見出し画像

『のだめカンタービレ』でクラシック再勉強【その9】フィナーレ

ああ!まだまだ終わらないかと思ったら、【その9】で最後です!淋しい!いや〜、いい加減終わらなきゃという気持ちと、いざ終わりが見えると、ずっとここにいたい気持ちと…。居心地の良い世界だった…。音楽と合わせて、漫画の世界、キャラクターの心理を理解しようとすると、とにかく、千秋の愛が深いことに泣けて泣けて…。音楽なしで読んだ時とは別の、異次元の素晴らしい世界を味わいました。

ということで、漫画『のだめカンタービレ』に登場するクラシック(1曲歌謡曲あり)を順に追うシリーズ、今回が最終回です。


のだめと千秋を、もんもんとさせた、Ruiと千秋の共演。そのコンサートの本番に友人たち皆んなで出向き、そのコンサートも終曲。


ムソルグスキー 展覧会の絵
Mussorgsky : Pictures at an Exhibition

千秋の、ウィルトール・オーケストラでの客演。最後の曲は「展覧会の絵」。

ムソルグスキーの友人である画家、ハルトマンの遺作展が行われ、その展示を見て歩く回廊(プロムナード)と、10枚の絵をモチーフにした楽曲で構成された組曲である。この組曲の冒頭の「プロムナード」、後に曲間で変奏されて数回挟まれるのの、一番最初が特に有名。

「カタコンベ(キリト教徒の墓地)」の後に演奏される「死せる言葉による死者への呼びかけ」は、「プロムナード」の変奏になっている。が、あれ?と思った。「展覧会の絵」および「プロムナード」の、本当の意味のタイトル───タイトルは、本当は「死せる言葉による死者への呼びかけ」なのじゃないか───?「死せる言葉による死者への呼びかけ」が元々で、「プロムナード」の方が変奏なんじゃないか?…ムソルグスキーは、ハルトマンの死に大変落胆し、ハルトマンの異変に気付きながら何もしなかったことに自責を感じていたらしい。「展覧会の絵」は、ムソルグスキーの生前には演奏も出版もされていない。遅筆の彼にしてはめずらしくあっという間に書き上げたのに、お蔵入りにしてしまった。…個人の思いを込めすぎて、自分で客観視出来なかったんじゃないか?その思いというのは、友人の遺作展の会場に足を踏み入れた時の感情で、それは、そのまま、ピアノバージョンの「死せる言葉による死者への呼びかけ」がよく表しているような気がした。「カタコンベ」から切れ目なく演奏するように指示のある「死せる言葉による死者への呼びかけ」は、ハルトマンへ、「淋しい、君が大好きだ」という気持ちでいっぱいで、行き場がないムソルグスキーの体の中の「死せる言葉」が、「死者への呼びかけ」でいっぱいになっている…それが、展示会場で、主のいない絵画に囲まれてプロムナードを歩いている時の、彼だったんじゃなだろうか。

ムソルグスキーはお蔵にしてしまったが、今では彼の最も有名な作品の一つである。「絵」をモチーフにし、それを「回廊」で繋ぐというアイデア自体が面白いし、ユニークだ。なんと言っても、冒頭の「プロムナード」が格好良い。大学生の時、楽譜見るまで全然気付かなかったんだけど、「プロムナード」の冒頭しばらくは、5拍子と6拍子が入れこれで書かれている(つまり11拍子みたいな)。重厚だけど浮遊感のある感じは、ここに秘密があったんだね!ちなみに、10枚の絵は、実際には展示会の目録にはない絵もあり、その中の一つが「ビドロ(牛車)」。ピティナの解説とキーシンのピアノを聴いたら、むちゃくちゃ胸が重くなった。それが自分の立場を危うくするものだったとしても、不条理に置かれた、尊重されない人間の感情とか、傷ましさに、気持ちを寄せずにはおれない人だったのかもしれない。

原曲はピアノ。他の音楽家によるオーケストラアレンジはたくさんあるが、この曲を人気にしたラヴェル版が特に有名。ピアニストのリヒテルはラヴェル版が嫌いだったらしい。ロシアの楽曲を、フランス人がアレンジして、ロシア人に「嫌いだ」と言われても、まあ…別に平気な気がする。力点の違いというか。オーケストラバージョンと、ピアノバージョンを、順番に入れこれにして聴くと面白い。あと…関係ないけど、いっつもムソ「グル」スキーって間違える。


グノー 歌劇「ファウスト」
Gounod : Faust

千秋がイタリアのヴェイラ先生のところで勉強している。作品は「ファウスト」。と同時に、ピアノに対してやる気を失ってしまったのだめが、シュトレーゼマンの差し出した手を取ろうとする時、背景に書かれている言葉が「ファウスト」に出てくるセリフである。

全5幕で約3時間。いわずもがな、ゲーテが生涯にかけて書き上げたドイツ文学の大作「ファウスト」、その第一部を原作にしたオペラである。グノーはフランス人で、このオペラもフランス語で書かれている。ずーっと前に読んだ気がするがな…ゲーテの「ファウスト」は家にある…誰か、漫画で面白く口語訳してくれないかな?それともそういう漫画あるのかな?ありそうだな?叡智を尽くしてなお、満たされない、年寄りの博士ファウスト。人生とは鬱っぽく、苦痛に満ちたものである…「今がずっと続けば良いのに、人生はなんて美しいんだろう」、そんなことを思う瞬間が、自分に起こるはずがないと思って、人間の生というものに絶望している。悪魔メフィストフェレスは、魂と引き換えに、老博士ファウストにその瞬間を味わせることに全魔力を注ぐ。自分と、自分が存在することの全てを全肯定した瞬間に死ななくてはならないとは、人間って、えげつないストーリーを考えるなあ〜。歌劇「ファウスト」の序曲には、その全てのエピソードの「終わった感」がある気がする。

これはわたしの理解なんだけど…。【その8】で出てきたラヴェルの協奏曲を聴いている最中、のだめの心は死んでしまう。正確には、「ピアニストになって千秋と共演したい」という夢を見ているのだめ、が、死んでしまう。なので、その後の千秋に対する振る舞いは、「ピアニストのだめ」のお葬式なんである。本番の終わった千秋を部屋で出迎え、「まあまあ先輩」「お疲れデショ〜」「ごはんにしますか?お風呂にしますか?」と言っているのだめの中で、「ピアニストのだめ」は死んでいて、「主婦のだめ」だけが残っている状態…。千秋は、違和感を感じているが、「ピアニストのだめ」が死んでしまっているという大変な一大事に、気が付かない。そんなのだめを残したまま、翌朝イタリアへ勉強に行ってしまう。

残されたのだめの元に、ふらっと現れたシュトレーゼマン。「ピアニストになって千秋と共演したい」という夢を、ひとり終わらせてしまったのだめ、過去と人のしがらみから自分を切り離して、ひとり、ぽちゃんと落ちてしまったのだめを、すーーーーっと、網杓子で救うみたいに、そ〜っと拾ってしまう。その「絶望」という双眼鏡から見えるものがあるのを、ボクは見せてあげられるよ〜…。


モーツァルト 歌劇「ドン・ジョバンニ」序曲
Mozart : "Don Giovanni" K.527 Overture

シュトレーゼマンは、やる気を失ったのだめが弾くベートーヴェンのソナタ第31番を聴いて(【その8】で一生懸命ずっとのだめが練習していた曲)、あることを閃く。そして、10日後のシュトレーゼマンの公演に、のだめのコンチェルトを急遽プログラムに捩じ込むことを思いつく。結果、のだめは、千秋がRuiと共演した翌日から、レッスンをサボり、学校も行かず、行き先も告げず、電話も取らず、シュトレーゼマンのところでコンチェルトの準備をするのだった。あちこち心当たりに電話をかけてのだめを探す千秋は、シュトレーゼマンの事務所経由でのだめが演奏家デビューすることを知る。急遽千秋はロンドンに飛ぶ。もちろん、のだめの演奏を聴くために。

その、シュトレーゼマンの、イギリスの一流オケによる、ロンドン公演。1曲目はモーツァルト。17世紀の伝説上の天下の好色貴族「ドン・ファン」がモデルで、「ドン・ジョバンニ」は、老若美醜問わず、各国で2000人の女性と寝たという、剣技も強い、愛ある色男。一応「喜劇」ということになっているが、なかなか重く暗い序曲。ジョバンニは最後、地獄に連れて行かれるらしい。

なぜ1曲目がこの曲で、次がショパンなのか…色々勘ぐると面白い…。


ショパン ピアノ協奏曲第1番
Chopin : Piano concerto  No.1 Op.11

誰も知らない、無名のピアニスト「メグミ・ノダ」。急遽プログラムを変更して追加された演目で、いったいどんな関係の、どんな演奏家なのか?

結論から言うと、ロンドン公演のこのコンチェルトは、大成功する。なぜなら、のだめは全部の繋がりを断ち切って、未来もなく、過去もなく、何も求めずにこの1曲のみに自分の全てを集中したからだ。絶望していたから。だから失うものもなく、これから欲しい評価もない。「ピアニストのだめ」の葬儀はもう済んでるので、彼女にとってこれはいわば出家の儀式、この曲は俗世への思い出で、これを演奏している自分は、もう俗世にいないし、いるつもりも、居場所もない…。

曲は、まるで「モーツァルトか?」と思うような冒頭から始まる。そして、終わったものを愛おしむような、静かな情緒に溢れている。「月明かりの恋(ショパンの手稿より)」が象徴する、人の営みを見つめる高い視点。『のだめカンタービレ』は、その瞬間瞬間に月の描写がたびたび入る。まさか、この曲が初めから想定されていたのだろうか…。「それ」が終わってしまったから、ただただ愛おしいだけ、懐かしい、寂しいだけ、遠くて大切な、それは「展覧会の絵」のムソルグスキーのハルトマンへの友愛もそうだ。亡くなってしまった友人へ、生きている間にはあった色んな思いが、ただ純粋な想いだけに収斂されていく。そして「ファウスト」にもあるように、「純粋な人生の美しさ」を理解した時、それは終わっている。のだめも、のだめの人生の中で、ピアノを追いかけて、千秋を追いかけて、友達の音楽があって、苦しくて楽しかった日々、それは終わったものだから、ただただ楽しくて愛おしいものとして思い出せる。のだめは、自分の10日前までの日々を、そういう「追憶」、「過去」にしてしまった。そして全部音楽の中に入れてしまったんである。だから、成功した。…ちなみに、漫画にそんなことはこれっぽちも描かれていない。パクチーの憶測。

のだめの恩師、オクレール先生が怒ったのはこのことについてだった。このシュトレーゼマンの悪魔の所業について、後にオクレール先生がシュトレーゼマンに面と向かって非難するんだが、ここも何回見ても泣けるんだよ…。ステージを降りた後、その人は、また「日常」を生きなくちゃいけない。その「日常」とは、人とのつながりや、関係や、応援や、信頼関係や、積み重ねや、思い出で出来ている。ここを断たせてしまったら、その子は「日常」で生活していくことが困難になってしまう。「ステージ」と「日常」を行ったり来たりすることが出来る音楽家になる、それが、オクレール先生の方針で、のだめがそれに慣れることが出来るように、ずっと見てきたきたんだと思う。一方、日常を断ち切ってプロの音楽家になるタイプもいる。シュトレーゼマン、そして千秋の父千秋雅之。Ruiが今その中間にいる。

ここでは、ショパンの協奏曲の演奏シーンにページ数がかなり割かれている。のだめの演奏は、聴く人の無意識のブロックを解くような、音楽の中に、生来持っている自由さがあることを、かつて【その8】で書いた。そして、こののだめには、これまで無かったような「調和」がある。特定の人だけに好もしい個性の尖った音楽でなはなく、不特定多数に届く、最小公倍数の分母を広げた「調和」。観客が感銘を受けている描写、意識のブロックを解かれているようなのは、まさにこの瞬間の千秋にもそうだったんじゃないか…。のだめの演奏を聴いたら、千秋がこれまでのだめにかけていた時間と熱心さは、全部のだめの音楽になって、彼女の音楽を補強していることが分かる。ここで千秋は、のだめと共演しているのがシュトレーゼマンであって自分でないことや、音信不通だったこと、黙ってロンドン公演に出演したことなど…何もかもに、悔しがったり、怒ったり、落胆したり、しない…。ただ、自分がのだめをここに至らせるための天使の役割だったんだ、と、納得している。この天上の精神よ…。千秋の演奏を聴いて、絶望したり焦ったりするのだめと違って、千秋は、のだめの音楽も、のだめそのものも、天使のような、つまり完全に愛で接していたんだなあ…と、そのことが千秋自身に自覚される、無意識の自意識のブロックを外されて、愛情だけになっている、そういう、のだめの演奏、なのではないか…。


ブラームス 交響曲第4番
Brahms : Symphony No.4 Op.98

シュトレーゼマンの公演、終曲。この1楽章のテーマが美しすぎて、まるで、天使の役割を自覚した千秋に対するご褒美かのようで、辛い…。しかも、公演が終わって楽屋へ行こうとした千秋、事務所スタッフのオリバーが気を利かせて一番に会わせてやろうとしたのに、のだめは千秋と面会を拒絶…(号泣)。

ブラームスの交響曲は、第1番が【その2】で既出。強い意気込みで書かれた第1番と比較して、断然巨匠味が、つ、強い!優勝!この曲、特に音楽家仲間からの評判が悪かったらしい。3楽章でトライアングルが、ちゃんちゃんとむっちゃ良い味出してるんだが、若きR・シュトラウス(【その3】で既出)は師匠の辛口の批評に反してこの曲に感激していて、初演ではトライアングルを演奏したらしい。胸熱のトライアングル。必聴。


ミヨー スカラムーシュ
Milhaud : Scaramouche

のだめは公演が終わると、世界中がインターネットを通して反応するのとは対照的に、抜け殻のようになってしまい、携帯を置いたまま行方をくらませてしまう。心配する千秋は、イタリアのヴェイラ先生の元でも気がそぞろで、何の情報もないまま、エリーゼが引き受けた公演の為に、ブラジルへ飛ぶことに。ブラジルの楽団と演奏するのが、ブラジル音楽の影響を受けた「スカラムーシュ」。

千秋が振るのはサックスとオーケストラの協奏。2台のピアノバージョンもあって、音大の発表会では演奏される機会が多い曲じゃないかな。子供の頃、どこかで聴いたことがある…という気持ちにすごくなるんだけど、実際の記憶なのか捏造なのか思い出せない。フランス人のミヨーが書いたこの曲は、実際に子供向けの劇の為に書かれた曲が元になっているんだそう(スカラムーシュは子供用劇場の意)。ユーモラスな明るい楽曲。特に3楽章は底抜けに明るい。

ブラジルに飛ぶ前のイタリアで、多分本当はオペラの立ち稽古で色々と雑用があるはずなのに、客席の2階で呆けたままの千秋について、「いい加減追い出した方がいいんじゃないですか」「死んでますよ」と兄弟弟子のジャンが言う。しかしヴェイラ先生は、全く使い物にならない千秋を、「せっかく真面目に音楽一本で突っ走ってきた真一くんが、初めて身を持ち崩しているんだから」と、何も言わない。温かい…!音楽とか舞台の人って、基本的に、優しいよね…!!失恋とか、ペットロスとか、経済の世界ではそんなの基本無視じゃん。でも表現の世界の人って、愛、その喪失に関して、それが人を構成している大きな要素だ、それが人生だ、そして作品は人生を描く、という前提がそもそもあるから、寛大な気がする。そしてまた、全く予期せず、千秋はお父さんと再会する。お父さんに関する確執を乗り越えている千秋は(パクチーの主観による。【その7】にて記載)、やはり全く予期せず、朝、ベッドの中で、子供の頃に聴いて以来の、お父さんのピアノを聴く。のだめがかつて千秋に言った「先輩も聴きに行けばいいんですヨ〜」が実現する…。

ここで割合千秋が、お父さんに素直に胸の内を告白してしまえるのには、千秋のお父さんが、実は、嘘をつかない人だからだ、というのがある(ついてるけど)。その場だけの、表面的な耳触りの良い慰めを言わない。というかこの父はそういうのが言えない。千秋が、お父さんの庇護が必要無いくらいに成人して、お父さんに「父親」を求める必要が無くなったことで、初めてひとりの男として互いに会話が出来る、という…。そして、実は、割合内容に関しては信用出来るというような…。こういう、その場限りの、甘くて耳触りの良い適当なことを言わない点、思ってないことを言えない点、千秋もそっくり同じである。

そんなこんなの間、のだめはひとり、エジプトまで旅…。そしてパリに帰ろうとして寝過ごし、ベルギー…そして、こっそりパリのアパートへ帰宅…。


霧島昇 「誰か故郷を想わざる」
作詞 西条八十
作曲 古賀政男

所在なさから逃避した心理的に過酷なひとり旅が、所持金のなさゆえ一層過酷で、ほうほうの体でやっと帰宅すると、自宅の電話にガンガン実家からの留守電がちょうど入ってきているところ。のだめのデビューを、のだめと同じ大川出身の音楽家と並び合わせて、盛り上がっている実家の家族。頭の中に疑問符の浮かぶのだめ。あれ…?「千秋と共演するピアニストのだめ」は、彼女の中で葬り去ってしまったけれど、それでも、ただの「のだめ」が千秋を欲していることに気が付いて帰ってきたのだった。しかし…もしかして「音楽家」を諦めたつもりで、実は「音楽家、目指せ古賀先生」ルートが新たに造成されて、自分にはまだ選べるルートが残ってるのか…?

大川出身なら、知らぬものは無いと言う感じの楽曲なんでしょうか。古賀政男氏作曲の、昭和15年の大ヒット。初めて聴きました。


シューマン 子供の情景
Schumann : Kinderszenen Op.15

のだめが、故郷・大川に引っ張られて混乱していると、アパートの下層から打楽器の音が聞こえてくる。日頃存在感の薄い、作曲科のヤドヴィカが、打楽器の曲を作曲している最中だった。ここのストーリー展開、かなり秀逸だと思うんですが、近代の音楽家が、これまでで十分既に名曲が出尽くし、音楽の可能性で頭打ちになった時、改めて音楽を続ける希望を見出すのに、「アフリカ」「打楽器」あるいは「民族音楽」がきっかけになることが、往々にしてある。

アフリカの音楽は、音楽理論が無い。あるのは、圧倒的に身体的な「快」「不快」という感覚、それだけが、唯一の基準である。すべての人類の祖先がアフリカからもしも出ているなら、音楽の根源もここにある。西洋音楽をする人間が、その世界観を宗教とロジックと前例でがんじがらめになっている時、プリミティブな自分の身体感覚という、唯一無二の軸が、人間社会の中で右脳の作った音楽のバリアを壊して、改めて自分の中の音楽と出会わせる。音楽をやるきっかけを思い出させる。人間に音楽があることの必要を思い出させる。そこには理屈を超えた、疑えない、音楽が身体にもらたす生の肉々しい快感がある。

のだめは過去を捨てて、尼僧のように、俗世を捨てて、コンチェルトを弾いてしまった。捨ててしまった過去であるから、アパートで友人たちに再会しても、目も合わせない…。まるで他人…。全部を手放して、だけど自分にすっと、自然に入ってきたのは、打楽器の原始的な、シンプルな楽器の楽しさだった。思い出していく、子供の自分が楽しかった音楽、そうだ、あれだって音楽だ。アパートにやってきた子供達にせがまれて、自分が作曲した曲で遊んでやる。かつて持っていた作曲の意欲を思い出す。そんな最中、子供たちにせがまれて弾くのが、シューマン「子供の情景」だ。

子供たちの為に楽譜屋さんで譜面を選んで、収集がつかないくらいひっきりなしにピアノをリクエストされて、「やめなサ〜イ」「あハハ」「幸せー」となっているのだめは、この瞬間、本当に幸せだったんだと思う。どうしてかというと、この時間が、子供の頃ののだめの、本当に欲しかったものだと思うからだ。大人になったのだめが、パリの子供たちを通して、幼い頃に止まってしまった自分を育て直している。自分が子供の頃にして欲しかったこと、ただただピアノが好きな気持ちを、何一つ否定されない、ピアノの喜びだけがたくさんある時間。それを、ピアノを弾いたり音楽遊びをしてあげたりすることを通して叶えている。

Wikiによると、この曲は「子供心を描いた、大人のための作品」だと。

この曲はフランツ・リストを感動させた。彼は「この曲のおかげで私は生涯最大の喜びを味わうことができた」とシューマンへの手紙に書き、週に2、3回は娘のために弾いていると明かしている。「この曲は娘を夢中にさせますし、またそれ以上に私もこの曲に夢中なのです。というわけで私は、しばしば第1曲を20回も弾かされて、ちっとも先に進みません。」

wikipedia 「子供の情景」

打楽器がもたらす素朴で原初的な喜びと同じように、13曲ある「子供の情景」も、大人になったのだめが持つ子供の心を、夢中にして、ほどいて、解放したんじゃないか。それは、全く、大きな意味のあることである、彼女にとっても、のだめの部屋にやってくる音楽好きな子供たちにとっても。だから千秋は、子供たちとともにピアノを弾いているのだめを知って、携帯に送られた動画を繰り返し見て、否定できないし、否定しない。千秋には、そのことの価値が分かるからじゃないか…。

作曲科のヤドヴィカにとって、音楽はもっとノー・ルールの世界だ。ピアノ科の友人は、のだめの今の状態を否定しかしないが、のだめの感じているピアノの世界の窮屈さを、気楽に打ち払ってしまえるヤドヴィカのおかげで、のだめなりに、自己肯定感を取り戻し、生まれたやる気を、全部作曲に注ぎ込むのであった…。


ベートーヴェン ソナタ第31番
Beethoven : Sonata No.31 Op.110

ヤドヴィカの曲を間違えてばかりいるのだめの評価が下がりそうになって、子供相手にちょっと本気を見せるのだめ。ヤドヴィカのピアノで演奏するのは、物語終盤のキーになった曲、ベートーヴェンの31番、再度(【その8】で既出)。

扉の外で、ブラジルから帰国して、のだめのアパートに直行した千秋が、この、のだめのソナタを聴いて、涙を流す。

もしかして、この時のだめが弾いたのは3楽章だったかなあ…。どうかなあ…。


モーツァルト 2台のピアノのためのソナタ K.448
Mozart : Sonata for 2 Pianos in D, K.448

のだめが土石流を起こす3楽章

第31番を聴いた千秋は、「オレと一緒に協奏曲をやろう」と、のだめの背後に向かって思わず声をかける。のだめは迷わず、「い……いやデス!」と拒否。でも、のだめに対して、自意識のバリアが溶けて、愛情を自覚している千秋は、もうそのくらいの拒否ではめげないのだ!問答無用でのだめを連れて、2台ピアノがある、親交ある著名なピアニストの家に上がり込み、モーツァルトの2台のためのソナタを演奏しようと言う。ふたりが日本にいた頃、のだめと千秋が出会って、レッスンで一緒に弾いた曲。<>で既出。

漫画『のだめカンタービレ』は、きれいなソナタ形式で、漫画の表紙にはそれぞれオーケストラで使われる楽器が描かれているが、1巻と最終巻23巻だけは表紙の絵がピアノになっている。しかものだめのゴミの部屋。23巻で千秋とデュオを弾いたのだめが千秋に言う言葉、これは、1巻で初めて千秋とデュオを弾いた後に言った言葉と、まるっきり同じだ。

ここで、千秋が演奏に込めて、のだめに通じたもの、あるいはのだめが持っていて、千秋に通じたものが、何か、考えてみる。と、それは、そのまま音楽の本質であるような気がする。言葉や態度や接し方、行動、で伝わらない、意識が跳ね除けてしまう抵抗感を、突き破って届くもの。ペルソナを剥がして、剥き出しの純粋なエネルギー。

音楽家とは、ペルソナを剥がして剥き出しになるものを、自分の自在に扱える人が、なる職業なのか。

千秋とデュオを弾いて、他に比較がないような感じでドキドキしているのだめは、その音楽を作る自分も千秋も、あの日本のゴミの部屋の延長線上にあって、今このデュオを弾いている、と理解しただろうか。のだめは、全部の日常を肯定する音楽家でいていい、というのが千秋が伝えたかったことだったんじゃないか。のだめの経歴は、幼少から英才教育を受けて、苦しくても音楽を絶えず深めてきた千秋やRuiに比べたら、一見自慢にならないかもしれない。でも、クラシックを育んだヨーロッパとまるで関係のない九州の田舎の風土が、東京のゴミの部屋で、誰に直されることもないピアノを好きなように弾いていたことが、苦しさのない許された音楽、のだめの唯一性で、他の演奏家が持たない財産になっている。

のだめは、千秋が誰より愛しんでるその唯一性で、これからいくらでも色んな音楽家と、そこにしか起こらないドキドキを体験することが出来る。

そういうのも、いいと思わない?

それが、千秋が「今度こそオレが引き戻す」と思った、のだめと一緒にいたい世界なんじゃないか。

そして、その音楽は、のだめの、パリのゴミの部屋からこれからも続いていく。その部屋には千秋もやってくるし、友人や子供たちもやってくる。全部のつながりが、つながったまま、のだめだけが出せる音になっていく…そういう最終巻の表紙の絵なんじゃないだろうか。ヨーロッパの地で、ヨーロッパ起源の文化をやる日本人が、自分のルーツを肯定した。


ということで、この漫画『のだめカンタービレ』の物語、そして本シリーズは終わりです。【その9】で出てくる曲が良くて、たくさん心が動いて、音楽家たちに感謝…。そして、キャラクターたちがいるからこそ、彼らの心理を通して深まった自分についての理解も、たくさんあったんですよ…。すごい…。音楽を生み出す人間は、何を音楽にしているんだ?演奏する人間にとって、その音楽は何だ?それを聴く人間にとって、その音楽とは?それぞれ全く別々の人間、あるいは職種なのに、扱ってるものはすごくすごく近い。それって何だ…?そして、それを扱うために、人生を賭けて対峙しているのは、「自分」のどういう要素なんだ…?そういうことが、自分の中で、たくさん分かりそうになる、自分にとっては特別なシリーズになりました。

漫画『のだめ』にはアンコール編というちょっとした続編がありまして、このシリーズでは扱いませんが、ご興味ある方はどうぞ。


大変長くなりましたが、お付き合いくださった方々、ありがとう!

少しでも楽しんでいただけたら幸いです。


それでは、また。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?