薔薇の踊子
1-12
坂道を降りて、御心坂に出ると、真っ暗な空間が広がって、恵は寄る辺無い。夏の夜なのに、寒気すらしてきて、思わず両腕で自身を抱いた。しかし、ほほは熱を帯びて熱いのだ。恵が天を見上げると、先程まで目端に映った紫陽花の色が映って、雲間の星が紫や青の色を抱いたように映る。
「大丈夫か。」
肩に手を置かれて、その手の大きさは、何度も身体を支えられたから、彼のものだとすぐにわかった。しかし、改めて思うに、彼はまだ幼いのに、十六の男子とは思えぬほどに、女性ダンサーを支えることができる。その不可思議さが、彼女には不均等なものに思えて、先程の川端の言葉と、その手の温かさ柔らかさに、心が千切れそうになる。
振り向くと、公武はいつもと変わらずに、ほほ笑みを浮かべていたが、眉根を少しばかり寄せて、困惑するかのようでもある。薄闇の中に月光だけが彼の横顔を照らして、脣の赤さが際立った。それは月の精のようでもあり、その精は子供なのだろうか。ぼんやりとした明かりが、公武の幼さを強く照らした。
「御父様は変わり者だ。言っていることはまともじゃないって、マダムは言っているし、僕は気にしていない。」
マダムと聞いて、恵に、川端と初めて会った日に、彼と一緒にいた妙齢の女性が思い出された。彼女がマダムだろうかとぼんやりと考えていると、
「僕が人形がどうかと、そんなことを聞かれたんだろう。」
「どうしてわかるの?」
「誰にでも聞くからだ。君だけじゃない。宇賀神のね、何人かの友達も、遊びに来た時に、御父様に聞かれた。」
「あなたのことを、人形だって。」
公武は眉根をますます寄せたが、しかし、その目はどこまでも黒く、どこを見つめいるのか、定かではない。それは、恵には一瞬、彼を人形めいて見せる。
「ほんとうに、人形だからね。」
「人形じゃないわ。複製人間だわ。人間でしょう、あなたは。」
肯定する公武に対して、恵はかっと耳まで燃えるようで、思わず噛みつく素振りだった。公武はすましたほほ笑みで、
「人間だけれど、人形みたいなものだ。神さまに作られていないから、君たちとは違う。」
「違うわ。私たちだって、神さまから作られたわけじゃないわ。男と女から生まれたのよ。」
そう言って、恵は芯から燃えるようだった。公武はそのまま顔色を変えずに、
「昔の、幾つかの記憶があって、それが全て混濁していることがある。」
「昔の記憶?」
「僕の記憶じゃないのかもしれない。それこそ、死んでしまったニジンスキーの肉体が持っていた記憶。その幾つかが僕の中に種みたいにあって、それが生えて花になっているのかもしれない。僕が見た筈のない景色が、時折思い出されることがある。」
公武は、目を細めながら、自分の見ているという景色を語った。そうして、その遠いどこかで拾った記憶は、二十世紀のロシアや、見たこともないフランスの光景、その様々で、どこか作り話めいて恵には聞こえた。
「嘘みたいだろう。」
「小説かなにかみたい。全部、本当にあなたの記憶?」
「たしかに僕の中にある記憶だけど、本当の記憶じゃないのかもしれない。作り物を、頭の中に入れられたのかもしれない。でも、思い出すと胸が苦しくなる。」
哀しそうな目をして、公武は立ち止まった。そうして、恵も立ち止まると、脣を開いて、
「ねぇ。じゃあ、あなたの本当の記憶は?本当のあなた自身の記憶もたくさんあるんでしょう?」
公武は腕を組んで、立ち止まった。御心坂に、他の生徒の影もないから、ただ木々が夜風に戦いでいるだけだった。星の明かりが時折木々の合間合間から落ちてきて、二人をかすかに照らした。公武は思い出したように目を見開くと、
「ときどきね、その、僕の知らない記憶と僕の本当の記憶とが混じって、何が何だかわからなくなることがある。でもね、一つ、僕は昔スイスのバレエ学校に一月だけ留学したことがある。」
公武はそう言うと、アスファルトに座り込んだ。恵も倣って、公武の横に腰を下ろした。
「ローザンヌのルードラバレエ学校にね、一月だけ。寒い冬にね。御父様に連れて行かれたんだ。そのときの僕は、今よりもまだ踊りは苦手で、技術も拙かった。僕は十四だったから、今の君と同い年だね。僕が、ニジンスキーの移し身だからだろうね、ルードラは僕を快く引き受けてくれた。案の定、僕のことを気に入らない子たちでいっぱいだったよ。男の子も、女の子も、何人もが、僕を蹴落とそうとするんだ。ちょうど、その時はローザンヌのコンクールが間近にあって、ルードラからも十人が臨む予定だった。僕はもちろん見学だったけれど。ローザンヌは、若手ダンサーには喉から手が出るほど欲しいチャンスだろう?当時の僕は、まだ参加資格もなかったから、彼らが何故あれほど興奮しているかわからなかったし、まだ踊りの神髄も見たことがなかったから、少し冷めた眼で見ていたんだ。僕の事を嫌ってる子ばかりといったろう?その中の一人に、ミーアという女の子がいて、歳は十六、今はもう十八になったのかな?彼女は特に僕を嫌っていた。そして、彼女は特に抜きんでて実力があった。ミーアは、コンテもクラシックも他の生徒とは桁違いに技術があって、何よりも、一番特筆すべきなのは、美しい身体をしていることだった。しなやかに長い足を持っていた。彼女はコンクールでも上位入賞は間違いないだろうと言われていたけれど、僕は彼女が怖かった。それは、彼女が僕を嫌いだというわけじゃなくて、彼女の僕への怒りが、踊りに対しての怒りであって、その頂点を極めようとするが故の強烈な劣等感に寄るものだということをわかっていたからかもしれない。僕がルードラに来て、初めて踊ったその日に、彼女は僕への怒りを、隠すことはなかったから。彼女は、コンクールでは『キトリ』のヴァリエーションを踊った。素晴らしかったよ。目が離せない程に、彼女の踊りは研ぎ澄まされていた。彼女は、自分の踊りを踊って、僕に懸命に挑発してきていた。凄まじいエネルギーを感じたよ。バレエを見ていて、初めて鳥肌が立ったかもしれない。彼女は踊り終わって、疲れたように舞台裏で座り込むと、ずっと目を閉じていた。死んだのかもしれないと思った。それほどに深く眠っていたんだ。彼女は目を開けると、僕をじっと見据えていた。星が目の中にいくつも飛んでいて、彼女は悔しそうに涙を流していた。彼女は入賞したんだ。間違いなく、誰もが彼女は今日の女王だと、そう判断した。でも彼女は泣いていた。僕は、ただ彼女の目を見つめていた。スカラーシップを獲って、彼女はベルギーのアントワープに留学した。王立のバレエ学校にね。僕は、目覚めた後に見開いた、彼女の目を忘れることができない。ああいう火のついた目をね。それが、今も僕の胸に中に生きている。」
公武は訥々とそれだけ語ると、今度は黙ってしまった。そうして、恵は、まだ見たこともない、今はベルギーで踊っているかもしれない、そのミーアという娘を思った。彼女の『キトリ』を想像し、目を閉じた。今度目を開けると、まだ御心坂だった。木々の合間から見える星はいよい増えて、風に流されている。恵に、公武の心にバレエがあって、その美しい火に、触れられているのは、自分の幸福と思えた。
「来年のローザンヌは、あなたは行くの?」
恵が呟くと、公武は恵の方に顔を向けて、
「恵は?」
恵は少し考えて、
「私は、ローザンヌに行きたいわ。新しいバレエの学校に、行きたいわ。」
もう目は火のように炎を灯して、公武はその目をじっと頷くように受け止めた。
「恵なら行けるだろうね。どんどんどんどん上達している。」
「ねぇ?あなたは?あなたも行くんでしょう?」
公武の顔を覗き込むと、彼はまたほほ笑んで、
「そうだね。君も、僕も行くことになるだろうね。」
「行くことになるって、どういうこと?」
恵が尋ねると、公武は何も言わずに、ただ眠たそうに、また目を瞑った。
「何の話か、わかんなくなっちゃったね。」
恵が照れたように言うと、公武は立ち上がって、手を差しのべた。その手を掴むと、やはり、小柄な恵を軽々と支える、男の力が恵に伝わった。
「君はバレリーナになりたい?プロのバレリーナ。」
「プロとして踊れるのなら、そんな素敵なことはないと思うけど……。」
恵は、絵里奈を思い浮かべた。あのように、踊りの神さまか何かに愛された娘こそが、プロとして世界に羽ばたく。その熱意がある。それは、公武の記憶の中にいる、ミーアも同じだろう。恵は、自分が楽しいから踊っているだけで、先程の一瞬だけ、火の心になったけれども、しかし、プロとして踊る自分の姿など、想像も出来ない。
「一つ、一つね。まだプロだなんて、考えることも出来ないけれど、ローザンヌでは踊りたいわ。」
公武は頷いて、繋いだままの手を離すと、そのまま前を歩いて行った。公武の心は、恵にはまったくわからない。謎めいていて、しかし、男心、それも少年の純潔をわかる女などいるのであろうか。いるとするのならば、それは、裸の心で踊りあう自分だけなのではないかと、そのような嬉しさが、恵の心に満ちた。
「ローザンヌの話をしていて、面白いなと思ったことがあるんだ。」
「なぁに?」
急に振り向いた公武に、恵は心を見透かされないように、なんでもない振りをしてみせて、小首を傾げた。
「いいや、内緒だ。まだ思いつきだ。」
「どんな思いつき?」
恵が尋ねても、公武はほほ笑むだけで、そのまま前を歩いて行ってしまう。恵は、その、公武の思いつきというものを、自分の中でも考えてみる。思いつき。即興。インプロヴィゼーション。そういえば、公武は練習中も、思いついた振付を急に入れてきて、それが恵には対応できないことがある。感覚の男だった。公武は、まだ子供だからだろうか。まだ幼い彼の魂が、遊び、踊るうちに、色々な思いつきに閃いて、花ひらくのだろうか。
公武と並び歩いている内に、いつの間にか御心坂を下りきって、もうあとは一つ坂を登って下れば、恵の自宅だった。公武はそこで立ち止まり、
「僕は、美しい踊りが踊りたい。」
そう、真顔で言うと、
「君と踊ったホールでのアラベスク。あれは美しかったね。君は、覚えてる?」
「覚えてるよ。」
公武はほほ笑んで、そのまま踵を返すと、御心坂を上がって行った。その背中が、林の奥深くに消えていくまで、恵は目を逸らすことが出来なかった。
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