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稚児桜⑦


其の七 雅楽

 君に憂鬱があるとすれば、それは音曲に他ならない。曲を奏でるのが、君に不得手だった。雅なものだとは思うが、然し、それを自らの手で演奏するに、力及ばないのである。舞楽も、音楽も、どちらも学ぶことは出来るし、師範もいたけれども、稽古の初めから、君にとってそれは苦役以外の何物でもなかった。午後、態々講釈所にて稽古に励むが、時折、大成殿に舞台まで拵えて、剰え装束まで着込んで稽古する。君にとって、この稽古が苦役そのものに変じたのは、一つ上の、野村駒四郎のせいである。赤い髪が、君に鬼のように映った。むすっと、口をへの字に結んで、装束を纏うのは、君に可笑しかったが、隣にいた和助に、
「あいつは鬼のように強ぇ。」
そう言われて、背筋が伸びた。目が、切っ先のごとくに鋭くて、君も切れ長だが、それ以上に冷たい目差しである。そうして、彼は師範に言われたままに篳篥を演奏するのだが、君は感嘆とした。これは、やんごとなき御方に聞かせる神曲である。それを、駒四郎の指先は、導くのである。暫くその演奏する姿を眺めていると、次に君が演奏するように申し付けられた。言われて、急に自分の装束が、やけに重く感じられる。高嶺颪を受けているかのようだった。篳篥を吹こうにも、指先まで悴むようだ。当然、颪などない。そうして、吹こう吹こうとするが、固まったように動かない。皆に、莫迦にされるのが嫌なのだ。それを見ていた駒四郎は、
「下手くそ以下じゃな。」
そう言うと、また自分で吹き始めた。周りがどっと笑った。それは嘲りではなくて、ただのから騒ぎみたいなものだが、君はひどく傷ついた。篳篥を憎むようだった。
 駒四郎は、刀術の腕前も抜群で、伊藤景久即ち伊藤一刀斎の一刀流を始祖となす、小野忠明の小野派の剣を学んでいた。鬼のように強いと、和助が言っていたのを、君は刀術場で目の当たりにした。その日の稽古でも、駒四郎は面胴を用いず、刃引きで師範にかかっていた。恐ろしい男だと思った。あのように重い剣が、見えない。君は驚いた。恐らく戦えば、すぐに首を刎ねられるだろう。一つ上なだけで、あんな男がいるのかと、驚いた。暫く、その剣を見ていた。すると、師範の一人が、
「駒は多分、お前らくらいの歳で一番強い。まぁ、弓の腕前は御前だろうけどな。」
「綺麗な剣です。」
「あいつの実力は目録だ。すぐにそれも超える。」
駒四郎は火のようだった。会津の雪も、駒四郎はすぐと溶かす。勇猛果敢な男だった。駒四郎は、君の視線に気づくと、稽古場に上がるように促した。君は、怖気づかずに、竹刀を持って上がった。駒四郎は刃引きを仲間に渡すと、竹刀を手にして、
「御前、何見とるんや。毛詩のガキ。」
「御前さんと対して歳は変わらん。」
面をつけて、駒四郎と相対する。駒四郎は、裸の肉体で、然し、荒ぶるようだ。雅楽のときと同じく、然し、冷めてもいるように思えた。天才肌なのだろうか、すぐと小手、面を奪われて、君は為す術がなかった。そうして、君が稽古場から降りると、駒四郎も降りてきて、
「御前、篳篥。」
「何?」
「篳篥。嫌いなんか?」
「難しいし、僕は音楽は苦手だ。」
「剣術もか。」
「君に才覚があるだけだ。」
「指が固まってる。どちらも。ええとこ見せようとするな。ゆっくり、深呼吸したら、多分うまくいく。」
駒四郎はそう言って、また稽古場に上がった。また刃引きを手にして、相手は師範だった。もう、君のことは見えていないようだ。
ただ、声だけは君に向けて、
「二分でいい。それで充分だ。」  
 また、篳篥の時間がやってきた。相変わらず、駒四郎は涼しい顔で、篳篥を奏でる。駒四郎は、剣術の稽古で見せる烈火の如し火勢がない。今は、水のようだった。一人の男に、火も水もあるのかと、君に不思議だった。そうして、その上手い指捌きを見ている内に、気づくと演奏は終わっていて、また君の番だった。君は、諦念の境地だったけれども、先程の駒四郎の演奏を思い出して、ゆっくりと、力は入れずに、周りの目を気にせずに吹いてみた。それも、二分の力で。指はなかなか思うどおりに動かないけれども、冷たく、遠い彼方からの音がして、君は、自分の音を好きになった。

キャラクターイラストレーション しんいし 智歩

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