マガジンのカバー画像

名前のない孤毒

5
運営しているクリエイター

記事一覧

歌う度に咳き込む。満足に言葉も紡げない。泣くことすらもままならない。得意な曲も4小節で声が上ずる。前みたいにちゃんと、下手くそなりに歌いたい。今はただ、そう願うだけ。

涙歌

 泣き声のアンコールは要らない。一度きり、この夜だけのコンサート、聴衆は自分一人。気づけなくてごめんね、部屋の隅っこで泣いていた小さな子。あと20小説で、コンサートが終わってしまう。朝日がカーテンを揺らし、寝不足で乾いた目を風が舐めていく。いつも通り、髪の毛を整えてコーヒーだけの朝食を済ませて出ていくつもりだった。全身にのしかかる重みは泥の中にその子を落としていく。端末の耳障りな歌声を子守唄に、周

もっとみる

憎愛

 『愛してる』
耳にする度吐き気と悪寒がする。憎しみも覚える。その言葉は毒でしかない。これまで何度も耳にしたし、自分も吐いた。もう二度と、人にも自分にも吐くことはないだろう。愛が、憎いのだ。

現の轍

 手触りの良い毛布のような眠気に揺られながら、秋風に揺れるカーテンを眺めていた。なんとなく寂しいから、大きくて重みのある綿の塊を腕に抱いて灰がかかった雲と青の境界線を指でなぞる。ふるり、胸の奥が震えて舌の根まで出てきた言葉を唾液と一緒に飲み込んでしまう。口から出してしまえば、足元が崩れて深いところまで落ちてしまう気がしたからだ。内側でメリーゴーランドのように回る、劣等感と羨望と自己嫌悪。現は少しず

もっとみる

夜と瘡蓋

 おひさまが家に帰る時間、毎日少しずつ早くなる。長い間、夜がわたしに寄り添う。夜はわたしの瘡蓋をひとつひとつ丁寧に剥がして遊ぶ。それをわたしは眺めているのだ。