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教案の必要性を再考する

こんにちは。

日本語教師のknkです。

今日は教職に就いている方なら誰もが通る『教案』について考えようと思います。


早速ですが、私は『教案は書かない』派です。

厳密に言うと、「きれいにスケジュールやらセリフやらを書き込んだものが書けない」です。

じゃあどうやって人様にものを教えてるんだ?って話なんですが、

メモ程度の紙に箇条書き、またはテキストをコピーしてそこに必要事項を書き込む。


これだけです。もちろん手書き。というより殴り書き。誰にも見せられない。パソコンで作ると覚えられないので手書き。海外にいた頃は日本よりペーパーレス文化だったので、ppt画面でやってましたが、今やそれさえもやらない。笑

職場の先生方を見ていても、「よくこんな綺麗なものを作れるなぁ」と感心する方がいらっしゃいます。1番すごいと思ったのは、セリフと、指名する学生の名前まで書いていた先生がいたこと。

それに引き換え私のは多分100人中99人がゴミと思っても仕方がないものです。

でも、それでいいんです。

なぜかって?

教案は人に見せるものではないから。

そして授業はセリフの決まったお芝居じゃないから。

多くの日本語学校の面接では模擬授業があり、その際は教案を提出する必要があるし、それは採用担当の方の目に触れるのできちんと綺麗なものを作る必要があります。

学校によっては研修も兼ねて教案の提出をさせているところもあると聞きますし、私の勤務校でも新任のうちは指導教諭次第では教案提出を課されている先生もいらっしゃいます。

私は教案を書くことが悪いとは言いません。綺麗に書いた方がいい授業ができるのなら絶対書いた方がいい。要は書き方だと言いたいんです。

前述のセリフや指名する学生の名前まで書いていた先生は、「毎回教案作りに膨大な時間がかかって…」と嘆いていらっしゃいました。そこで私が「必要なことだけをまとめるのではいけないのですか」と聞いたら、「そうすると不安で…」との答え。

気持ちはよーーーーーーーくわかります。

でも、授業は生き物。相手にする学生も生き物。もちろんこちらも生き物。

不測の事態なんて有にあり得ます。自分が考えた例文や説明が学生に響かないことなんてザラ。逆に、何気ない一言が学生の頭にスコーン!っと入って自然な日本語として定着することもよくあります。

要は自分が展開したい内容と、ポイントさえきっちり押さえていればいいと思うのです。文型練習はたくさん用意しておいた方がいいですが、クラスの雰囲気とその時の理解度で取捨選択すればいい。

かくいう私も昔はきちんと書いていました。毎日何時間も何時間もかけて。

しかしそれでは「書く」ことに焦点が当たって、全体像が見えない。書いて満足、本番クタクタなんてこともよくありました。

そこでより効率的な結果を求めたのが今のスタイル。ある程度経験値ができてきたこともありますが、もともと何かを見ながら他のことをするなんて器用な人がすること、私には無理ーとなったわけです。

今日扱う単元の何がポイントか、どんな活動をすれば学生が楽しめるかのみを考えて授業に臨む。あとは学生に想像してもらうなり作ってもらうなり。

このスタイルにしたことで作業時間は短縮、でも教案と対話してないので学習者の顔がよく見える、よって次回までに反省すべき点やどの学生がどの活動に弱いのか、反対に何が得意なのかを見る余裕が生まれました。

そして授業後はその教案とも呼べない殴り書きメモに学生からの質問、反応の良かった活動などをメモしておき、次回同じ単元を扱うときまで置いておく。同じ学生に同じ授業をすることはないので丸まんまそれが使えるとは限りませんが、学生のつまずきポイントは思い出せます。何かが舞い降りたときはもっといい例文やら練習も思いつきます。笑

今はその繰り返しで授業をしています。

教案はその日の授業の道筋を示すガイドラインというかレジュメではありますが、舞台の台本ではありません。アドリブ万歳。寄り道してもいいと思うのです。(キチッと教授法が決まっている学校は別です。その時はそこに従ってください)

教案作りに苦労されている方、一度その「なければならない」を手放してみるのはいかがでしょうか。


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