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ガーデンの夢


 俄か雨に濡れた木々も、真昼の暑さにすぐに乾いてしまった。翻訳家は庭に出ると、乾いた蘖の剪定を再開した。先程の雨に洗われて空気は冷たくなっていた。然し、すでに翻訳家の背中には汗が迸り始めている。雨に打たれて隠れていた毒虫や蛞蝓が数匹、翻訳家の軍手の上を伝おうとするが、彼はすぐにその虫を剪定鋏で潰してゴミ袋に放り込んだ。潰しても潰しても湧いてくる。蟻も同様である。奴らは、この木の底を根城にしていて、開けてみれば山といるのだろうが、いっそ燻り出してしまおうかと、そのように目論んだこともある。然し、どのみち最後には薬剤を散布して殲滅するのだから、儚い生命である。小一時間も庭仕事を続けていると、その他の厄介事が積み重なってきて、それどころではなくなる。一杯、冷たいビールが飲みたくなる。然し、次第に集中の方に傾いていって、気づけば延々と鋏と如雨露で遊んでいる。
 翻訳家はスランプだった。小説を書くわけでもないから、スランプとは無縁の仕事と思えるけれども、然し、数ヶ月かけて一つの書籍に息を吹き込み終えると、溜まっていた本に手を出して読み始めてしまうからいけなかった。そうして、また新しい言葉を識ると、それを使いたくて堪らなくなる。幾通りも試した言葉の選択の過ちに気付いてしまう。翻訳家の性である。創作者の性である。その言葉を譫言のように唱えながら、枝葉を削いでいく。茨で指を切って、翻訳家は舌打ちをした。庭に巣食う、これらの植木は化物めいている。その化物を買って育てているのは翻訳家自身であるが。これらが、夢魔めいて見えるのは、先刻訳した作品のせいかもしれなかった。アメリカの幻想小説、或いはパルプ小説の類をのべつ幕なしに依頼されての翻訳家業には飽いていたが、然し、無論文芸作品にお呼びはかからない。ただ一人、この庭仕事だけが彼を救ってくれる。編集者は邸宅にやってくる度に、翻訳家に小説を書くように勧める。貴方ならばすぐにでも本が出せる、貴方がこれまで手繰り綴ってきた豊穣な語彙が新しい幻想の地平を拓くと世辞を言うが、その本当の目当てはこの、庭に咲き乱れている雛罌粟(ひなげし)のせいかもしれなかった。その赤い花の毒に当てられたように、彼女は来る度毎にいつも唇を濡らして、頬を紅くしていたが、然し、それは彼女こそが夢魔のせいかもしれぬ。植物も、女も、同様に男を拐かす。然し、彼に女性への欲情はもう潰えていて、翻訳家はただ文章上の空想にだけ沈殿する娘のような原初の灯りにだけ唆されていて、男の太陽には既に興味がない。最早、彼に現実世界は庭と書物の中だけかもしれない。ふと、翻訳家は植物の間から伸びる青白いものを見つけて、その五本の等間隔に並んだ枝の一つ一つ、或いは集合体の形があまりにも藝術的だったから、そこに手を伸ばして、それが迎え入れるように広がるその地平へと自分の掌(たなごころ)を指し出した。握りしめると、握り返してきたように思えたが、然し、それは単なる死後の硬直である。翻訳家がその手をこちらへと差し戻すと、木の幹にたっぷりと血を蔟(まぶし)た小さな腕が、その付け根から先にいた人物を永久に喪失させたさまで顕れた。翻訳家は叫ぶ前に、息を呑んだ。そうすると、声を失ってしまって、喋れなくなった。この小さな腕の持ち主の、今は何処ぞにいるのか定かではないその片割れ、恐らくは大きさから見ても少年であろうか、その少年にまつわる幾つかのことを想起したが、この殺人事件に至る前の、損壊死体発見の椿事は、翌日の三面記事を飾るに留まった。
 新聞を折りたたんで、運ばれてきた料理を見つめる。連れ合いの娘の真白な歯並も喜んでいる。上海蟹をそのまま甲羅ごと揚げて、カレーソースをかけた料理である。芳しい磯の香りもした。どうやら、殻までも全て食べられるようで、齧るとスナックのように音を立てて砕けた。オーナーシェフは眼鏡に白髪の老紳士で、彼の調理する姿が小窓から認められる。彼と、その妻らしき女性、二人だけの小さなレストランだった。時折、指を大きく開いて卵を挟み、第二関節で殻を割ると中から陽の玉のような黄身がこぼれて、続いて、それが焼ける音が聞こえる。デザートには驚かされた。巨大なミルク缶が運ばれてくる。そのミルク缶は汗をかいていて、触れると氷よりも冷たいのだ。缶の蓋を開けると、中には杏仁豆腐があって、それを掬って、備え付けの銀の器に移してから食べる。このように甘い杏仁豆腐は食べたことがなかった。アイスクリームよりも、乳の甘みがある。
 食べながら、内装を睥睨すると、様々な調度品、それは全て見たことのないような白磁の茶碗から、赤い雑技団調の服を纏った一尺程の人形が窓枠に妖精のように置かれていて、ライトシェードの傘の下に微笑んでいる。その下がった眦を見ていると、室内の喧騒、つまりは連れ合いの言葉すらも吸い込むようで、音の全ては消却されていて、ただ、耳底に幽かにミルク缶に触れる度にさざめく冷たい金属音だけが聞こえた。
 郊外の中華料理屋で、ネットでの評判も高い。いい買い物だったと、そう言いながら連れ合いと歩いていると、途端に後頭部を殴られたかのような郷愁が、本当に、途端に去来して、その原因はそこが自身にとってのトポスだったことに気付いて、合点がいく。足を止めると、連れ合いはどうしたのと尋ねるが、ただかぶりを振って、そうしてショーウィンドウを指差した。このショーウィンドウである。昔は、宇宙に関する道具が売られていた場所だったと記憶している。幼い少年の頃、このショーウィンドウには様々な遊星や惑星や恒星を象った模型が置かれていて、それは小宇宙を形成していた。一つの調和があって、土星の輪も太陽の花も、どれも美しい姿を四六時中路面に晒していたが、中でも目を弾いたのは、数ある模型の中でも一等美しい月球儀である。銀梨地の肌をしている高価な天体模型で、あれを望遠鏡で覗き込んだとしても、恐らくは本物に寸分違わぬほどに瞬くのだろうと、夢見心地だった。学校の帰り、習い事の帰り、遠回りをしてでも、傍目から覗き込んだショーウィンドウ。それは幻想を導く。
 銀世界を夢見る内に、家では自作の天体図まで作成した。庭に咲く桜の花びらをいくつか拾い集めて、それを夜空に見立てたボール紙に貼り付けた。桃色の星座である。父親が、庭仕事で埋めた桜だった。これを花を変えては四季ごとに繰り返す。然し、夏、特に夏至の夜空を作るとき、紫陽花の青を撒いてもそれだけでは納得のいかぬようで、夏至の夜は明るくないといけないと、これは持論だった。感覚の問題ではあるが、夜の色は日々変わることだけは間違いではない。夏至の夜を再現するために、牛乳パックを切り抜きしては、いくつものビルを星座の下に林立させると、絵の具で窓を描いて月明かりを灯していく。そうすると、明るい空が産まれて、満足がいった。
 けれども、春夏秋冬の夜空はあっても、月球儀がない。月球儀が欲しかった。父に、そのようなことを話した記憶はないが、どこかで、或いは彼の部屋を見て彼の天体趣味に気付いたのか、ある春の夜に、父は美しく包装された月球儀を差し出した。青色のリボンを解いて、両の掌でも持て余す月球儀を見詰めながら、それはリビングで見るとあの一等に輝いていた銀の肌はもう褪せていて、その様に、寂しさが募った。その寂しさは、空へとつながっていくようで、ある夜、それは学校の帰りか塾の帰りか、もう定かではないが、いつもの通りにショーウィンドウの前を通りかかっても、そこには月球儀はもう消えていて、代わりにメリエスの月のスチール写真がこちらを見詰めていた。造り物めいて、空虚しかなかった。月球儀はどこへ消えたのか、覚えてもいない。

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