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歴戦の第一線部隊指揮官の死生観

 平和と安定、安全と安心のために日夜汗を流し、自らの命すら危険に晒している人達がいる。自衛官、警察官、消防士など生死の境目に立つ人、特にそのリーダーはどのように死生を理解し、覚悟を決めるのか?100人の統率者に100通りの統率があると言われているが、死生観はトップ・リーダーから一隊員に至るまで、1000人いれば1000通りの死生観がある。これも一つの死生観であろう。

 高杉善治陸軍歩兵大尉は、支那事変の当初から歩兵中隊長として、主要な戦闘に参加した歴戦の中隊長である。その著書「中隊長としての戦場体験と教訓」の冒頭で「死生観」について分かり易く説明している。
 
 死生観
 人間は、誰でもできるだけ長く生きたいと願うのが本能であり人情である。戦争に従事する者でも、死にたくないと願い祈る心は同じである。「戦する身はかねてから、捨てる覚悟でいるものを、何で命が惜しかろう。ないてくれるな草の虫」という歌が戦争中流行したが、それは虚構であり、あきらめであった、人間本来の心ではなく、生きたい、死にたくないという気持が本心である。ただ当時の気持では、天皇陛下のためと、国家のために国防の大任を引き受けた軍人が、その責任と名誉のために決意した覚悟を表したものである。若き特攻隊員が、淡々として死を見ること期するが如き心境で、死地に赴き得たのも、皆この決意から来たものであろう。
 現在は当時とは時代も変わり、思想も異なって来たので今の若い人達には当時の我々の気持は理解できないかもしれないが、当時の軍人には確かにそういう信念があった。
 戦争では、いくら死にたくないと思っても、敵の弾丸雨飛の中を進まなければならない。従って、いつ弾がわが身に当たらないとは限らない。今まで隣にいた戦友がバタバタとたおれるのを見ると、自分の生命というものはほんの一寸先も保障ができない状態にあるのである。この時に臨んで、死生の問題をどう考えたらよいかという問題が起こる。なるほど戦争に参加する前に一応は戦死するかも知れない、死んでも仕方がない、と覚悟はきめて出発はしているが、いざ戦闘となり、撃ち合いが始まって見ると、もう一度あらためて覚悟を決め直さなければならない気持になるものである。このときの覚悟が本当の覚悟である。この覚悟は、人によって拠りどころが違うと思う。全般的にいえば、「お国のため」だというあきらめに近い心であるが、ただ無意味に犬死はしたくない、という気持、何か尊く崇高な目的のために結びつけた犠牲心というものがないと、あきらめ切れず未練が残る。また指揮官という立場となると、多勢の部下を持っており、その尊い生命を預かっているので、その責任観念が起こり、自分一個人の問題に恋々としてとらわれていると、作戦指揮を誤り、任務を達成することができないばかりでなく、尊い部下の生命を無駄に失うことになるので、死を超越して指揮に専念せねばならぬという覚悟がおのずからできてくるものである。この覚悟が決まったときの心境は、実に清らかな気持がする。人間一切の欲望が無くなり、金もいらず、物もいらず、風光清月の思いである。この心境が仏教でいういわゆる「悟」を開いた心境ではないかと思う。しかし、凡人のなさけなさで、ひとたび戦闘が済むと、また直ぐもとの俗心にかえってしまうのが常である。いずれにしても、戦闘の始まった瞬間に、この覚悟を決めなければならない。ところが、この覚悟の決まらない者がある。それは結局「悟」の開けない者で、兵の中にも幹部の中にもあるものである。
 私が参加した山西忻口鎮の戦闘の際、某中隊の小隊長は、攻撃前進の命令が下って、敵味方の撃ち合いが始まり、身辺に敵の銃砲弾が盛んに落下し、死傷者も続出してくると、顔面蒼白になり、ぶるぶる、がたがたふるえ出して、射撃号令も出なくなり、岩かげにかくれて前進もせず、涙をぽろぽろこぼしていた。これを見た中隊長は、平素温厚でよく部下を可愛がる人であったが、決然立ち上がって、小隊長の襟をつかみ、畑の中に引きずり出し、どんどん敵の銃砲弾の飛んで来る中に二人共突っ立って「それでも貴様は将校か」とどなり、なぐりつけていた。するとその小隊長はにわかに顔面にさっと血の気を取り戻したかと思うと、自分の卑劣な行為をわび勇猛奮起して飛び出し、落ち着いて射撃の指揮をしはじめた。小隊長は応召前は女学校の先生で、性質も女性的で、幹部候補生出身の少尉で、召集されてきた者であった。家庭にもいろいろな事情があったらしく、個人的には同情すべき点があったが、いやしくも小隊長として数十名の部下を持ち、その尊い人命を預かる職責にある者としては許さるべき行為ではないと思う。また、この際中隊長の採った処置も私的制裁に似ているが公憤であり、この場そうするより他に方法がなかったのではなかろうかと思う。この中隊長は後に戦死をされたが、沈着勇猛しかも情味豊かな立派な人であった。
 戦場で死生に迷って覚悟の定まらぬ者は、心の練れていないインテリに割合多いように思われた。私の見た範囲では兵隊の中には見受けられなかった。それは、絶対服従の軍紀にしばられており、また戦闘の最中、そんなことを考える余裕もなく、戦友と行動を共にせねばならぬ立場にあったので、卑劣な行為もできなかったばかりでなく、あまり死生の問題を深刻に考えず、割合あっさりと覚悟ができるせいでもあったと思う。思考力があり、ある程度行動の自由を許されている幹部の心すべきことである。
 生まれて初めて戦闘に参加し、最初に敵弾の音を身近に聞いたときは、たいていの者は兵といわず、将校といわず、一時は顔面蒼白となる。私はそういう場面をたびたび見た。これもやはり敏感なインテリに多い。某部隊長は頭のよい人で、勇気もあり立派な部隊長であったが、今まで一度も実戦に参加したことがなく、中央部から初めて前線に出て来られた人だったが、前進中数発の機銃射撃を受け、敵弾は頭上高くパンパンという音をたてて通った。パン音は相当大きな音がするので初めての者はびっくりするのが普通だが、この部隊長も例外なく咄嗟に首を縮めて土に伏して危険を避ける姿勢をとられた。見ると顔面蒼白で緊張した様子がありありと表れていた。これは誰もが一度は経験することで、特に臆病だからというわけではないのであるが、戦争に慣れて弾の音によって危険の大小を識別できるようになった者から見るとまことに滑稽に見えるのである。近くにいた老練な兵隊達は、この新任部隊長の様子を見てクスクス笑っていた。これは平時において実弾の洗礼を受けさせる訓練をして置かないからで、平時の戦闘射撃の時に危険のないようにして実弾の音によってのその遠近、高低を聞き分ける訓練をして置くことが必要であると思う。
 私は支那事変前十数年軍隊にいたが、その間戦闘射撃のとき、実弾の下で実際にトン、パン、シュンの音を聞き分ける訓練をしたのはただ一回しかなかった。それでも一回の経験があったので随分役に立った。また一方において特に幹部はこのような場合に泰然自若としておれる修養も必要であると思う。
 戦闘に慣れてくると、敵の弾もそれほどこわくなくなり、兵隊達も立ったままで、敵味方の撃ち合いを見物しながら面白がっていたりするようになるものだが、これは勝ち戦さの場合であり、大会戦の前夜だとか、苦戦が予想される戦闘では、毎回相当深刻に死生のことを考えるのが人情である。今度こそはやられるかなという気持になるのである。こんな場合、私は部下の兵隊全員にハガキを数枚もたせて置き、今度は危険だなと思われる戦闘の前夜に、全部の者にハガキに遺言をかかせて集め、封印をして預かることにした。私も従軍手帖に何かそれらしい最後の言葉を書き残すことにしていた。そうすることによって、肩の重荷がおりたような気がして、心がはればれとし、いつ死んでもいいという覚悟が新たに決まるのである。
 戦争に出るときには、親戚、知人その他から沢山のお守り札や千人針等を大抵の者がもらって腹や腰に下げていた。苦しいときの神頼みで、こういうものを身につけていると、なんとなく弾が当たらないような気がする。理論的には迷信的であり、実際の効果は、あるか否かわからないが、お守りを持ち、千人針を身につけていると、自分の体は、神様が守っていてくれるから弾にあたらないのだという安心感を持つようになることは確かである。この安心感があるので心に余裕ができ、落ち着いて平常心をもって事に当たることができ、敵の弾筋の判断、地形、地物の利用も適切となり、指揮官は落ち着いて指揮ができることになり、結果的には身を守ってくれることになるものである。これは私の先輩の中隊長のことであるが、山西に出動前有志で夜会食をした。その時彼は大分メートル(現代風では「テンション」)が上がって、満州事変以来、いつも肌身離さず腰に下げていた沢山のお守りを全部焼き捨ててしまった。そんなことをすると罰が当たって戦死をするぞと皆から冷やかされたが、数日後、山西の忻口鎮で戦死してしまった。縁起をかつぐわけではないが、こんなことはしない方がよいと思う。私は郷里の氏神様と成田山のお守りを持っていた。事変が始まってから、天津の知人から金属製の観音様の像(メダル式にさげるようにできていた)をもらったので、それを刀帯の前部の環にぶらさげていた。それから母のかたみのシャリコウベの数珠を常に軍服のポケットに入れていた。もう一つは義父のかたみの軍刀(虎徹)を持っていた。これをもっていることによって、氏神様と父と母がまもってくれているから大丈夫だという安心感を持っていた。中支の武漢戦のとき、前進中敵弾が私の腹部に命中した。相当のショックを受けてその場にしゃがんで、てっきりやられたと思って腹を押さえていた。やがて手をとって見ると血が出ていない、不思議に思ってよく見ると、刀帯の前部に下げていたい観音像がぶち切れて、どこかに吹き飛んでなくなっていた。恐らく敵弾がこの観音像に命中してそれたのだと思う。この観音像のお陰で私は命拾いをしたわけだ。これは迷信であり、奇跡であり、偶然であったのであろうが、戦場ではこんなことがあると、神仏の加護だったとしみじみ有り難く感ずるのである。
 いざ戦闘が始まるというときには、時間の余裕があったならば大便をして置くことは心が落ち着いてよいものである。私は自らもこれを実行し、部下にもこれを励行させた。これは一見妙なことのように思われるが、用便をすることによって心が落ち着くのと同時に、万一腹部に敵弾が当たった場合に助かる公算があるという実効ももっているからである。何か大事に臨むときには、一つたして見たらよい。
 要は平素心の修養ができていて、戦場でも平常心を失わないようになっておれば、こんな迷信じみたことに頼る必要もないのであるが、凡人の悲しさ、いざとなると、こんな事にも頼りたくなるものである。

 厳しい戦闘をいくつもくぐり抜けて来たベテラン中隊長だからこその実感であろう。我が国の平和と安定、安心と安全を担う全ての人が生死を意識せずに職務を全うできることを祈るばかりである。しかし、いざという時の覚悟が無ければそれも難しいであろう。死生観の確立は平素からの長い修練の賜である。若い幹部に何かの参考となれば幸いであり、故人も喜ぶであろう。 

 自衛隊法施行規則第39条には自衛隊員の服務の宣誓が規定されている。

 宣誓
 私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

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