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第58回 釈尊は、なぜ無記(=沈黙)を貫いたのか?

 釈尊は、修行者からの問いに対しては、その人の機根(資質)に応じた回答をしていたことが知られています。これを、対機説法と言います。

 その釈尊が、いくつかの問いに対しては、全く回答せずに沈黙を貫いたことが仏典に記されています。これを、無記と言います。
 釈尊は何も回答しなかったから、記すこと(書き残すこと)は無いという意味です。

 全てを悟り仏陀となった筈の釈尊が、なぜ回答を拒否し沈黙を貫いたのか?
 仏典に残されたいくつかの無記のうち、代表的な十無記を取り上げ、その真意について考えます。

 十無記とは、下記の十問に対する無回答のことです。

 (1)世界は、常住であるか?
 (2)世界は、常住ではないか?
 (3)世界は、無辺であるか?
 (4)世界は、無辺ではないか?
 (5)身体と霊魂は、一つであるか?
 (6)身体と霊魂は、別であるか?
 (7)如来は、死後に存在するか?
 (8)如来は、死後に存在しないか?
 (9)如来は、死後に存在し、かつ存在しないか?
 (10)如来は、死後に存在するのでもなく、かつ存在しないのでもないか?

 十問になっていますが、(9)(10)は(7)(8)と関連しており、まとめると、次の四問に集約されます。

 ★世界は、常住であるか否か?
 ★世界は、無辺であるか否か(=有限か無限か)?
 ★身体と霊魂は、一つであるか否か?
 ★如来は、死後に存在するか否か?

 仏教の長い歴史の中で、この十無記については、「無我」との関係等も含めて、様々な解釈がなされてきました。

 どの解釈が正解なのかは未だに決着がついていませんが、仏教界の大方の理解としては、「回答しても、修行には何の役にも立たない、むしろ修行の妨げになるから沈黙で答えた。」、ということのようです。

 仏陀となった釈尊からすれば、どの問いに対しても、明確に答えは示せたと思えるのですが、あえて無記(=沈黙)を貫いたその真意は何なのか?

 拙著「般若心経VSサンスクリット原文」で詳細に展開している「法隆寺貝葉写本」の翻訳結果と、釈尊の直説で最古の仏教経典とされる「スッタニパータ」の精読結果から、「無記」を貫いた釈尊の真意について考察します。

 ★世界は、常住であるか否か?

 この問いで問われている世界(loka)は、非物質世界である「あの世」も含めた世界のことなのかどうか、必ずしも明確ではありませんが、一応、我々が現住する物質世界である「この世」のことだと考えて考察します。

 仏教の基本教理とされる三法印の一つに、「諸行無常」があります。
 正確に翻訳すれば、仏教学者中村元氏が主張するように、「諸行非常」が正しいのですが、「全ての造られたもの(諸行=諸世界)は、恒常不変ではなく、変化するものである(非常)。」という意味の言葉です。

 これが仏教の基本教理(三法印)の一つだとすると、必然的に、「世界は、常住ではない。」という結論(回答)が導ける筈です。
 しかし、釈尊は、「無記」で答えました。何故なのでしょう?

 それは、仏陀となった釈尊が知覚した世界の実相は、「世界は、常住ではない、且つ、常住である。」という、矛盾した答えを含むものだったからです。

 どういうことかというと、人間の分別知である眼・耳・鼻・舌・身・意の六識によって分別・認知される世界(この世)は、常に変化していて、恒常不変(常住)ではありません(=諸行非常)。

 一方、「法隆寺貝葉写本」のサンスクリット原文に記された、肉体から分離・離脱した意識(心・魂=無分別智)が認知する世界は、説一切有部が主張するように、三世(過去・未来・現在)に渡って常住なのです(=三世実有・法体恒有)

 世界の存在の在り方(常住か否か)に対する、この矛盾した真理は、無上正等覚を獲得した仏陀でないと理解できないのです。
 だから、釈尊は、無記(=沈黙)を貫いたのだと思います。

 ★世界は、無辺であるか否か(=有限か無限か)?

 この問いは、世界を宇宙に置き換えると、分かりやすいと思います。
 宇宙には果てが有るか無いかという、極めて現代的な問題と全く同じなのです。

 宇宙の内側にいる人間の観測手段では、宇宙には果てが有るのか無いのか、言い換えれば、宇宙には外側が有るのか無いのかは判別できません。

 しかし、アメリカの科学者ジョン・C・リリーがLSDを摂取した人体実験で実体験したように、宇宙の外側に飛び出した(体外離脱した)意識(心・魂=無分別智)には、宇宙(=世界)には果てが有ることが、明確に認識・知覚されるのです。

 釈尊は、瞑想行により意識(心・魂)の体外離脱を実現し、宇宙(=世界)の姿を外側から見ることができたので、この問いに対する答えは明快だったのです。

 しかし、修行中の者が、この真理を聞いて、理解することは可能だったでしょうか。否定的な気持ちで、釈尊は、無記(=沈黙)を貫いたのではないでしょうか。

 ★身体と霊魂は、一つであるか否か?

 釈尊のように体外離脱を体験した聖者にとって、「身体と霊魂は、一つであるか否か?」に対する答えは自ずと明らかで、「別異である」となります。

 しかし、生きている普通の人間(衆生)には、「身体と霊魂は、(霊魂があるとすれば)、一体のものである。」としか考えられません。

 この問いに対しても、「身体と霊魂は、一つであり、且つ別異である。」という矛盾した回答にならざるを得ないので、修行者に対して、釈尊は、無記(=沈黙)で答えたのだと思います。

 ★如来は、死後に存在するか否か?

 この問いは輪廻転生の問題とも深く関わっていて、仏教界では、如来ではなく、人間(衆生)のことを言っているのではないかという議論もあるようです。

 主語が如来か人間(衆生)かでは、全く異なる問いになってしまいますが、私は、原文通り、如来が正しいと判断して考察します。

 この問いは、輪廻転生の流れから完全に解脱して仏陀(如来)となった聖者は、死後、肉体が消滅した段階でどうなるのか、何かが残存するのかしないのか、或いは、梵我一如となって梵(ブラフマン)と一体化した我(アートマン)は、人間として生きていた時の個性を保つのか保たないのか、というような事に関して発せられているのではないかと思います。
 解脱していない衆生は、死んだら、次の生に輪廻転生するのは自明だからです。

 この問いに対しては、「如来は、死後存在し、且つ、存在しない。」という矛盾した答えが、正しい回答になります。

 何故かと言うと、如来(=仏陀=釈尊)は輪廻の流れから解脱しているので、死後、五蘊(色・受・想・行・識)は完全に消失して、人間(衆生)の六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)が認識できる対象ではなくなります。
 その意味では、「如来は、死後、存在しない。」のです。

 一方、解脱したアートマン(我)は、ブラフマン(梵)と一体化(=梵我一如)して存在しており、その意味では、「如来は、死後、存在する。」のです。

 この矛盾した真理は、自らが解脱して如来(=仏陀)とならない限り、理解不能なのです。
 だから、釈尊は、無記(=沈黙)を貫いたのだと思います。

 このように、自らが解脱して仏陀とならない限り理解不能な問いに対しては、答えても相手を混乱させ修行の妨げになるだけだと考え、釈尊は無記(=沈黙)を貫いたのではないか、というのが私の結論です。

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