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8月6日の夏祭り

夏になると、母と同じヒロシマを故郷にもつ彼女のことを思い出す。
50年以上息子を待ちつつ、99歳で亡くなったYさん・・・
彼女の恋文が、家族を助け彼女たちの日々の食事の糧となっていた
エピソード。

 「あの日、私は、たまたま東京のお父さんのところに行っとったから
(のちに伴侶となる人のところ)偶然生き残ったんよね・・・
お父さんは母親以外、みんなが死んでしもうて、
私の家は、ちょっと離れとったから、
爆風で家の骨だけは残ったんじゃけどね。
しばらくして帰ってみたら、
ツギハギだらけの家になっとって、
窓とか壁の風よけにね、私が行李(こうり 衣類などを入れていた箱)に隠しとった、
お父さんとの文通がいたるところに貼ってあったんよ。
恥ずかしゅうて、顔から火が出るかと思うた。
わたしゃ、お父さんとからの手紙を、誰にも見られんように、
いろんな缶入れて、それを2重に行李に入れて、固くしばっとったんよ。
それが焼け野原の中で出てきたらしゅうて、
“ようやく紙があった”って使ったらしいんよ。
今日生きることに必死で、誰も私の書いた恋文の中身なんか
気にしとらんかったけどね・・・(笑)
戦後にね、東京で同じように、食べるものを作るときに、
火を起こす材料がのうて
文通していた手紙を使うたもんよねぇ・・・
今は、使い道のない息子の手紙で家がつぶれそうじゃけどね。」

50年近く、ひっそりと社会との接点を持たずに過ごしてきた彼女の話は
涙もあったものの、今思うと、
生きる力に満ちていて、最後はクスっと笑顔になれるような思い出が多かったように思う。

蜩の音を聞くと、
私も彼女も大好きだった果物を食べながら庭や家の片づけをしたことや、
その話を心待ちにしてくれていた彼女の息子さんのことが
脳裏をよぎる・・・

ピカと呼ばれた原爆を体験した人たちは当時、
福島の原発で避難した人以上に
故郷以外で暮らす際に疎外されていた。
「生き残った負い目」を背負いながら
広島出身であることを隠して長らく過ごしてきた。

bubuが幼いころ
広島で銭湯にいくと
ケロイドの痕がある人
手足がない人がたくさんいた。

「町中みんなカタワ(障がい者)やったけぇ
少々何か不便でも、泣き言は言えんいね」

「疎開しとった子どもが、みんな孤児になってしもうたんよ」

盆踊りのやぐらの明かりに
ふと、青と黄色の旗がよぎり
原爆を生き延びた人たちの面影が重なった。

Yさんのエピソードを
不器用なbubuのために
携帯の保護フィルムの張替えをしてくれていた
沖縄出身の19歳のピアスを5つ空けた少年にボソボソと話していたら

「昔の人はコイブミ書けないと、恋愛できなかったのかな?
コイブミなんてボクは書けないな・・・
長い文章なんて、履歴書の自己PR以外書いたことない。
僕のひいばあちゃんの世代って
みんな孤児だったって言ってたよ。
僕は、児童養護施設で育ったけど、
母親は生きてるからね。
この間、携帯の保護フィルム貼ってあげるっていったら
”病院ではほとんど携帯使わないからいらない”って言われたけど(笑)」

と、いとも簡単に張り替えながら語った。
そして、屈託のない笑顔で、

「カメラのレンズの所も付けた方がいいよ。
こういうキラキラがついたフィルムにすると
きれいだよ。100キンで売ってるから。」

と教えてくれた。

キラキラのフィルムのレンズ越しに見える夏と
心の中に見える夏が交差する、夏の思い出。