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第63回 これからの仏教④ 輪廻を拒否する霊魂! 

 人間存在の主体であるアートマン(我=霊魂)は、現生での乗り物である肉体の死後、現生或いは前生で積み重ねた行為の集積である、業(ごう)の結果に従って次生(来世)を得ることになります。

 善因を積み重ねたアートマンは西方極楽浄土や天(上)界等の素晴らしい世界へ、悪因を積み重ねたアートマンは地獄へ、悲喜交々の執着を残したまま人生を終えたアートマンは再び人間界(この世)へというように、いずれかの次生へ生まれ変わることになっているのです。
 これが、全ての宗教の基盤をなす、輪廻転生の教えです。

 ところが、不慮の事故や事件・災害等に遭遇し、強い執着や怨念を抱いたまま死亡した場合、次生へ輪廻転生せずに、生前の姿形のままの霊魂(=意成身・意生身)としてこの世に居座り続けることがあります。
 それが、俗に地縛霊や浮遊霊と言われる、幽霊です。

 肉眼では見えない非物質的存在なので、非科学的な迷信・妄想としてその存在が否定されることも多いのですが、間違いなく、この世(地球上)に現存する存在です。
 東日本大震災の後、被災者の霊魂が多数目撃(?)されたことが記憶に新しいところです。

 幽霊の話をすると、人心をいたずらに惑わすべきでない、と宗教そのものを否定されることもありますが、科学的な立証は出来ないものの、幽霊は確実に存在します。

 幽霊が実際に存在するにしても、生きている人間には何も影響しないのであれば問題はないのですが、往々にして、精神的・身体的に弱った状態にある人に対して深刻な影響を及ぼすことがあるので注意が必要です。

 私は、過去に二度、彷徨える霊魂(幽霊?)が実際に存在していると思える場面に遭遇したことがあります。

 一度目は、精神的に非常に落ち込んだ状態にある人が、半ば眠っている状態の時に、何者か(幽霊?)に呼び寄せられ呼び寄せられる方向へ歩いて行こうとした時です。
 すぐに気付いて制止したので大事には至りませんでしたが、本当にひやりとした瞬間でした。

 二度目は、今から十年位前、仕事をしている最中に起きた出来事ですが、数メートル離れた隣で同じ仕事をしていた人が、誰かと何かをぶつぶつ怒りを交えながらしゃべっているのです。
 周囲には、私しかいません。
 そのうち、「うるさい黙れっ!」と言って会話が終わったり、また同じようなことが繰り返されたりするのですが、こんなことが連日続き、とうとうその人は辞めたのか辞めさせられたのか仕事に来なくなってしまいました。

 何か大きな悩みを抱えていたのではないかと思うのですが、休憩時間中には、全く普通に私達と会話していたのです。

 こんな時、救いとなるのは心療内科や精神科で処方される薬しかないのでしょうか?

 物質的には豊かになっても精神的に追い詰められることが多くなった現在、憑依(ひょうい)という不可思議な現象にもっと注目が集まり、その原因・対処法について、宗教的な見地からアプローチし解決策が模索される必要があるのではないかと思います。

 釈尊の最大・究極の教えは、輪廻の流れから解脱し自らが仏陀の境地に達するための方法と手段についてですが、それを目指すべくもない一般の在家信者に対しては、より良い次生(来世)に輪廻転生するために、現在の人生をどう生きたらいいのかについて説いています。

 間違っても、この世に執着を残すような生き方をしてはいけない、また、彷徨う霊魂(幽霊?)と接点を持つような生き方をしてもいけないと説いているのです。

 今、先祖の悪因縁を断つためとして多額の献金を強要したり、高額の物品を購入させたりする宗教行為(?)が大問題になっています。
 心が弱った人は藁(わら)にもすがる思いで応じているのでしょうが、金銭で先祖の悪因縁が解消されたり、自らが作った罪障(悪業)が解消されることは絶対にありません。

 心が受けているダメージは、金銭を提供したり物品を購入することでなく、聖者(仏陀や神々)の教えを正しく受け入れ、それを丁寧に実践することによってしか解消することはできないのです。

 釈尊が一般の在家信者に向けて説いた教えは、人間、どう生きるべきかについてのシンプルな指南書のようなものでした。
 万が一、八正道のような正しい生き方から外れて、心が暗い闇に落ち込んでしまった場合の対処の仕方も含めて、仏教は現生での生き方・指針を明確に示すものとして存在していることを、改めて、再確認・実践すべき時に来ています。

 

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