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生きにくい(一人で)

日本で生活するのって自分にとっての最善策なのかな。

最近こんなことばっか考えている。

日本と僕

これは自分が最も驚いたところだった。日本の要素が自分に大きな影響を与えていることに、ディスカッションで気づいた。

このような話をしていた。自分が「自分一人で幸せになれるようになりたい」「自分一人のアクティビティで幸福度をあげられるようになりたい」とみんなに話したら、周りの友人が「それは難しいと思う」と言ってくれた。

他人には依存してしまう。それは人間だからしょうがないという話があったが、特に面白かったのは「人と付き合う」という話をしていたときだ。自分はこれまで人と付き合っている期間が長かった。自分がこれまで付き合ってきたことに特に大きな理由はなかったが、今振り返ると「誰かから必要とされている証明書」を欲していたからのように感じていた気がする。このことを話したら、友達たちは「面白い」と言った。彼らは、付き合うことが「重荷」に感じていて、その重荷はあまり好きではないとのことだった。

その会話の中で、友達が「日本は誰かと一緒にいなければいけない雰囲気が強い。特に誰かと付き合っていなければいけない雰囲気が強い」と話していた。その感覚はこれまで自分にはなかったが、これまでの行動を振り返ると、そのような場面は多かったのかなと感じる。

高校での体育祭や文化祭、全体でのクリスマスなどは特に日本特有なのでは?。自分もそのような雰囲気に加担していた側だと考えると、日本人的なアイデンティティは持っているのだろうと思った。
一人でいると、東京では浮いている感じがする。自分が加担している日本的な行動に自分を制限されるように感じている。

過去の自分に苦しめられる

先日読んでいた本に以下のような文章があった。

スターバックスの注文の時に「グランデ」と言えない。何か自分が気取っているような気がして、恥ずかしかったのである。「Lサイズ」は言えるが「グランデ」は言えない。自意識過剰である。自意識過剰なことに対して、「誰も見てないよ」という人がいう人がいるがそんなことも百も承知だ。誰も見ていないのは知っているけど、自分が見ているのだ。どういうことかというと、「グランデとか言ってきどっている自分が嫌いだ」ということだ。この気持ちがどこからやってくるかというと、まず自分が他人に「スターバックスでグランデとか言っちゃって気取るな」と心のうちで馬鹿にしてきたことが原因なのである。他人に向かって向いた牙が、ブーメランのように弧を描いて自分に突き刺さっている状態なのである。他人の目を気にする人は、心の中で他人を馬鹿にしている、正真正銘のクソ野郎なのである。

ナナメの夕暮れ

今私はこれと同じような感覚に陥っている。誰も自分のことは見ていないのだが、一人でご飯屋さんに行くのが恥ずかしい。「こいつ一人だよ」って思われるのが恥ずかしい。これは、昔の自分に見られているから恥ずかしがっていると考えている。昔の自分に制限されている自分が嫌いだ。自分のこと気にしてる人なんてほとんどいないのに。

友達に暇って言えない自分

友達に君が必要なんだって言えない自分

今日ご飯食べる友達いないから食べたいって言えない自分

これらは全部過去の自分のせいで言えていないような気がする。これらが言えたらいかに人生が楽になるのかなどを考えるのだが、それでも言えない。友達がいて当然、ずっと遊ぶ人がいて当然。そんなふうに自分がこれまで思ってきていたからだ。それらは、自分の幼少期の過ごし方で形成されているのだということを発見した。そして、その一部は日本特有のものであるということを学べた。まだ本当のことはわかっていないが。

先日New Yorkに行った時、一人で行動することが苦ではなかった。一人でいても全く浮いている感じはしなかったし、一人で行動することの楽しさを経験することができた。また、英語で話すことになると、複雑に物事を伝える能力がないため、上記にあるような「言いたいけど言えないこと」は少なくなる。

戒め

一人で幸せになりたいとは言わない。
セルフコントロールで幸福感を爆増させたいとは言わない。
ただ、一人で機嫌は取ってあげたい。
一人で落ち込んでる時から脱する方法は見つけてあげたい。

そのための第一歩は、他人への偏った見方を変えること。
その時感じた自分の感情に気づくこと。
その感情を押し殺さずに行動に移すこと。

多分そっちの方が人生楽しいよ。自分

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