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青木繁と布良の海 1.

青木繁の絵を初めて見たのは18歳くらいだっただろうか。

初めて見たのは正確には青木繁の絵ではなく、高校生の頃に読んだ山岸凉子の漫画「海の魚鱗宮(わだつみのいろこのみや)」の扉絵だった。こんな幻想的な絵が描けるのかとうっとりしたものだが、その絵の元が青木繁の『わだつみのいろこの宮』だったのだ。その絵をモチーフに山岸凉子は自分のタッチで扉絵を描いていたのだった。


山岸凉子「海の魚鱗宮」扉絵(一部)

なにかのはずみで青木繁のほうの『わだつみのいろこの宮』を見ることになった。ああ、あの絵は山岸凉子のオリジナルではなかったんだ、と知ると同時にあの幻想的な世界を明治40(1907)年に描いたという事実に驚かされた。


青木繁『わだつみのいろこの宮』

私が18歳のころはまだインターネットの世界も現在のように自由ではなく、本当に限られた情報しかなかった。だから青木繁のほかの作品もググれば見つかるというわけではなく(そもそもググるという概念が生まれていない。グーグルの検索エンジンの日本語対応はこれより数年あとの話なので)まず青木繁という画家の存在を知ったらその人物について書かれている本を探して作品名を知り、今度はその作品が載っている画集を探す、というような苦労があった。
でもそんな苦労をして見つけた作品はやはり美しく、どんどん青木繁の世界にはまっていったのだった。

さて、それからかなりの年を経たころ、私は書店で青木繁の特集号を目にし、即購入する。『芸術新潮』2011年7月号。この年は青木繁の没後100年に当たった。
この頃にはさすがに「ggrks(ググれカス)」という言葉が一般にも通用しているくらいになっていたが、スマホはまだ一般的ではなかった。なにかというと手元の薄い板を使って検索する、という時代ではないため、芸術新潮に載っている青木繁の話は貴重な情報資料として何度も何度も読み返した。

グーグルの記述が余計ですね。すみません。

青木繁は久留米出身で晩年は九州を放浪しているが、まだそれより少し若い頃に千葉を訪れ、代表作『海の幸』を描いている。
『芸術新潮』の特集では晩年に放浪した九州とともに、『海の幸』の舞台と思われる千葉の布良地方も詳しく紹介してくれていた。ろくに金も持たない青木とその仲間の4人を1か月半もの間快く逗留させた気の大きい小谷喜録夫妻。その家が千葉の館山市指定文化財となり今も残されているという。
青木繁がこの家に滞在したのは明治時代だが、この家の、青木ら4人がいた部屋は基本的に変わらず平成時代にも残っていたのだ。この記事がずっと私の記憶の片隅にあり、いつか必ず訪ねたいと思うようになっていたのだった。

(続く)


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