見出し画像

薔薇の踊子

1-18

 翌日から、公武はレッスン場に顔を出すようになった。そうして、二時間だけ、特別にレッスン場の一部を借りて、自分の練習をする。吉村はこれをひどく喜んでいて、この教室には男性のバレリーナが、幼少クラスと小学生の低学年しかいないからだが、ようやく男同士の練習が出来ると、異様に気合いが入っていた。そうして、意外に公武もそれは嬉しいようで、吉村をまるで兄のように慕って、彼のレッスンがないとき以外は、べったりだった。
 そうして、このレッスンをお願いする時、反対に国元は難色を示していた。それは、単純に保護者に対して隠し事をすることを嫌がるという意味で、しかし、吉村が責任を持つという事から、渋々了承した。そうして、公武に『ロミオとジュリエット』の振付リブレットのコピーをもらうと、それを夢中になって読んだ。短いリブレットだったけれども、しかし、ほとんどがロミオとジュリエットの二人芝居である。そうして、思ったよりも小さい動きが多い。グランフェッテなどのジャンプは少ない。そのことについて尋ねると、単純に、場所が狭いからという回答が来た。
「色々方法を考えています。問題は舞台だと思います。」
公武は考えるようにそう言った。そうして、公武はホールの写真を持ち出して、
「ほんとうは、この窓をフェッテで飛び越えてね、そうして、外で踊るのは面白いと思ったんです。でも、昼間にしたいんです。公演はね。でも、この芝庭で踊るならば、夜がいいと思うんです。そうだな。この芝庭はまた別の機会だな。」
公武は独りごちるようにそう言うと、また黙ってホールの写真を見つめた。国元は、訳がわからないというような顔をしながらも、公武の中に、ニジンスキーの萌芽を認めた。
 国元も、もちろんニジンスキーについては色々知っていたけれども、しかし、精々が彼の振付や、その逸話程度だったから、これを機会に、彼の手記を読み始めた。そうして、読んでいる内に、そのニジンスキーの狂気に落ちていく過程に触れて、それが公武と重なるようだった。何か、危険な香りがする踊り、まるで剣舞に触れるかのような踊りは、彼の心根に、そのような不穏な根があるからではないだろうか。ニジンスキーは、踊るときに、それが自分には神との対話だと思えると、そういう不可思議な話をこの手記に書いている。読んでいて、背筋が総毛立つほどに、彼の言葉は狂いを増していく。そうして、ぱたりと本を閉じると、モノクロの彼の写真の表情、そうしてその虚ろな目が、どこまでも深い闇の色で、公武と重なった。国元は、枕元に手記を放り出すと、次はコピーを取った公武のリブレットを捲った。『ロミオとジュリエット』を解体したコリオグラファーはいくらでもいるが、実年齢の男女が踊る『ロミオとジュリエット』は類例が少ないだろう。
マシュー・ボーンが近年、英国で発表した『ロミオとジュリエット』がそれに近しいかもしれない。そうして、クラシック寄りではあるが、ふんだんにコンテンポラリーである。その上に、インプロビゼーションが多く含まれていて、彼がやりたいと言っていた、芝生でのパ・ド・ドゥは、確かに美しい光景になるだろう。目を閉じて夢想すると、それはまるで、国元には、真夏の夜の夢である。美しい月光の下に踊るロミオとジュリエットである。しかし、国元には、彼らの踊りよりも、それを加奈子に隠しているという事実が、重くのし掛かっていた。吉村は、根が楽天家だから、深く考えてはいないのだろうが、しかし、彼らはまだ未成年で、そうして、公武は複製人間である。複製人間に対しての保護者たちの目が白いのは、彼らが生まれ始めた十年ほど前から代わりがない。複製人間による暴力事件も、いくつか起きてはいる。科学者や左翼、人権派の連中は、それこそが人間と何ら変わることのない、彼らがまさに人間である証左であると、そのように謳っている記事を、国元もネットニュースで目にしたことがある。だからこそ、加奈子が禁じている行為に手を貸すというのは、例え知らぬ存ぜぬを通したとして、後ろめたいものがあった。
「何を読んでるんだ。」
シャワーを浴びたばかりの、恋人の古館が、タオルで頭を拭きながら声を掛けてきた。共にダンサーである彼は、今はベルギーのバレエ団に所属していて、神戸での来日公演で、国元の家に宿を借りていた。
「生徒の書いた振付。」
国元がリブレットを古館に渡すと、古館はそれを手に取り、パラパラと捲った。そうしていく内に、古館の目の色が変わって、
「面白い。なかなかないね、この振付は。」
「クラシックなのか、コンテなのか。それとも新しい何かなのか。はたまたごちゃまぜなのか……。」
国元が困ったようにほほ笑むと、
「場面場面でそれが行き来しているな。パ・ド・ドゥはもろクラシックだが、それ以外はコンテだな。それからリフトが多いな。」
「そうなのよ。まだこの子十六よ。男の子ほうね。女の子は十四歳。軽いけど、こんなにリフトが多いと、彼の腕がもたないんじゃないかって心配。」
「十六と十四。かわいいペアだね。」
「ほんとうのロミオとジュリエットの歳なんですって。」
「まぁ、でも、短いじゃないか。見せ場に来るまではほとんど一人だし。」
古館は両腕を伸ばすようにして、リフトの真似をして見せた。
「それが、その、複製人間の子?」
国元が頷くと、古館は腕を組むようにして、
「なるほどねぇ。うちにも一人いるんだ。その子は女性なんだけどね。彼女はやはり、普通の女性とは違って、かなり力がある。男をリフトできる。体重五十にも満たないのにね。」
国元は、自分が古館をリフトするのを想像してみて、思わず身震いをした。そうして、
「ねぇ、やっぱり複製人間って、力も強いのかしら?」
「そりゃあ強いだろうね。彼らはある種で、フランケンシュタインの怪物みたいなものだろう。」
「あれは死体でしょう。」
「そうだよ。でも、同じようなものだろう。初めはマッドサイエンティストが造り出して、そうして、造り出された人形は自我を持つ。そうなると、人形は次第に何で自分を造ったのか、創造主に怒りを持つ。」
「複製人間もそうだと言いたいの?」
「知らないけど、そうなるのが当たり前だってことだよ。少なくとも俺がそうなら、そう考えるだろうね。」
古館はそう言うと、床に置いたリブレットを拾い上げて、パラパラと捲ると、
「そう考えると、彼女も、その彼も、生まれてすぐに苦界に身を投じることになっているわけだ。彼は、ニジンスキーの複製人間だったよな?」
「ええ。そうよ。」
「ニジンスキーか。ダンサーならば、替われるものなら替わってやりたいと、誰もが思うだろうね。」
「そうかしら。」
「そうだよ。一世紀経とうが、誰もニジンスキーを超えるダンサーはいない。まぁ、俺も直接観たわけじゃないけどね。」
「ジョルジュ・ドンは?」
「ああ。彼がいたね。彼も四十五歳で死んで、今はもう歴史に埋もれたね。二十世紀バレエ団だね。でも、そう考えると、ニジンスキーも、ジョルジュ・ドンも、似ているね。」
「似ている?」
「そうだよ。どちらも天才的な、一人はコリオグラファーだけど、そういう天才的な同姓の守護者を愛し、愛されて、そうして幸福で美しい芸術を育んで……。どちらも若くして死んだり、才能を失ったり。」
「美人薄命なのよ。」
「美しいものはすぐに枯れるわけだ。彼も、若くして自分だけでこんな振付を考えるなんて、非凡ではあるし、何よりも伝説のニジンスキーだ。外見は似てる?」
「とても。もちろん、写真でしか本物は見たことないけれど。」
「あんなに透明な感じかい?」
国元は頷いた。透明と言われると、確かに透明である。そうして、男女の境がないほどに、その区切りがない。男の中に女が棲んでいる、そのような姿形。
「バレエダンサーは皆そうかもしれないわね。」
国元がぽつりと呟くと、古館はそれには気付かずに、熱心に目の前の振付を見つめている。そうして、透明というと、恵が浮かんだ。恵もまた、透明である。透明すぎて、消えて無くなりそうにも思える。それは、公武のような色香ではない、純潔の透明さで、白い花である。それが、彼女のジュリエットに、とても似合っている。国元が窓外を見ると、ぽつぽつと、かすかに明るい雲間からの雨が、ガラスを伝っていくのが見えた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?