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釈迦の苦行像

釈迦苦行像を彫るに際して何故彫ろうかと思い立ったのは、実物は見たことはありませんが、20年以上前に何かの本の写真でパキスタンのラホール美術館の苦行像を拝見したんだと思います。

それからずっと頭から離れずにいました。

苦行を否定したお釈迦さんの苦行像には意味がないのではないかと思っていた時期もありました。
それでも理屈を超えた魅力というかインパクトが頭から離れません。

彫刻だけでもなく絵画でもそうですが、美しいだけでなく強烈に時代を超えて惹きつけるものは、永遠と生きているのではないかと思ったりします。

私はもっと冷静にみてしまうのですが、それだけ作り手の表現力の凄さ、人体の構造を正確に捉えているので、何らかの方法で人体についての勉強をされていたのかと思います。
もしかしたら直接人体の死体で解剖をしていたかもしれません。
わずかに右に頭を傾けシンメトリーに彫らないところがリアリティーを醸し出しています。
あらゆる箇所に見入ってしまいます。
何故見入るのかと言いますと、像の中の違和感を探し出している作業なんだと思います。
こんなことを言うと誤解がありますが、絵画や彫刻を見るとき全体にバランスがよく、細部の細工、例えば衣紋線の数とその線の処理の仕方、その細工が細かすぎたり荒すぎたりしないか
チェックを何度も繰り返し、違和感がなかったら安心して見入ってしまう。
逆にどこかに違和感を見つけてしまったら、残念に思ってしまいます。
もちろん自分の中だけにしまっておきますが。

パキスタンのラホール美術館の苦行像は写真で見る限り素晴らしい彫刻です。
それでも模刻をすることはないだろうと思っていました。

お釈迦さんが苦行を否定していたので私もそのつもりで苦行には意味がないと人にも言っていた手前もあり、自ら彫ることにちょっと抵抗があったのもあります。

苦行像をよく見ると、苦しそうにはしていないような気がします。
真理を探求し、人が苦と思い恐怖しているものの正体を突き止めるべくして回答を求めている釈尊は実は充実した苦行生活をしていたのではないかとさえ思ってしまいます。
苦しいのは見た目だけで人がそう錯覚をしているのかもしれません。
おそらく社会生活の中での人間関係の方がよっぽど苦行もしくは修行と言えるのかもしれません。

#修行 #苦行 #釈迦苦行像 #仏像彫刻 #仏像

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