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『のだめカンタービレ』でクラシック再勉強【その8】

まだまだ終わらない、漫画『のだめカンタービレ』で登場するクラシックを、順番に聴いてくシリーズ。今回は割合重めの楽曲がずらり。


曲の重さのせいか、わたしも聴きながら色々と過去のことを思い出したり、わたしの個人的な、これまで気付いてこなかった根本的なコミュニケーション能力の欠陥に、気付きそうになったりして…。色々泣いたり沈んだり浮上したりしていました。中学の卒業アルバムに、「音楽、それは感性の言葉」と書いたクラスメイトがいた。その時は「しょってるな!」と思いましたが、確かに、何でも喋って何でも解消されるタイプの精神構造なら、その人はわざわざ音楽なんか書かん、と思った。例えば、人間関係の俗な部分に、馴染まない、理解出来ない、器用に立ち回れない、「人の気持ちが分からない」タイプの人がいるとして、それは物事の本質的な方に感受性が開かれているからだとしたら、ここで出てくる音楽が、時代を超えても、国境を超えても、文化を超えても、今だに聴かれているのは…そこに本質があるからだよな…。

というわけで。今回は、パリで開催中のカントナ国際コンクールに出場中の、ターニャと三木清良の演奏する楽曲から。のだめと同じアパートに住むターニャは、1次予選を通過して2次へ。ウィーンに留学中の清良は、ヴァイオリン部門の2次を通過して本選へ。のだめと同じアパートに住むユンロンは、1次予選で敗退してしまっている。


シューマン クライスレリアーナ
Schumann : Kreisleriana Op.16

ターニャの2次予選の3曲目。「きっと世界中が泣いたはず!」という本人的には会心の出来栄えだったのですが、ここ2次で落ちて、本選には行けず。フランクとユンロンの会話で、曲が「変にターニャにはまりすぎたのかもネ」。思い入れが強すぎると、演奏家の強いイメージが、曲そのものの本質を覆い隠してしまう場合がある。ここは聞き手の好みにもよるのですが、その色が、「余計だ」と感じる感性と、「効果的だ」と感じる感性は、その曲についてどう理解しているかという個人の認識の仕方の違いで、正しいかどうかとはまた別の世界なんだよな…。

クライスレリアーナは全部で8曲。聴いているとわたしは、ぽわぽわと頭の中に小さい劇場の舞台が浮かんでくる。構成というか構造がしっかりして、1曲ごとの景色が明確だからだろうか。シューマンは、若い時に見た『ピアニスト』という映画の影響か、真剣に研究すると精神に支障をきたすというイメージがあって、他のシューマンのエピソードもあり、実はちょっと怖かった。しかし…この曲たちを聴いていたら、「シューマン、って…もしかして、めっちゃええ男やん?!」。髪型がちょっとわたしの好みじゃないのは確かだけど、このシリーズを通してシューマンの精神不安は梅毒のせいだったのかもということも知り、実際はものすごく理性の強い、知的で、愛情深い男性だったのかも…と思った。ショパンに献呈されてるらしいが、あまり彼好みではない気がするが、ショパンはどう思ったんだろか〜。


ベルク ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
Berg : Violin Concerto 

清良の、ヴァイオリン本選の課題曲。本選はオーケストラとの協奏。傷心のターニャを千秋が引っ張り出し、日本から清良の応援に来た恋人の峰と、皆んなで応援に行く。5日間も引きこもり中だったターニャが、部屋からすっぴんで出て来ると、すっぴんに頬を染める黒木くん。メイクした顔よりすっぴんの方にときめく男子っているよね。うちの旦那くんもそうなんだけど…なんで?

この曲は、18歳でポリオで急逝した友人の娘のために書かれたものだが、完成した2ヶ月後にベルク本人が亡くなって、最後の作品となってしまった。ベルク本人は演奏されたものを聴いていない。作品は、ベルクが良く使用した作曲技法、「十二音技法」の一種を用いている。ゆっくり音を聴かせるシーンが多いので、「十二音技法」の世界の一端が分かりやすいかもしれない。調性を超えて行きたい音の方へ行く自在性を、使用音を12個に限定することで獲得しようとして、そうやって表現されるゆらぎの世界や、響く和音が持つ膨らみが、とても良く感じ取れる魅力のある曲であるなあと思った。全2楽章で、2楽章の中盤、バッハのコラールから「もう十分です」という歌詞の部分のメロディーが引用されている。…こういうのを聴くと、どんなに後世の音楽家が作曲法を苦心して編み出そうとしても結局、鎮魂、魂を癒そうという時に人の心が求めるのは、もうすっかり確立されっぱなしの対位法が君臨しているのは、揺らがないのか…と思ったりする。


ショパン ピアノ・ソナタ第3番
Chopin : Sonata No.3 Op.58

カントナ国際コンクールが終わり、出場した友人たちが、それぞれ自分の行き先を決めていく。コンクールの本選は、オーケストラとの協奏曲が課題曲になるため、協奏曲弾きたさに、のだめもコンクールへの意欲が高まる。しかし、オクレール先生は、「うん」とは言わない。なぜコンクールが駄目なのか、オクレール先生に出されている課題の意図も分からず、のだめはぼんやりとした不信感を先生に持ち始めている。つまり、のだめは、今やっているピアノ曲の中から、自分のために、この曲をどのように弾くのか、見出せていない。

課題曲と試験の曲、これからのだめが仕上げなければならない曲は、このショパンのソナタと、そしてベートーヴェンの後期ソナタ、ブラームスの小品集、サン=サーンス…。「とっととやろう」「これ全部」。千秋は、自分の衣類を持ち込んで、のだめの食事も、家の家事も全部サポートし、演奏のアドバイスをし、解釈を手伝い、つきっきりでのだめがピアノに打ち込めるようにする。

何も保証されていない学生という身分で、精神を削って勉強し続ける危うさ、不安定さ。「この努力は何にもつながらないんじゃないか」という不安。先生が、どうして今自分にこの曲を出すのか、基本的に生徒には分からない。だけど、その点はある程度、盲信的に信じるしかないところもある…。信頼すると決めて、先生に言われたことをとにかく全力でやれ。それが千秋の方針で、彼は自分の勉強もキャンセルして、1週間、泊まり込みでのだめのショパンに付き添うのだった。

この曲、ソナタは、ショパンの大作です。ショパンのお父さんが亡くなって、彼自身2週間ほど重病人になり、その後に書き上げられた作品。…というエピソードを知って聴くからか、ショパンならではの気持ち良いパッセージが、全部逆向きの音形で書かれているような、「気持ち良くなったらいけない」と思って書いているような苦しさ、弾き辛い感じを、1楽章通して感じた。2楽章以降になると、少しその感じが抜けて、ショパンの「快」が少し出てくるんだけど、全4楽章、まあ…何と言うか…彼が「美しい」と感じるパーツを、あえて複雑にして、そのまま食べたら美味しいフルーツを、香辛料いっぱいで煮込んでソースにしたような…、それが、彼がお父さんの死を心に抱えたまま作曲に打ち込むのに、複雑であればあるほど、彼にとって逃避になったのかもしれん、というような…。

ベルクのヴァイオリン協奏曲もそうですが、「死」がすごく色濃くあるんですよね、いくつかの音楽には。そして、自分が学生の時、一番自分から遠いのが「死」だった。身体も機能している自信があったし、親も元気で。このシリーズを通して、何人もいる短命の作曲家の死因を知りましたが、梅毒だったり、食中毒だったり、きっと現代だったら助かっていたんじゃないかと思う件がいくつもある。逆に言えば、当時同じような死因で亡くなっていった人は他にもたくさんいたはずで、実際兄弟が半数くらい亡くなっていたり、子供が半数くらい亡くなっていたり、死は、確実に今より身近に感じるところにあった。ある一人の人間が感じた、死の重さと広さを受け止められるものは、何も、音楽だけには限らないですが、人間の感じた死は、音楽の中に展開することが出来る。これが、若い演奏家にとって、自分の何を使ってどうやって迫るか…ここから先のエピソードとも通じますが、ここにのだめのひとつの課題があるわけです。

死、あるいは喜びでもいいんです。感謝。なぜなら、それを演奏する人間も聴く人間も、生身で生きているから。のだめの目標は、千秋と協奏することでした。そして今、その時その協奏曲を弾くのだめは、その音楽を、どう表現する音楽家になるのか。千秋の恋人としてじゃなくて、一人の音楽家として、何を表現する人間になるのか、何のために表現活動をするのか。それとも、それは必要ないことなのか。のだめは、自分の中の、そのコアの部分に触れようとしているタイミングなんだと思う。千秋は、今、集中して打ち込むことで、今後に大きく影響するようなものを獲得出来そうな、それはとても価値のある何かだ、という予感を感じたのかもしれない。自分自身を全部それに提供したいと思うほどの。「今回だけはあいつと一緒に旅がしたいって思うんだ」。


クープラン ティク・トク・ショク
メシアン 幼子イエスに注ぐ20の眼差し
フランク プレリュード
ドビュッシー アラベスク
シャブリエ 気まぐれなブーレ
武満徹 閉じた目
フォーレ バルカローレ
ラヴェル クープランの墓

千秋が、のだめのレッスンノートを盗み見ている。そこに書かれていたレッスン曲のリスト。このシリーズで既出のものを抜いて、未登場だったものだけ並べました。

クープランは、バッハより20年前くらいに生まれているフランスの作曲家。クラウザン(フランス語でパープシコードのこと)の曲だけで約220曲ある曲集シリーズを書いている。「ティク・トク・ショク、あるいはマイヨタン」は第18オルドル(オルドルは組曲のような意味)に収められている。可愛い曲。iTuneで見つけたクラウザンのアルバムの、ピエール・アンタイさんという方がすんげー!天才か!と思ってびっくりした。ハープシコードって、倍音がめちゃめちゃ多くて、ずっと聴いてると頭がトリップしそうにくらくらする…笑。ラヴェルの「クープランの墓」は、この、クープランさんの時代の形式に則って、という意味でタイトルに付けられている。「クープランの墓」は6曲組で、どれも、もう、名曲。6曲ともそれぞれ、第一次世界大戦で亡くなったラヴェルの友人の追悼曲だったと、今知って、泣いてる…。ラヴェルが故人にどんな思いで曲を書いたのか、これを弾く人が、聴く人が、ラヴェルの友人につい知ってることがまるで無いとしても、思いを馳せて聴くことの祈りと鎮魂の力って、世界を巻き込んだ壮大な魔法だな…音楽家ってすごいな…。

フランクはベルギーの作曲家。プレリュード付きの組曲を3つ書いている。どれも素晴らしいけど、その中の1つ、「前奏曲、アリアと終曲 Op.18」のプレリュードは、これ、どこかで聴いたことあるな…演劇の人とかに好まれそうな、めちゃめちゃ暗く悲しみに沈んでいきそうな曲。

メシアンは、近現代のピアノ曲では演奏機会も多い作曲家のような気がします。「幼子イエス〜」は全20曲。昔は聴いても訳分かんなかったけど、今の方が良い曲だと思うわ。シャブリエの「気まぐれなブーレ(ブーレ・ファンタスク)」は、わたしの卒試の曲だった…笑。フォーレの舟歌は全13曲。フォーレのこういう小品は、フォーレの歌曲にも共通する、複雑でなく、シンプルだけど上品で、少し凝ってて、すごくフランスものの良さが込められてる気がする…。コンセルバトワールだからフランスの作曲家が多めなのかな?フランクと武満徹以外全部フランス人。これがドイツとかアメリカに留学だと、違ったプレイリストになるのかなあ。

ドビュッシーの「アラベスク」は2曲ありますが、このリストの中では「アラベスク」の第1番がダントツポピュラーですかね。


ベートーヴェン ソナタ第31番
Beethoven : Sonata No.31 Op.110

ショパンを持ってきたのだめの、1週間での変化を見て、レッスンをしたオクレール先生は内心目を見張る。そして早速次の曲、ベートーヴェン。

しかし、ベートーヴェンのこのソナタ、やっぱり難解…!「そんなに素敵に先に弾かないでください!」。千秋と一緒にゆるく分析しますが、千秋が見つけている解が、のだめには見えていなくて、弾きながらもやもやしています。なかなか腑に落ちるイメージが作り出せないまま、にも関わらず、千秋は次のドビュッシーもブラームスもさらい始めてるもんだから、のだめ、言葉にならないフラストレーションがマックスに。「これはのだめの勉強なんですから」「のだめはカメかもしれませんケド」「自分の勉強してください!」。蜜月の終わり。とうとう千秋を追い出してしまう。

全3楽章ですが、楽章のくくりも、もうあんまり無い感じ。そもそも拍感が無くなってる感じ…。サティの曲は表紙記号と小節線が書かれていない楽譜が割合あるんですが、もう、それでいいような…。イメージをしっかり作ってから弾かないと、一体何が起きてるのか、弾いてる方も聴いてる方も分からん、というような。オクレール先生には、「まだ活気のある歩調だね」「苦悩に満ちた試練」「人の嘆きのすべてがあるの」と言われ「最後は疲れ果てて」「心もない」。要するに絶望が足らんと。こういう時、「う〜ん?もや〜?」としながら弾いても、もや〜っとした音にしかならん。精神性が高いんだけど抽象的なような。抽象的な宗教画みたいな。むっずかしい曲だ〜な〜。

「なんで楽譜をちゃんと読めって怒られてたのか」「なんでこう弾けって言われるのが嫌いだったか」「いろいろわかってきたんデス」。ショパンのソナタの練習を通して、のだめは自分について理解を深めていく。楽器って、練習していると、弾きながらものすごく古い幼少期の記憶を思い出したりすることがたまにある。のだめは、「こう演奏したい」という強いイメージを楽曲に対して持つことがあり、それを否定されることにこれまで苦痛を感じてきたのだが、しかしその「こだわり」が一体何なのか、それはのだめの中でも説明がつくようなものではなかった。でもコンセルバトワールに来て、さまざまな時代、さまざまな作曲家の、かなりの曲数の楽曲とバリエーションに触れることで、のだめは自分の中の譲れない音楽性を、多方面から客観視することが出来るようになったのではないだろうか。自分で自分のこだわりが理解出来れば、それを目の前の楽譜とどう調和させるか、その調和のポイントを探ることだって可能になってくる。この時点でのだめは、レッスンのトラウマを過去のものにしたのである。

そして、のだめの中の「イリュージョン」がスパークするようなのが、彼女にとってのピアノ演奏だとしたら、ベートーヴェンのソナタ第31番は、彼女が今の時点で、持っていない要素を必要とする楽曲だ、ということが分かる。


ブラームス 4つの小品
Brahms : Vier Klavierstücke Op.119

のだめが、ベートーヴェンのソナタの次に与えられているレッスンの課題曲。のだめに先立って千秋が勉強していた曲。

その名の通り、小曲が4つの組曲。わたしは、個人的な憂鬱、といった曲想だと思った。ドビュッシーと同じロマン派なんだけど、ドイツ人らしく、和音の構成をきちっと詰めて整えてくる〜という印象。小品ながら、隅から隅までそつのない作り。ブラームスの晩年近い作品で、巨匠って感じだなー。


ドビュッシー 「映像」
Debussy : Images

こちらものだめの、ブラームスの次に出されているレッスン課題曲。まだベートーヴェンのソナタが途中なのだが、仕事で出かけているオクレール先生の代わりに、アシスタントのマジノ先生が「読譜はしてあるでしょう?」と言ってレッスンをしようとしてくれる。のだめは、「こんなキラキラした曲……」「気分じゃないっていうか……」。マジノ先生が、ベートーヴェンは「今度オクレール先生が聴きますから」と言うところで、先生たちが、のだめのベートーヴェンを本気で仕上げようとしているのが分かる。

「映像」は、3曲組の第1集と第2集がある。また、管弦楽の「映像」というのもあるのだそう。管弦楽の「映像」は初めて聴いた…!音楽には、画像の情報って無いわけじゃん?「映像」とはつまり、見えてるものを客観的に音化する試みかと思って、「面白いな!」と思ったんだけど、聴くと、客観的と言うより、非常にドビュッシーさんの主観的な感じがする。原題は「Images」だから…もしかして「映像」という邦訳が、あんまり良くなかったんじゃないか…?むしろ、「印象」、と、ドビュッシーの主観の「印象」という感じがした。ドラスティックなコード進行も、音階も、ドビュッシーの「俺印」がすごく入ってる感じがする。

「映像」を弾いていた千秋から譜面を取り上げて、前述のように千秋を拒否するのだめ。そして1週間全身全霊でお世話をしてくれた千秋に「「先輩も頑張ってくださ〜い!」「マルレ楽しみにしてます!」と言って別れる。たっぷり作り置きのおかずを冷凍庫に置いて行ってくれる千秋。何という愛情…。「これでいいんだよな」と自分を納得させて見送る、千秋の何か言いたげな目…。案の定のだめはマルレの公演をすっぽかすんだが…。


モーツァルト 交響曲第31番
Mozart : Symphony No.31

千秋が常任指揮者を務めるルー・マルレ・オーケストラの、定期公演の演目。ここのところ、千秋以外の登場人物が活躍していたので、千秋の指揮する曲が登場するのは久しぶりだ!オケのメンバーがあの人もあの人も描かれていて、一時ガタガタだったマルレが、今とても良い状態で調和してるんだなあ〜ということが感じられる。のだめが観覧に来なかったので、終演後、帰宅して電話をかける千秋。以前は意地張って自分から電話しないようにしてたりしてたけど、そういう自意識も無くなって純粋になってる千秋。良いね!

「パリ」という愛称のついた交響曲。ブラームス、ドビュッシーから続けて聴くと、ブラームスとドビュッシーの作品が「個」だったのに対して、モーツァルトは圧倒的に、「公」の感じがする。個人的な嗜好とか私的な憂鬱とかが、まるで無い!エゴイズムが無い!公的!公共のための、公益のための音作り!奉仕の精神だな〜。全3楽章。のだめが掘るようにベートーヴェンの絶望を掘削している間に、千秋はこんなにも晴れやかな、きらきら鮮やかな音楽を仕事で持ってたのか〜…!器用な男!モーツァルトも、この曲はいつもよりふりかけ(味の素)多めというか…(わたしにしか分からん例え)。パリの楽団の委嘱作品で、ギャラが良かったりしたんだろうか?…気合いを感じるね!


二人でお茶を
Tea For Two

Ruiが千秋を自宅に呼んで、千秋と共演するラヴェルのコンチェルトの打ち合わせのために、演奏を聴かせる。千秋がRuiに、ジャズが好きなのか訊ねると、クラリネット奏者であるお父さんと、「Tea For Two」をライブハウスで演奏したと言って、この曲を弾く。

「Tea For Two」は、アメリカ人のポピュラーミュージックの作曲家、ヴィンセント・ユーマンスが書いた、ミュージカルのための楽曲。このミュージカルの映画版では、ドリス・デイが歌っている。さまざまなボーカリストカバーしている他、ジャズナンバーの定番として数多く演奏、収録されている。

ここで、オスカー・ピーターソンの「Tea For Two」を聴いてみると、この頃のだめが弾いてるベートーヴェンのソナタと……さらに……対極だようぅぉ……(涙)!!!のだめは、千秋を部屋から追い出したきり、そのままずっと会えずじまいで、二人がすれ違う様を、じっくり…じっとりと…余す所なく味わい尽くしている…。そして、こつこつと、ベートーヴェンを弾くのに足りない絶望を蓄積しているのであった…。

のだめはのだめで、実際には彼女の音楽は、Ruiを、千秋を、そしてこれ以降はシュトレーゼマンを救うのだが、当の本人は、その自分の持っている音楽が表す深層世界が、それだけの価値があるものだと分かっていない。…そこが辛い所だよなあ…。まあ、誰しも自分のことってそんなに自分で分からないもんだけど…。

物語の合間に、シュトレーゼマンが公園のベンチに座りながら、見知らぬ親子の再会劇を見て涙する、という、よく意味の分からないシーンがある。わたしはこのシーンに、のだめやシュトレーゼマンの精神構造が結構凝縮されて描かれていると思っているんだが…。優れた芸術家の感受性は、普通の一般的な生活を送る人たちとは違ったレベルで世界を感受する能力がある。些細に見える出来事から、世界を変化させるようなレベルにまで、熱く、深く、エネルギーを感じ取っている。だから、のだめが今、日常の中で味わう絶望を、毎瞬、100%感受するというやり方で、それを音楽に転化するなら、その方法は本人が思っている以上にすごい変化を本人に起こすのだ。チートレベルで彼女は表現を深めている。本人は気付いていないけど…。


ガーシュウィン アイ・ガット・リズム変奏曲
Gershwin : Variations on "I Got Rhythm"

ラヴェルの協奏曲の打ち合わせをしている千秋が、この曲をRuiに弾いて聴かせる。それに乗るRuiに、「それくらいのテンションでやろうよ」と千秋が言う。

ガーシュウィンがミュージカルのために書いた「アイ・ガット・リズム」を、ピアノとオーケストラのための変奏曲にした楽曲。バリエーションが、途中オリエンタルっぽくもなったりして、さすがポップスの人!楽しい!お兄さんに献呈したらしい。家族愛。良いね。


黛敏郎 舞楽
Toshiro Mayuzumi : BUGAKU

千秋が、パリのウィルトール・オーケストラで客演する。その公演の本番。各方面からの注目もされている本公演だが、目玉はもちろん、Ruiとの共演。のだめはぎりぎりまで自分のレッスンにかかり切りで、チケットのことをすっかり忘れていたのだが、千秋が言われずとも確保していてくれたので、友人たちとご一行で観覧に行くのだった。公演1曲目は日本人、黛敏郎の曲。

確かに、笙のような和音構成で始まるので、「あ、雅楽から取ってるんだ」というのがすぐ分かるが、雅楽を聴いたことがあると、すっごい!変な感じ!ぎょえー!!って叫んで体がむずむずしたくなっちゃうような、むちゃくちゃ違和感があるー!!!!!バランシンに委託された、ニューヨーク・シティ・バレエ団のための、バレエのための楽曲。…うん…。こういうの、西洋の方々は嬉しい感じなんだろうか。この後、本物の雅楽と雅楽舞を見た。うん…。すっげーかっこい…。


ラヴェル ピアノ協奏曲
Ravel : Piano Concerto M.83

千秋とRuiの共演。この曲をのカントナ国際コンクールのピアノ本選で聴いたのだめは、千秋と共演したいと言って、心底気に入った曲でもあった。それが千秋とRuiで共演されることになって、千秋ものだめも、それぞれ内心さまざまな思いを持ったのだが、ひとつずつ、納得しながら丁寧に乗り越えて迎えた、今日、この時。あらゆることを想定しても、結局、最後には目の前の選択肢の最善を選んで、それに最善を尽くすしか、次のステージにつながっていくルートってないんだよな…。それをよく分かっている千秋。のだめだって、この日を迎えるまでに最善を尽くしたよ…!寝食を忘れて、肌もがさがさになるくらい、絶望のパーツを収集しながら、連日こんを詰めて練習した(←これが歳を取ると出来ない)。それって、とても苦しいことだから、それだけの苦労をした自分からすれば、千秋たちの共演はきっと想定の範囲に収まるレベルだろう、と、千秋をみくびっている…のだめ。千秋は千秋で、自分が用意していた最善の解とどんびしゃでRuiが音作りをしてきたので、Ruiにのだめを重ねてしまう。しかし、そのショックを何とか脇に置いて、Ruiが持っている個人的なバックグラウンドの魅力を、誠心誠意、より引き出す方に舵を切った。

すごい!面白い!意欲作です…!確かに、ガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム変奏曲」から続けて聴くと、とても親和性があるの、分かるわ!1楽章の、特にカデンツ以降が、ラヴェルにしても、他の作曲家にしても、聴いたことない感じで面白かった…。2楽章は、全く違った雰囲気。そして3楽章が、総まとめのような感じで…冒頭から、すっごく楽しい〜!つうか、こんなに楽しい曲想のラヴェル初めて聴くかも…。わたし、ラヴェルは好きだけどピアノ曲ばっかり聴いてたから、この協奏曲は今回聴くのが初めてでございました。3楽章が終わると、え!寂しい!って感じ。この曲を引き下げたラヴェルの世界ツアーは大好評で、アンコールは3楽章を演奏したらしい。うん。お客さん、それすごく嬉しいと思う。

かつてRuiは、その音楽を「ちぐはぐ」だと酷評されたことがあった。しかし、個人的な経験と、体感とを音楽とリンクさせることで、等身大で最大の表現をするという、新しい展開を手に入れた。そうなるきっかけには、のだめのピアノがあって、Ruiはアパートから聞こえてきたのだめのピアノについて、「のだめの育った環境精神を感じるわ」と言っている。のだめの音楽の中には、彼女の子供の頃から変わらないのびのびとした感性と、身体感覚がある。それは、常に自然体でいる家族の中で肯定されてきて、また、それが当たり前に許される自然環境があった。その気分が音楽の中に立ち現れた時、聴く人が無意識に持っているブロックを、時に外す効果がある。彼女が持っている音楽の土台は、互いにどう羨ましく思ったとしても、他人とは取り替え不可能なものなのだ。

のだめには、自分の持っている取り替えようのない魅力が分からない。お金を貰って演奏をするRuiや千秋と違って、彼女は、お金を払って音楽を教えてもらう立場にいる。出口の見えない、努力の成果の実感のない状態で、絶望の穴に落ちたら、自分からは何も見えない。

しかし…この絶望が、ベートーヴェンのソナタを弾くのに、彼女が持っていなかった、最後の足りないパーツになるのだ…!


つづく!




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