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第62回 これからの仏教③ 「死後の世界」は、実在の世界!

 「死んだらどうなる?」、NHK放送文化研究所が5年毎に行っている「日本人の意識」調査の推移を見ると、「神・仏」の存在は3~4割の人が信じているのに対し、「あの世・来世」の存在は1割前後の人しか信じていません。

 日本は仏教国と言われているので、もっと多くの人が「あの世・来世」の存在を信じていると思っていたのですが、意外に少ない結果に驚きました。   阿弥陀如来の「西方極楽浄土」は、空想上の作り話だと思っているのでしょうか? お盆や年忌供養の法要では、一体何を供養しているのでしょうか?

 もっとも、noteにアップされているブログに、「行ったことがないから、死後の世界が有るかどうか分かりません。」と正直に書いている仏教者の方もいるようですから、一般の人が信じられないのも無理はありません。

 日本の伝統仏教の各宗派で「霊魂」や「死後の世界」をどう教えているのか、「宗教情報センター」の藤山みどり研究員の一連の研究レポート(2014年10月付)をネットで読んでみると、率直に言って、カオス(混沌)としか言いようがありません。

 「霊魂」が有るのか無いのか、「死後の世界」が有るのか無いのか、宗派それも僧侶によって見解がバラバラで、結局は、各仏教者の判断・解釈に任されているようなのです。

 「信じる者は、救われる。」とよく言いますが、信じなかった者は、果たしてどうなるのでしょうか?
 死ねば全てが無に帰すから、何も心配することは無いとでも言うのでしょうか?

 無宗教・無信仰の人にも、何かの宗教を信じている人にも、平等に死はやってきます。その時、何が起こるのか?

 キリスト教やイスラム教の死後観は、最後の審判で復活して天国に行くか地獄に落ちるか、と割にはっきりしているように思います。
 それに較べて、日本仏教の死後観は宗派によって様々で、仏教として統一されたものはありません。

 釈尊の説法の重要な基盤をなす「輪廻からの解脱」にしても、「輪廻」そのものの存在の有無が議論されている状態であり、「死後どうなるのか」については、まさに藪の中です。

 どうして、こんな混迷が起きてしまったのでしょうか? どこで仏教は、道を間違えたのでしょうか?

 釈尊は、間違いなく「悟り」を開き、人間の来し方(=前世)行く末(=来世)について真実を語り、現生を如何に生きるべきかについて真理を説いています。
 著作こそ残していませんが、口頭で伝授・理解できるような、シンプルで明快な教えだったはずです。

 普通に生きて生活している在家信者に向けて説いた教えを、もう一度思い起こし、実践する必要があります。
 釈尊の説く「死後の世界」は、その実践の結果として獲得されるものです。

 スッタニパータの第404詩には、《正しい法(に従って得た)財を以て母と父を養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮している在家者は、(死後に)〈みずから光を放つ〉という名の神々のもとに赴く。》(「ブッダのことば」 中村元著 岩波文庫)、という文章が残されています。
 正しい行動をして正しい人生を歩んだ在家者は、死んだ後に、いわゆる「極楽浄土」のような立派な所(浄土世界)に往生することができる、と明確に書いてあるのです。

 「極楽浄土」のような浄土思想は後世の大乗仏教成立と共に確立した思想だと考えられていますが、それは間違いです。
 釈尊自身が、在家信者に向けて説いた教えなのです。

 釈尊は、自説経の中で、《ニルヴァーナ(涅槃)は原初から存在する始原的なもので、その中に、「造られたもの=諸世界」が存在する》と説いています。
 又、般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」の中で、《諸世界は、(ニルヴァーナの中で)、分散して存在している。》(拙著「般若心経VSサンスクリット原文」)とも説いています。

 阿弥陀如来の「西方極楽浄土」は、ニルヴァーナに無数に存在する、諸世界の中の一つなのです。

 釈尊の直説を伝えているとされる最古の仏教経典「スッタニパータ」で具体的に言及されている世界は、人間界(この世)・天(上)界・地獄・浄土世界の四つです。
 六道輪廻に登場する(阿)修羅界は、恐らく天(上)界に含まれる世界だと思いますが、餓鬼界・畜生界の存在については全く触れられていません。

 臨死状態になった人が経験する様々な世界は、瀕死の脳が作り出す、妄想の世界ではありません。死ねば誰しもが体験する、現実の世界なのです。

 釈尊は、今の境遇より少しでも良い境遇の人生・世界に生まれ変われるよう、正しい生き方・暮らし方を説きました。
 それが、原初の仏教なのです。

 人間は、悟りを得て、輪廻の流れから離脱(=解脱)しない限り、永遠に生まれ変わり死に変わりを繰り返す運命にあります。
 主体であるアートマン(我)が、精子と卵子の結合により誕生する、肉体という乗り物を乗り換えながら、自らが前世で積み重ねた業(ごう=行為)に従って、様々な人生を経験するのです。



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