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【大学教員公募・学振】採用されなければ意味がない

大学教員公募や学振DC/PDで、なんとも微妙な評価が下ることがある。
「面接に呼ばれたが落選だった」「不採用Aだった」というものだ。これらをどのように捉えるべきだろうか。難しい問題である。

私は、学振DC1に落選した。(M2にしては珍しく)外国語で執筆したファースト論文や学会報告の実績もあり、自信満々だったのだが見事に打ち砕かれた。結果は不採用Aだった。不採用Aというのは、不採用者のうち上位20%ということである。ちなみに、不採用Bは、不採用者のうち上位20-50%、不採用Cは、不採用者のうち上位50%以下を意味する。自信を喪失した私にとって、「A」というのは、不採用者の中でもまだ自分は上位にいるという変なプライドの拠り所になっていた。
後日、ある無遠慮な教授が、「〇〇君、学振どうだった?」と聞いてきた。以下、会話である。「お恥ずかしながら不採用でした。」「そっかー。残念だったね、ドンマイ。」「不採用Aだったんですけどね、惜しかったみたいです。」「まあAでもCでも不採用だから一緒だよね。」「・・・」
思い出しても恥ずかしい会話だが、教授の言ったことは的を得ている。
この世界で、学振や科研費は、採用されるか否かのみが重要である。不採用Aだろうが、Cだろうが、採用されておらず、奨励金も研究費も出ないことには変わりない。

大学教員公募に話を変える。よく、「面接に呼ばれ出すと決まる日は近い」と聞く。また、面接に呼ばれた回数をあたかも大学教員公募における勝ち星ように扱う記事もみる。こちらはどうだろうか。
私は、やはりこれも学振でいうところの不採用Aであると思う。結局採用されていないので、残念ながら敗戦である。少なくとも、勝ち星ではない。
ただし、周囲の状況を見てみれば、面接に呼ばれ出した人がそのうち決まるということは確かにある。応募者数=倍率という世界なので、少なくとも面接まで連続してたどり着けるようになってきたならば、採用の日は近いと考えることもできなくはない。ただし、面接に呼ばれ出しても全く決まらない人もいる。結局、書類審査を通過したうえでさらに面接も通過しなければならないという事実に変わりはない。当たり前のことだが。

重要なのは、不採用Aと採用の差、面接どまりと内定の差を考えることだと思う。
学振については、実際のところ「差」を具体的に考えるのは難しい。審査員の好みが反映されているからだ。しかし、2、3か月経った後に、もう一度自分の計画書を見直してほしい。少なくとも不採用Aが取れている方なら、表現や論理構成など、恥ずかしく思うだろう。それが感じられたら進歩だ。次年度は採用されるかもしれない。ただし、時間がたってもなお「なぜ不採用だったのかわからない」方は、要注意だ。進歩していないということである。
大学教員公募について、面接どまりと内定には天と地ほどの差がある。書類審査は通過したにもかかわらず面接で落選だったということは、「あなたよりも優れた人柄で同じ職場で是非とも働きたくなるような候補者がいた。」ということである。その回数が重なれば重なるほど、人格を否定されているような気分になるのは想像に難くないだろう。
書類審査を通過したならば、業績や教歴はクリアしているということだ。そこは自信を持つべきである。そのうえで、どのような人物を大学側が求めているのか、提出書類の記載事項や応募先の大学に関する質問にそつなく答えることができるか、自分が発している雰囲気や言葉に問題がないか、何度も確認し、面接に備える必要がある。

この業界、「あと一歩だった」は全く評価されない。採用されなければ意味がないのだ。であるならば、足りなかった一歩に後悔することのないよう、全力で準備すべきである。特に、大学教員公募においては、誠実さや一緒に働きやすいかといった研究とは関係のない部分がキーポイントになりがちである。


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