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オタク卒業までの記録2

前回に引き続き、気持ちの整理も兼ねてオタク卒業までの道のりを書き残していく。「オタク卒業します!」という宣言がしたいわけではない。今回は、前回省略した「オタク疲れ」に関してきちんとまとめようと思う。


前回の振り返り

1.疲れたから
いたって単純であり、すべての理由の根本にあたる。
なんで疲れたんだろう、なんで今までは元気にやっていたんだろうと考えれば、それは主に「社会的要因」「年齢的要因」があるのではと仮定できる。ここで語ると本当に長くなってしまうからこの話はまた次回する。

「オタク卒業までの記録1」より

前回、疲れたからオタク卒業しようと思ったと書いた。
今回はその「オタク疲れ」の原因を探っていこうと思う。


社会的要因

「推し活」ブームの到来

自分の「オタク疲れ」は、昨今の「推し活」文化が関係しているとみた。

わたしは「推し活」という言葉が現れる前からオタクだ。そもそもオタク趣味は公にするものではないと思っていた。

それが今では街中に「推し活」の文字。百均や某アパレルショップに行けばそれ専用のブースがあり、テレビの特集でも様々な形で「推し」という概念が組み込まれている。

オタク=恥ずべき趣味、という考えはすっかり前時代的なものとなった。

しかし、この変化は「サブカルチャー」としての「オタク文化」の完全消失だと思う。今では「オタク文化」は「ポピュラーカルチャー」として成り立っている[注1]。これが何を意味するかというと、同じ「オタク文化」でも本質が大きく異なっているということだ。

とても簡単に説明すれば、「サブカルチャー」はマイナーで独自な趣味趣向、「ポピュラーカルチャー」はメジャーで大衆受けしているものである。

わたしは「サブカルチャー」として在るオタクが好きだったのだと思う。独自性・少数派・マニアックと形容される世界の空気感。自分の「好き」を突き詰めていくスタイル。そういったサブカル的な立ち位置が心地よかった。

私は、今の「オタク文化」が肌に合わない。

「推しがいることが当たり前」「推しを作ろう」「どれを推そう?」本来、「好き」「応援したい」という気持ちは自然発生するものであるはずだ。それが崩れていくのを目の当たりにしているような気持ちになる。

今は、オタクでない・推しがいないことが逆にマイノリティになっているような気がする。

『映画を早送りで観る人たち』の第3章を読んだとき、ため息が出たと同時に「まあそうだよね」という納得感があった。一部抜粋する。

従来のオタクは、何かが好きすぎるあまり、大量に観たり読んだりする。その結果、他のジャンルが気になってきて興味が広がり、さらに大量に見たり読んだりして、好きなものへの理解をどんどん深め、その過程を楽しむ。SF作品をきっかけにして物理学に興味を持ったり、ファンタジー作品への理解欲求が宗教や神話を学ぶことにつながったりする。そうして、充実したオタ活を満喫するのだ。

しかしオタクに憧れる若者たちは、拠りどころとしての"充実したオタ活(推し活動)"を手に入れることを、まず目的に設定する。

つまり正確に言えば、彼らは「オタクになりたい」のではなく、「拠りどころになりうる、好きなものが欲しい」だ。それが個性的な自分を手に入れる切符となり、同時に実利的な効果も得られる。「もっと正直に言うなら"自己紹介欄に書く要素が欲しい"ですね」(森永氏)。エントリーシートの見栄えを良くするために、ボランティア活動に参加したり、サークルの幹部をやったりするのと同じだ。

稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』p144

オタクであることがステータスとなってしまった時代、オタク文化の変化、加速する商業化、私はどれもついていけない。

[注1]
40~30年ほど前からオタク文化はポピュラーカルチャー化しており、アニメ・漫画・特撮などの趣味も大衆文化(=ポピュラーカルチャー)の一つとして数えられる。しかし本記事では、ここ数年における急激な「オタク文化」の拡大・更なる大衆化について話したいため、このような表現を用いる。

個人的な消費社会批判

オタクが「ポピュラーカルチャー」として成立する、大衆化するということは、オタク畑が儲かることがバレたということが根本にあると思う[注2]。

もともとオタクという生き物は、好きなもののために時間やお金を惜しみなく使う性質がある。それは昔からある「トレーディング」というシステムや「特典商法」が実行されているところから明らかだろう。

わたしが言う「オタク畑が儲かることがバレた」というのは、本来ならオタクに関係のなかったところにバレた、ということだ。

運営側が儲けようとして儲けても、その利益は消費者=オタクに還元される。要するに、ここはwin-winの関係だ。だからここでの消費は問題ない。しかし、その他のオタク商売は別問題だと感じてしまう。「推し概念」をダシにしているのが透けて見える。

これを簡単に言い換えれば、「好きを搾取されているんだな」と意識しなくても意識してしまうようになったということだ。

「推し=好きなモノ」っぽいものならお金出すやろ、とメンカラモチーフ・イニシャル○○などが企業から売り飛ばされているように感じてしまう。「どうしたら商品が売れるか」を考える上でそういったマーケティングが必要なことはわかる。だから、これに関する捻くれた思考はわたし自身の問題だ。

[注2]
オタクの大衆化・カジュアル化は、世代論やメディアの発達など様々な原因が複雑に絡み合っている。本記事では、「好きの搾取」に対するモヤモヤを取り上げるため、「消費」にフォーカスした。

次から次へと「消費」を急き立てられる社会

記号的な消費による満足は一時的なもので、真の満足は得られない。

これが結論だ。

なぜそう言えるか。記号消費については色々な人物が論じているが、個人的に一番わかりやすい表現だと思った斎藤の説を借りる。

長めに引用するため、とりあえず太字のところだけ読めば分かるようにして自分の論を進める。

無限の消費に駆り立てるひとつの方法が、ブランド化だ。広告はロゴやブランドイメージに特別な意味を付与し、人々に必要のないものに本来の価値以上の値段をつけて買わせとするのである。

その結果、実質的な「使用価値」(有用性)にはまったく違いのない商品に、ブランド化によって新規性が付け加えられていく。そして、ありふれた物が唯一無二の「魅力的な」商品に変貌する。これこそ、似たような商品が必要以上に溢れている時代に、希少性を人工的に生み出す方法である。

希少性という観点から見れば、ブランド化は「相対的希少性」を作り出すといってもいい。差異化することで、他人よりも高い社会的ステータスを得ようとするのである。

例えば、みんながフェラーリやロレックスを持っていたら、スズキの軽自動車やカシオの時計と変わらなくなってしまう。フェラーリの社会的ステータスは、他人が持っていないという希少性にすぎないのだ。逆にいえば、時計としての「使用価値」は、ロレックスもカシオもまったく変わらないということである。

ところが、相対的希少性は終わりなき競争を生む。自分より良いものを持っている人はインスタグラムを開けばいくらでもいるし、買ったものもすぐに新モデルの発売によって古びてしまう。消費者の理想はけっして実現されない。私たちの欲望や感性も資本によって包摂され、変容させられてしまうのである。

こうして、人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ、人々を絶えざる消費に駆り立てることができる。「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない。

斎藤幸平『人新生の「資本論」』p256

わたしは元々記号的な価値に疑問を持っていた。

というか、小学生くらいの時から機能的・実用的なモノが好きだった。ファイルから筆箱からノートまで、身の回りのだいたいのモノは、シンプルかつ実用性に優れたものを選んで使っていた。

つまり、そもそも自分の価値観は「使用価値」に重きを置くようなタイプであったのである。それが「オタク」であったこと・SNS中心の社会に流されていたことによってごまかされていた。

このようにして元々の価値観を取り戻したのが今だ。

消費社会論とは直接関係ないが、個人的にグサッと刺さった文章を二つ置いてこの章を締めようと思う。

幼年時代の喜びは、主として、子供が多少の努力と創意工夫によって、自分の環境から引き出すようなものでなければならない。

興奮はさせるが、身体はちっとも動かさないような快楽、たとえば観劇などは、ごくたまにしか与えるべきではない。

この種の興奮は、麻薬に似ていて、次第に多量に求められるようになるからである。それに、興奮しているときに肉体を少しも動かさないというのも、本能に反している。

ラッセル『幸福論』p70

快楽の中には、たとえばギャンブルなどが好例だが、こうした〈大地〉との接触の要素がまったくないものが多い。

こうした快楽は、尽きるやいなや、人を索漠とした、不満足な、自分でも何がほしいかよくわからないものを切望する気持ちにさせる。

そういう快楽は、歓喜と呼べるようなものは何ひとつもたらさない。

ラッセル『幸福論』

まあ確かに、と思える。
どうてもいいが、自分が「オタクやめよう」と思ってから何となくやっているのは散歩だ。健康的すぎる。


年齢的要因

今までの生活

オタクになってから10年弱、わたしは学生だった。
普通の中学、普通の高校、普通の大学に通っていた。

学生は時間に余裕がある。体力に余裕がある。高校生になってからはバイトもでき、実家暮らしのため稼いだお金は全て自分の趣味に充てられる。熱量がある。

また、これは圧倒的な若さだったなと思うのは、SNSでの友だち作り・同じ趣味を持った仲間との交流に積極的だったことだ。所謂「タグ画」を流し、イベントがあれば出会い厨。今では考えられないことをやっていた。

今の生活

今の自分の生活を一言で表現すると堕落だ。

20歳を超えたあたりから体力の衰えを感じる。

人間関係にも消極的で、一から友だちを作ろうなんて元気とやる気が一切ない。今いる友だちを一生大切にしよう、というフェーズに入っている。

時間とお金に関しては、「あるけど使う元気が無い」という有り様だ。

これからの生活

4月から新社会人ということで、まあまあ大変なんだろうなーという予想がついている。

社会人オタクなんてざらにいるのは分かっているけど、今の時点で元気もやる気も熱量も無いからオタクを続けるのは難しそうだ。モチベ復活の未来は見えない。

家でゴロゴロしながらギャグアニメ見るくらいがちょうど良いと思う。現場は「生歌が聞きたい!」とかにならなければ行かないし、外れたら外れたで「まあいっか〜」になるだろう。

大昔から好きだった作品のホルマリン漬けを眺めているだけで充分だ。

とにかく、オタクするパワーが年齢とともに落ちているのである。人生の中で一番趣味に熱中できた時期は高校2年生だった。



「オタク卒業までの記録3」へ続く

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