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第64回 これからの仏教⑤ 「無明」を知り明らめる!

釈尊が開教した仏教は、一般的な解釈では、無明に覆われた衆生が、仏道修行により無明の闇を取り除き、悟りと呼ばれる究極の境地に到達し、仏陀に成る教えだと理解されています。

 しかし、仏陀に成る「成仏」という最終的な目標・結果ははっきりしているのに、そのプロセスの核心である「悟り」と「無明」という二つの言葉の持つ意味・内容は、意外なことに、仏教界では未だに明確になっていないのです。

 二つのうち「悟り」という言葉については、般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」を翻訳し直したことにより、肉体から分離・離脱したアートマン(我=心・魂)がニルヴァーナ(涅槃)に到達することであることが明らかになりました。
 詳細な解明プロセスについては、拙著「般若心経VSサンスクリット原文」を御覧下さい。

一方、「無明」については、諸説あるものの、全てを明快に説明し誰もが納得する、「これが正解だ!」という合意された定義は未だにありません。

 合意された定義がないという根拠は、もし、何らかの仏道修行により無明の滅尽に至った修行者がいたとしたら、即、明(=悟りの境地)を獲得し仏陀或いは阿羅漢に成っているはずですが、これまでの長い仏教の歴史の中で、それに成功したという人の話は、寡聞にして、聞いたことがありません。(原始仏教の「テーラガーター」「テーリガーター」等を除く)

「無明」という言葉は、「悟り」という言葉と同様に、真意不明なまま、ミステリアスな印象を帯びつつ伝承されているのではないか、というのが私の偽らざる感想です。

 そこで、今回は、救済を目指す大多数の在家信者にとっても大いに関係する、釈尊自身は本来どういう意味・内容で「無明」という言葉を使っていたのか、について明らかにしてみたいと思います。

 無明と漢訳されるパーリ語avijjaaは、般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」ではサンスクリット語avidyaaとして登場しますが、元々は、最古の仏教経典と目される「スッタニパータ」に出てくる言葉です。

 スッタニパータは、釈尊の直説(じきせつ)を収集し編纂・記録した経典と考えられていて、5章から構成され、「第3 大いなる章 十二 二種の観察」には、無明という言葉と共にそれに対する釈尊の説示が出てきます。 「二種の観察」は、弟子達との問答というよりは、釈尊の一方的な講義、即ち、自説経のような性格を持つ説示です。

 全てを覚知し仏陀となった釈尊が、出家修行者に向けて、出離(=解脱)を得させ悟りに導く諸々の真理、即ち、「輪廻の原因」・「悟りに至る道」・「世界の構造」・「真理と虚妄」等々について、簡明に説示しています。

 具体的にどういうことが説示されているかについて、無明の解明に繋がる部分だけを、「ブッダのことば」(中村元訳 岩波文庫)から引用して紹介します。

 最初に、《「これは苦しみである。これは苦しみの原因である。」という第一の観察(法)と「これは苦しみの消滅に至る道である。」という第二の観察(法)を正しく観察し、怠らず、勤め励んで専心している修行者に対しては、「現世における悟り」か「この迷いの生存に戻らないこと(不還)」のいずれか一つの果報が期待され得る》、という真理が明示されます。

 そして、さらに、次のように続きます。

 《724詩 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、・・・

 725詩 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれらは実に生と老いとを受ける。

 726詩 しかるに、苦しみを知、り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、・・・

 727詩 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。》

 さらに、「生存の素因⇒無明⇒潜在的形成力⇒識別作用⇒接触⇒感受⇒妄執⇒執著⇒起動⇒食料⇒動揺⇒従属⇒物質的領域・非物質的領域・消滅⇒真理と虚妄⇒安楽と苦しみ」の順に、「二種の観察」についての説示は続きます。

 一見すると「十二縁起」のようなものを説いているように見えますが、項目は十五あり、「無明」からではなく、「生存の素因」から始まっていることに注意が必要です。

「無明」の真意の解明には、最初の二つ、「生存の素因」と「無明」についての説示内容の精査が不可欠なので、引き続き、「ブッダのことば」から引用して紹介します。

 《「生存の素因」の前文  ・・・前略・・・ 「およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである」というのが、一つの観察(法)である。「しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない。」というのが第二の観察(法)である。このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。・・・すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。・・・

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

 728詩 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。》

 《「無明」の前文  ・・・前略・・・ 「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである」というのが、一つの観察(法)である。「しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない」というのが第二の観察(法)である。このように ・・・以下同文・・・ 。

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)はさらにまた次のように説かれた。

 729詩 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する

 730詩 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。》

 この「二種の観察」で注目すべきは、「無明」からではなく、「生存の素因」から始まっていることです。

 「生存の素因」と「無明」を入れ替えてみても同じような説示に聞こえ、どちらかは必要ないんじゃないかと思えるのですが、釈尊は、二つを、明確に区別して説いているのです。

 「生存の素因」というのは、「そもそも、衆生(人間)は、何故この世(地球上)に生まれてきているのか、人生における苦しみは何故起きるのか、その原因は?」というニュアンスをもつ言葉です。

 そして、その苦しみは、自らが過去世で積み重ねてきた行為(=業)の結果が、時間と空間を超越して現人生に縁起して惹き起こされている、のだと説いています。

 さらに、釈尊の教えに従い、現人生で、《怠らず、勤め励んで修行に専心すれば、「現世での悟り」か「迷いの生存に戻らない」という二つの果報のどちらかが期待される》、とも説いています。

 逆に言えば、釈尊の教えにそっぽを向き、煩悩(=悪因)を積み重ねる好き勝手な人生を選択したら、再び、この「迷いの生存(=地球上の人生)」に戻る(=輪廻転生する)ことを明言しているのです。

 「二種の観察」から読み取れることは、肉体の死後、主体であるアートマン(我=心・魂)は、「現世での悟り(=ニルヴァーナへの到達)」か、「煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存(=地球上の人生)に戻らない」か、或いは、「この迷いの生存に戻る」の三つのうちいずれかの道を辿ることになるということです。

 三つの道のうち、「現世での悟り(=ニルヴァーナへの到達)」と「この迷いの生存(=地球上の人生)に戻る」の二つの道は、誰が聞いても明確に理解できます。

 では、「煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存(=地球上の人生)に戻らない」と説示された、修行未達の修行者のアートマン(我=心・魂)は、一体、どこに向かうのでしょうか

 ここに、「無明」の真意を解く、重要なヒントがあります。

 「迷いの生存」が、「この世(地球上)」での人生(誕生⇒老死)を指しているのは明らかです。

 修行未達のアートマン(我=心・魂)は、「迷いの生存=地球上の人生」には戻らない、となればどこに戻るのか?

 この問いに対する解を提供するのが、「物質的領域・非物質的領域・消滅」と題された、世界を三つに区分する、釈尊の世界観です。

 「消滅」が「ニルヴァーナ(涅槃)」、「物質的領域」が「この世(地球上)」を表わしているのは、前後の文脈から明らかです。

 では、「非物質的領域」とは、どんな世界を表わしているのでしょうか?

 前にも何回か書きましたが、釈尊の言う「非物質的領域」とは、地獄や天(上)界或いは浄土世界等の、物質的な肉体の代わりに、非物質的な意成身・意生身(=霊体や幽体のようなもの)をアートマン(我=心・魂)上にまとった住人達が居住している世界のことです。

 般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」の梵文で、意界(mano dhaatuu)と表現されている世界が、「非物質的領域」に相当します。

 「煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存(=地球上の人生)に戻らない」と説示されている修行未達の修行者達のアートマン(我=心・魂)は、天(上)界や浄土世界等の「非物質的領域」に向かうのです。

 では、肉体の死後、アートマン(我=心・魂)が「物質的領域(=この世)」に戻るときと、「非物質的領域(=意界)」に向かうときとは、どこがどう異なっているのでしょうか?
 無明と、どう関係しているのでしょうか?

 730詩に、「無明とは大いなる迷いである。」という、無明に対する釈尊の解答が説示されています。しかし、抽象的で、具体的にどういうことなのか、それ以上の説明はありません。

 前後の文脈から、「無明」は、「迷いの生存=この世(物質的領域)への輪廻転生」にのみ付随した現象であることは明らかです。

 ニルヴァーナ(涅槃)への到達(=解脱)や、意界(非物質的領域)への輪廻転生には付随していないのです。

 では、「迷いの生存=この世(物質的領域)への輪廻転生」と「意界(非物質的領域)への輪廻転生」とで、明確に異なる相違点は何でしょうか?

 考えられる相違点は、ただ一つです。

 「迷いの生存」つまり「この世」に衆生(人間)が生まれるとき、誰も、過去世の記憶を持って生まれてくる者はいません。

 主体であるアートマン(我=心・魂)は、全ての過去世の記憶を封印され、パソコンでいえば、工場出荷時のデフォルトの状態で生まれてくるのです。

 一方、地獄や天(上)界・浄土世界等の意界(非物質的領域)に輪廻転生するアートマン(我=心・魂)は、浄土来迎図でおなじみのように、生前と同じ姿形のまま、記憶や意識も保持したまま往生するのです。

 従って、自分が何者であり、どんな人生を送ってきたかを明瞭に覚えており、これから(意界転生後)どんな修行をすれば良いかについても迷いがないのです。

 「無明とは大いなる迷いである」との釈尊の説示は、過去世の記憶を全て封印され、自分は何者であるのか、どういう業(ごう)を背負っているのか全てが迷妄の中で、我々衆生(人間)はこの世(地球上)に生まれてきているということを教えているのです。

 そして、過去世と同じ間違いを繰り返さないために、今の人生で四諦や八正道等の正しい道に目覚め実践し、苦しみから離れる生き方をしなさい、と説いたのがこの「二種の観察」ではないかと思います。

 赤ちゃんが生まれた時、誰もが祝福し、共に喜びます。しかし、全てを覚知し仏陀となった釈尊の認識は、全く違うのです。

 仏陀の目から見れば、この世(地球上)は一種の矯正施設であり隔離施設であり、強制収容所なのです。

 釈尊のように、予め仏陀に成ることを予言(=授記)されたごく一部の人を除き、この世(地球上)に生まれてくること自体が、矯正すべき業(ごう=原罪?)を一身に背負った罪人(悪人)であることを如実に示しているのです。

 仏教とは、崖から転がり落ちる人生を繰り返す人をただ傍観するのではなく、平安な境地に達し心穏やかな人生を送るための道標を提示する、求道・救済の教えだったということを、仏教者は、再度確認する必要があるのではないかと思います。





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