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第55回 仏教から密教へ! 密教は、なぜ仏教なのか?

 最古の仏教経典「スッタニパータ」と般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」から「釈尊仏教」(=紀元前485年の仏教)を復元する試みは、大雑把ですが、前回で終了します。

 釈尊は、大きく分けて、「現生での成道・成仏」を目指す出家修行者向けの「求道仏教」と、「浄土世界への死後往生」を目指す在家信者向けの「救済仏教」を説きました。
 釈尊の直説を記録した最古の仏教経典「スッタニパータ」には、この二つの教えが明確に区別・整理されることなく、備忘録のように雑然と記されています。

 最も重要な「現生での成道・成仏」を目指す「求道仏教」は、釈尊の死後、「成仏」を意味する最高の悟りの境地「無上正等覚」を獲得する弟子が現われることもなく、釈尊の説法を自己流に解釈して伝承する、「弟子達の仏教」が次々と誕生・乱立することになります。

 「弟子達の仏教」は、小乗仏教(部派仏教)や大乗仏教という大きな潮流を生み出しましたが、「成道・成仏」という最も重要な成果を挙げることもなく、解釈の違いによる宗派だけが増えるという、残念な結果に終わりました。

 そして、インドで仏教が衰退に向かう中、最後に登場したのが、釈尊と同じ「現生での成道・成仏=即身成仏」の実現を標榜する、「密教(秘密仏教)」です。

 密教(特に後期密教)は、釈尊とは180度正反対(真逆)に、人間の欲望を全面的に肯定し、男女間の性愛(交合)の極致こそが「即身成仏」に至る最善・最短の道だと主張したのです。

 密教(後期密教)がダイレクトに伝わったチベットで、男女が性的に合一した姿をかたどった「男女合体尊像(ヤブユム)」が、信仰の対象として崇められていることからもその修行形態が想像できます。

 一方、弘法大師空海によって日本に伝えられた密教(真言密教)は、仏教史上「中期密教」に分類されるもので、主に身・口・意を使った修行を通じて「即身成仏」を目指します。

 しかし、真言宗の祖である弘法大師空海が日本に持ち帰った密教経典類の中に、真言宗が重要経典と位置付ける、男女の性愛(交合)の極致が菩薩の境地であることを説く、「理趣経(りしゅきょう)」が含まれていることを忘れてはなりません。

 「理趣経」(大楽金剛不空真実三摩耶経・般若波羅蜜多理趣品 )は、8世紀に不空三蔵により漢訳されたものですが、その異訳に当たる「理趣分経」(大般若波羅蜜多経・第十会・般若理趣分)は、唐の玄奘三蔵により漢訳されました。
 従って、男女の性愛(交合)の極致が「菩薩の境地≒即身成仏」に繋がるものであることは、大乗仏教が興隆した初期の段階から認識されていたものと思われます。

 釈尊とは正反対の修行法による「菩薩の境地≒即身成仏」を説く「密教」が、同じ「仏教」の範疇に位置付けられ伝承されている事実の意味するところは非常に重要で、「悟りとは何か?」という仏教の本質を突いています。

 「密教は、なぜ仏教なのか?」という命題を解明することは、即ち、「悟りとは何か?」という大命題を解明することとイコールなのです。

 解明への第一歩として、「理趣経」冒頭の「大楽の法門」(金剛薩埵の章)にある17清浄句とその現代日本語訳を、ウィキペディアの記述から引用して紹介します。

 「大楽の法門」(金剛薩埵の章)
《1 妙適淸淨句是菩薩位 - 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
2 慾箭淸淨句是菩薩位 - 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
3 觸淸淨句是菩薩位 - 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
4 愛縛淸淨句是菩薩位 - 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である
5 一切自在主淸淨句是菩薩位 - 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である
6 見淸淨句是菩薩位 - 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
7 適悦淸淨句是菩薩位 - 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
8 愛淸淨句是菩薩位 - 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
9 慢淸淨句是菩薩位 - 自慢する心も、清浄なる菩薩の境地である
10 莊嚴淸淨句是菩薩位 - ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である
11 意滋澤淸淨句是菩薩位 - 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である
12 光明淸淨句是菩薩位 - 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である
13 身樂淸淨句是菩薩位 - 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である
14 色淸淨句是菩薩位 - 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である
15 聲淸淨句是菩薩位 - 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である
16 香淸淨句是菩薩位 - この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である
17 味淸淨句是菩薩位 – 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である》


 第1句(初句)が総論というか結論に当たり、2句目以降17句までが具体的な各論になっています。
 初句で高らかに詠われているように、男女の交合(性的な恍惚境)がそのまま菩薩の境地である、と宣言しているのです。

 「理趣経」を重要経典として毎日読誦している真言宗を始めとする日本の仏教界では、「理趣経」の経文は、「人間の自性は、本来清浄なものだ」ということを分かりやすく説くために、男女の交合を例に用いた「例え話」だという見解をとっていて、経文をそのままに受け取ってはならないと教えています。

 しかし、これほど明け透けに男女の交合を称賛する句が、なぜ密教経典の冒頭に掲げられているのでしょうか?

 それは、男女の交合の極致が、実際に、「菩薩の境地≒悟り」の実現をもたらすものであるからです。

 「般若心経」のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」には、「悟り」の本質は、意識(心・魂)が肉体から分離・離脱してニルヴァーナ(涅槃)に到達すること、いわゆる体外離脱の実現であると説かれています。

 釈尊は、この体外離脱を、瞑想という手段(修行法)で達成したのですが、「理趣経」は、明示はされていませんが、男女の交合による恍惚の極致で体外離脱が達成されると説いているのです。

 今日では、意識(心・魂)を体外離脱させる手段として、瞑想以外に、臨死・薬物・物理的音響効果・退行催眠等が知られています。
 密教(特に後期密教)で重要視される、「男女の交合」を手段とする体外離脱法は、その中の一つなのです。

 作家の五木寛之氏が朝日新聞夕刊掲載のエッセイで紹介された、非常にゆっくりした交合を特徴とする「ポリネシアン・セックス」も、同じ結果(体外離脱=菩薩の境地)をもたらす手段の一形態と言えます。

 「理趣経」の17清浄句の第1句に掲げられる「妙適淸淨句是菩薩位」は、「悟りに至る道=彼岸に到る道」を示唆しているのです。

 「理趣経」は他の仏教経典と違い、一般の信者が経典に書かれていることをそのまま受け取って誤解しないようにと、意図的に、呉音ではなく理解しにくい漢音で読まれています。

 ウィキペディアの「ヤブユム」の項でも、《交合とその快楽そのものを悟りの境地と紐付ける解釈は密教系のカルト宗教に多く、明確な誤りである》と注釈されています。

 恐らく、男女の性愛(交合)の極致が意識(心・魂)の体外離脱をもたらすことを実体験したことのない、正統派(?)の仏教者の「理趣経」理解は、上記のようなものだと思います。

 「悟り」の本質は、釈尊のような悟った聖人でないと理解できないように、「妙適(みょうてき=交合による恍惚境)」が清浄な菩薩の境地であることは、交合の極致を体験した人でないと理解できないのです。

 「妙適」は、「瞑想」による悟りの獲得より、はるかに実現が容易な方法だと私には思えるのですが、一歩間違えると、「菩薩の境地」を実現するどころか、社会秩序を破壊し、性的堕落・頽廃に陥る最悪の結果を招く恐れがあります。

 その危険性を考慮しても尚、釈尊が知覚した目に見えない世界の真相・生死輪廻の真相に迫り、与えられた現人生をいかに生きるべきかを知るために、密教が確立した「妙適による即身成仏」という手段に正しくチャレンジすることは、極めて有意義なことだと思います。

 次回は、「理趣経」には明示されていない、意識(心・魂)の体外離脱をもたらす「妙適=交合の極致=菩薩の境地」とはどのようなものであり、どうすれば達成できるのかについて一石を投じてみたいと思います。

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