう。」
「『古都』には強い関心を抱いたときがあってね。あれはここの四条堀川のあたりに、舞台になった薬種商の店があってね。それは今でも見学が可能なんだけれど、そこの庭にはほんとうに描いてある通りのキリシタン灯籠があるんだよ。あれは一月で、まだ木は芽吹いていなかったし、雪も降っていなかったけれどね。その店の女が、自分が幼い頃の話をいろいろ聞かせてくれたよ。」
川端は、よほどこの物語に惚れ込んでいるだろうか、延々と『古都』の話を続けた。そうして、話が『雪国』へと移っていくと、自分の着ている着物の帯を軽く解いて、新潟で雪晒しした帯だと言った。
「雪晒しってなんですの?」
珍しく恵が小さな脣を開いて、川端に尋ねた。
「雪の水で洗って、そうして雪の上で日光に晒す。そうすると、汚れが落ちて美しくなるんだよ。きれいに雪と日とで洗うんだね。青空の下に白い大地があってね。その上に色とりどりの帯が晒されていて、美しいものだ。」
川端は思い出を反芻するように、テーブルに頬杖をつきながら呟いた。その口調は少しばかり眠たげで、酔いが回っているのかもしれない。
「先生は雪晒しを見たことはあって?」
恵がいたずらめいて目を細めながら、計に訪ねた。計はかぶりを降って、
「新潟には行ったことがなくてね。僕の知る雪国は、富山か、山形だな。」
それは、古今雛を見に、研究を兼ねた旅行だった。ちょうど三月で、雪が道路の両端に、迫り来る壁のように築かれていたのを覚えている。京都とは比べものにならない。その光景を思い出していると、恵はまたつまらなそうに頬杖をついて、ワイングラスを持ち上げて、中の液体を揺らした。
「酒は飲めるのか?」
「あら。もう子供じゃないわ。二十歳よ。」
「二歳だろう。実際には。」
そう言うと、茜が身を乗り出すようにして、
「でも、もう二十歳のようなものだわ。私と何も変わらないわ。」
少し酔っているのかもしれない。茜はいつものようにほほ笑んで、そこから朗らかな笑い声が漏れた。そうして、隣に座る恵の肩を抱いて、彼女のほほに自らのほほをつけると、誘うような目つきだった。つられてだろうか、恵の目もまた誘うような光を帯びている。茜に萌した女が恵に伝染したのだろうか。そのようなほほ色の変わりようだった。薔薇が並んでいる。
「少し酔っ払ったか?」
計が尋ねると、二人の娘はともにかぶりを振って、その同調はまるでバレエのように見えて流れるようだった。はじめて会ったときと違う、互いの波長が合うようになって、二人で一つのように取れる。しかし、それは二人が同体だった頃を教えられたからこそ感じるのかもしれなかった。恵も茜も、眠たそうな目をしているけれども、しかし、どちらかというと茜が酔っているようで、恵はまだ目の冷たい光が揺れていない。
「先生は何かを作らないの?」
恵の目はそのまま強い光を放って、問いを計に投げかけた。
「何かって?」
「芸術よ。作品よ。何か、自分の作品を作ろうとはしないの?」
「そうだね。僕は人の作ったものを見て、その背景を調べて、その意図を人に伝える。それは僕の役割だと思っているよ。」
「そういうのじゃないわ。役割のことなんか、聞いていないわ。先生自身が何か作るとか、そういうことはないの?」
恵は口調を強めながら、詰め寄るように計に近づいた。茜は何も言わないが、計がなんと答えるのか興味のあるように、かすかに口元を緩めている。
「評論も立派な作品だろう。」
川端が諭すように話に入ると、恵は一層むきになって、
「伯父様は別よ。だって、ご自分でお話も書いてらっしゃるわ。先生は、そういうものはあまり書かないんでしょう?」
「そうだね。僕も何か書いてみようと思ったことはあったけれど……。」
「あったけれど、何?」
「あったけれど、でももう僕が書く必要もないだろうと思ってね。」
「先生が書く必要?」
恵は首を傾げた。計は一つため息をつくと、
「だって、世の中には素晴らしい芸術が山とあるだろう。そうして、その芸術はこれからもどんどん生まれてくる。特に、こういう商売をしているとね、僕には思いもつかないような新しい芸術、美しい芸術が星の数ほどある。僕はそれを識ろうとして、一生懸命調べるけれど、そうしていくうちに彼らの天才性と自分にすさまじい乖離があるのが痛い程にわかる。僕には彼らのような作品を生み出せないし、生み出したとして全ては消えるんだから、何の意味もないね。」
「全て消えて意味がないのなら、今あるその素晴らしい芸術も、意味がないんじゃないかしら。」
恵は、計の言葉に賛同しかねるように、脣を尖らせた。茜はその横で恵を見つめながら、
「でも、先生の文章は面白いわ。私、先生の文章好きですわ。」
茜は酔いのせいで、どこまでがほんとうかはわからないが、ほほ笑みながらそう言うと、
「私たちは、美しいものを見たって、それをきれいだとか、素晴らしいとか、そんな簡単な言葉でしか言い表せないわ。でも、先生は色々な言葉を操るじゃない?それはもう芸術のように思えるわ。」
茜の言葉に、計はほほが緩んだが、川端は吹き出した。
「それでもほんとうの芸術には及びもつかないだろうね。僕たちは仕事上、目利きであることが必要になるわけだが、目利きであることはある種悲劇的でね。どうしたって、自分を貶めて卑しい存在だと思わざるを得なくなるわけだよ。」
「あら、どうしてですの?」
今度は茜が脣を尖らせた。
「たくさんの作品を見ていると、その作者の技術や閃き、工夫や感性が見て取れる。彼らは自分の腕や声からそれを作品に流し出して顕すわけだが、それは人間の仕業じゃないのかと思えることがある。これはほんとうに不思議なんだが……。それこそ、神の腕や声を借りているのではないかと思えるときがあるね。僕らはそれにひれ伏して、それがいかにすごいものかを喧伝するに留まるのみだよ。でも、ほんとうに素晴らしいのは、踊り子だろうね。」
川端は恵を見てほほ笑んだ。恵は頬杖をついたまま小首を傾げて、挑発的に川端の返事を待った。
「踊り子が素晴らしいのは、踊りの美しさもさることながら、やはり、その生き物だけの息吹で美しいからだろうね。動物の美しさだよ。獣の美しさだよ。芸術家は全て観察によって、自分の芸術を顕しているし、そこに自分の夢を組み込むわけだ。その夢には政治の現実や宗教の理想ももちろん取り込まれているわけだが、やはり観察が一番の肝になっている。彼らは身近なものを観察して、それを映し取るわけだけど、さっき計君が言っていたように、ほんとうにほんものの美しさというのはもうこの世の中にはもうあって、芸術家は所詮はその美しいものを模倣しているにすぎない。鳥の羽や花の蕊を見つめていると、これ以上に複雑怪奇で誠に美しいものはないと思える。」
川端はワインを啜ると、二人の娘を見つめて、
「その中でも特に美しいのは女だろうね。少女だろうね。女の二人いることは、恐ろしいほどに尊いものだよ。それを再現しようと、数多の芸術家が人生を費やしてきたのだから。」
「それは私たちのこと?」
「君たちのことでもあるし、町をいく女たちのことでもあるね。いろいろな形があって、それは全部美しいけれども、その中でも磨かれたようなのがいるだろう。硝子細工のような……。それこそ人形のようなね。」
「人形のようね。」
恵は何か含むことでもあるかのように、鋭い眦をつり上げるかのようにして、川端に一瞥をくれた。川端は気にする様子もなく、またワインを啜る。
「だから、計君も何か作るということを必要しないんだろう。何かを作るというのはそれぞれに理由や目的があるだろうけどね、美しいものがこうして二人もいるんだから、自分で作る道理がないということだ。」
「私たち、物じゃありませんわ。」
いたずらめいた嬌声で、恵とは反対に朗らかに茜はほほ笑んで見せた。
 そうしてそういう恵の声を聞きながら、この食卓に掛ける自分の他、ふいに計には三人全てが遠い人に思われる。計は、目の前のグラスに手を伸ばして、その中にある液体を飲み干すと、底に残った氷も全て口に放って、音を立てて噛み砕いた。その音に、恵はぎょっとしたように髪の毛が踊って、計をじっと凝視した。冷たい音は恵の心に届いているのか彼女のほほにかすかに火が灯ったようになる。しかし、直ぐさまにまた視線を宙に這わせて、つまらなそうにワイングラスを弄ぶ。彼女は自分も何者かになりたいのだろうか。何かを作りたいのだろうか。彼女それ自身が芸術の美しさだと言うのに。そうして、その芸術は眠たそうに、時折眦を上げて、硝子の光を飲み込もうとする。蝋燭の火がグラスを照らし出すと、紫磨黄金の輝きが底からこぼれていた。その明かりを受けて娘の目にもみるみるうちに火が募る。眠たげな目があかあかとする。火が忍んでいくうちに娘の内側に炎が生まれて、それが恵を照らしているかもしれない。何か、この食卓そのものが計には絵画か何かに思えた。茜はあどけないままで、しかし、女の匂いがその息に含まれている。先程に車中で感じたあの女の匂いよりもさらに深い匂いで、槿の花を思わせた。あれの種は腹を下す効用があって、下剤に使われていると聞いたが、この娘の香気に触れる内に、彼の中にも何かもよおしそうなほどの苦みがわき上がってくる。欲望にのたうち回る感覚であろうか。計には分からなかったが、娘の誘発する匂いに、そのまま飲み込まれそうになるほどに、より現実感が希薄になっていく。酔いに振り回される感覚であろうか。或いは、酔いに紛れて肉体がこれほどに美しく花やぐ香るのだろうか。それならば、この感覚のままに手を伸ばして、そうして二人で、いや、三人で交わるのならば、それはいかに麻痺的な感覚であろうか。いくつもの感覚が折り重なるように連綿とレイヤーを構築していくうちに、いつの間にか第三、第四の感覚がたち上る。彼は横で眠るように舟を漕ぎ始めた大評論家が、もはや夢のうちにいることを何やら耳もとで囁かれたかのように確信していたが、その吐息はまさしくかすかな氷の香りがした。そうして、恵に手を取られて食堂をくぐり抜けると、それにつられるかのように茜も立ち上がり二人に追従してくる。茜は酔っているせいかほほに麗しい桜を咲かせたままで、前後不覚のようだが、計が手を伸ばすとその手をしっかりと握ってくる。思いもよらぬほどの力強さだ。その力強さに、計は思わず握り返そうとするが、そうすると、思わずもう片方の手を包む小さな手の感覚が唐突に生き生きとしだして、計はそれに囚われたかのようにはっとそちらの方の手を緩める。それというのも、その小さな手はまさしく硝子で出来た微細な人形のようで、力を込めれば簡単に砕けてさらさらと風に流れていきそうである。そうして目を見ると、まばゆく垂れた目がか細く計を見つめていて、そこに宝石のように収められた一欠片の氷が溶け出して美しい一筋がほほをつたうと、計は知らずにそれは自分の涙であろうかと同じように目を拭った。しかし、手は濡れることはなく、ただ赤いだけである。そうしてその手で彼女をもう一度捕まえる。二人に挟まれる形でリビングの暖炉の前の立つと、川端のコレクションたちが一斉に二人に視線を向ける気配だ。その目線の全てをかいくぐる内にいよいよ炎は盛って、計の内側の火柱があかあかと燃えると、自分の中の男の感性と女の欲情が一斉に噴出している。俺は異常かと、俺は暴漢かと、また力を込めると、痛そうに顔をゆがめる恵がいた。計は思わず手を離そうと力を緩めると、それは許されることもなく、いきなり力強く握り返されて、再びそのままの格好で食堂へと戻る最中、外のプールが目についた。青く冷たい水がゆらゆらと揺れていて、腐りゆく葉が幾枚も泳いでいる。その葉は淡い炎に包まれていて、水面を照らしている。計は灯りに導かれて水面に吸い込まれそうになる二人を止めようと力を込めるが、しかし、恵を握る左手がすっぽ抜けると、恵はそのまま落水した。そうして、自分の手を見ると、小さな小さな陶器のように美しい真白の手だけが残されていて、その手を茜はぱっと計から奪い取ると、抱きしめてさめざめと泣いた。
 全て計の幻想である。いつから自分がこのような幻想の中にいたのか、起きるともう三人ともおらず、計だけが食堂で一人頬杖をついて取り残されていた。
 額から小さく汗が滴るのを感じた。外のプールを見ると、夢で見たように青くはなく、その色は黒色と言ってよかった。ライトに照らされて、かすかに庭の木々が揺れているのが見えた。計は立ち上がり、硝子戸を開けると、そこから青い水面を見つめた。水面に浮かぶ影が少女たちに見えた。二人の少女だ。そういえば、夢の中で茜が抱いてその涙が伝っていたのは、かすかに小さな小さな真白い手だったような気がする。しかし、計はかぶりを振って、そのような夢想を頭から追い出した。しかし、目を瞑ると目ぶたの裏に幾度も浮かんでくるのは、十五歳の恵が溺れ逝く姿だ。そんなものを俺は見ていない。全て聞かされたのは、寝物語めいた夜伽話だ。全ては俺の幻想だと心に片を告げようと再度目頭を揉むが、一向にその幻想は消えてくれなかった。茜の独白が、計の心に抜けない薔薇の棘だった。
 しかし、どうしたことだろうかとも思う。全ては幻想である。嘘や物語、過去を聞き続けているうちに、自分のうちにそれが組み込まれていくのは奇怪な様のように思えたが、恐ろしいほどの現実感を伴って、二人の過去が自分を見つめている。

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