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落ちてきた天使の処方箋

lotusさんのnoteを読むまで、TXTさんの【0X1=LOVESONG(I Know I Love You)】にMVが3つあるのを知らなかったのですが、確かに、Japanese ver.のMVは落ちてきた天使だった。

MVの登場人物たちは、皆辛そうで、苦しそうで、見ていると悲しい。あの苦しさは、自分も知っているような気がするのだけど、わたしはもう忘れてしまった。

「落ちてきた天使」で、あるnoteが思い当たった。

魂には色んな記憶があるらしい。

地球以外の場所にあって、別の形があったり、あるいは形はなかったりするバージョンの自分が、今世で地球に住む人間として過ごすことを選んだことについて、いくつかのことがどういう意図で起きているかを、「サブコンシャス」という存在が自分自身の口で解説してくれる、というセッションがあるのだそうですが、そのログであります。

とっっっても興味深くて、いくつも素晴らしいものがあるのですが、とりあえずこれを…どれも続きも読んでほしい…そして他のも…

わたしは、こういうセッションのログを読むのが好きなのです。

これを読むと、「あのMVに登場しているのは本当に天使か、あるいは天使のような何かで間違いない」、と思われる。そして「あえて地球に降りてきたことと、見えないところでサポートがあることを思い出せたら、彼らはもう少し苦しまなくても済むようになれるのに」と思う。

ただただ感情の振れ幅を、起きている事を味わうだけで目的は達せられているのに、あるいは好きだと心が指し示すものに熱中するだけで目的は果たせられるのに、社会は「やりがい」とか「達成」とか「経済価値があるもの」以外のものに人々が真価を見出すのを、させまいさせまいとし、なるべくその価値を矮小に矮小にしようと、妨害する。

「今苦しみを感じている自分に見えているのが世界の全て」、そこから一段次元の上がった視点と自分をつなげるのは、直感であり、「考えない」ことであり、MBTIの心理機能でいう「Ni」であり、瞑想であり、身体の部位で言うなら脳の「松果体」である。

「天使」がいた場所とのつながりが、「自分はいつでもそことつながれる」という実感が取り戻せれば、この肉体が仮の状態で、ここに今肉体を持って実態として存在していることだけで特別で、この肉体で味わう何もかもに、もうそれだけで十分意味があって、最初からあるがままでいることに何の過不足もなく、世界は整えられている事を分かっていられるのに。

「松果体」はフッ素で石灰化してしまうらしい。

この「つながり」を意図して妨げるために機能するものは社会にたくさんあるが、特にこのMVの登場人物達をつながりから遠ざけるように仕向けて機能しているのは、わたしはその一つは、「都市の呪い」なのじゃないか?と考えた。

我が家は自営業で、わたしは接客担当なのだけど、ここ田舎の島でお店をしていると、都会から来たお客さんと地元のお客さんとの違いに、はっとすることがある。

買い物に来られて、残りが少ししかなかった場合、「全部もろたら、後から来た人が買えんけん」と、欲しい分だけしか残ってなくても、他の人のために残しておく方がいる。「いえいえ、要る分買って頂いて大丈夫ですよ…(今日はおそらくもうお客さまは来まい…)」とおすすめする場合もある。

うちは食べ物を扱う小さいお店で、たくさんは作れない。旬のものは人気があるので、それを目当てにいらっしゃる方もいる。島の人たちに対して、「おひとりさま、2つまででお願いします」と書いておくと、それは「その時しか食べられない旬の恵みだから、後から来る人を配慮して、なるだけたくさんの人で分かちあえる買い方にしよう」、という意味として通じる。

だから、うしろにたくさん人が並んだ状態で「ひとり2つだから、ふたりで4つ下さい」と、見目麗しい健康的な美男美女のカップルに言われた時、一瞬頭が「??」となってしまって、「ひとり2つだから、ふたりで4つ買える」、つまりそれは「権利だ」と捉えられたことに、びっくりして、それは都市では普通のことであったから、びっくりしている自分に、びっくりした。

わたしが育った東京にいた頃、もちろんわたしはこのカップルと同じように、「権利」としか思わなかった。棚にあるものが2個欲しくて、2個しかなかったならば、「やった〜」としか、「ラッキ〜」で「ついてる〜」としか思わなかった。配慮なんて、頭の隅っこで思いついたこともなかった。

「この差はなんだろう…」。島でお店を始めたばかりの頃、「後から来る人も買えるように」という配慮を幾度も目の当たりにして、眼から鱗のようだったのに。すっかり都市的なマインドにカルチャーショックを受けてしまって、すっかり島ナイズドされてしまったみたいで、なんと、その夜は寝付かれなかった。「権利」じゃない。これは「恵み」なんだよ。あらゆる意味で、うちのお店が作ってるわけじゃない。島の恵みを、分かち合ってるだけなんだよ、大変な手間はかけているけども。

「後から来る人も、『自分』の延長線上にある」。

それが違いだった。

それが「ない」のが、わたしがしていた都市生活だった。

「他人への配慮」なんてしてたら食いっぱぐれるのが都市の生活で、物流は最先端で整っているので、在庫管理は店舗側の責務だ。自分がいくつ買うかと、他の人が買えないことは関係がない。「あの人」の持ち物と、自分の持ってるものは無関係。都市には「人が作ったモノ」しか存在しない、つまり、金銭でやり取りするモノしか自由にならない。「豊かさ」がイコール「お金がたくさんあること」になり、自分がお金を使って自由になる範囲を「豊か」と定義する。

「この社会であなたはどれだけの換金能力がありますか?」。

そう、わたし達は子供の頃から、「学業の成績は、個人の成果に対して評価されるものだ」という「個人戦」に、「豊かさ」は個人の裁量に対してのフィードバックだ、という設定に、慣らされている。「あの人」の豊かさと、自分の豊かさは関係がない。

対価は「わたし」の換金能力に対して「わたし」に支払われているので、「わたし」にしか関係がない。

「豊かさ」とは、ここでは「分断」されている。

分断されたままであるように社会は機能している、競争して、分かち合わずに、個人の消費を年齢ごとに増やし続けるようにして、この秩序が保たれているからだ。

この世界にすっぽり染まると、「換金価値」=「社会的価値」=「存在価値」と、自分の存在のスケールが落とし込まれていく。

これがわたしの命名する「都市の呪い」で、ここに「合意しない」ということが、落ちてきた天使が捕われる「都市の呪い」から解放する処方箋だ。

わたしは長らく「器用貧乏」という言葉に呪われていた。今も完璧に吹っ切れた訳ではなく、最近では「マルチポテンシャライト」という新しい言葉まで発明して、この類の人たちの肯定感を上げようとしている人がいる、にも関わらずどうも自分を損なって見てしまうのには、「そこそこ器用」なそれぞれの能力に、この社会の中での換金能力が、ほとんどゼロに近しいからである。

好きなことを、好きなようにやって、だから何?楽しいだけ。それで?何の価値も生まない。そのくらいできる人はいくらでもいる。つまり意味がない。

しかし田舎で暮らしてみると、「器用さ」と「貧乏」は関係がないし、「そこそこ器用」なそれぞれの能力がフルに活用されればされるほど、暮らしは彩り豊かになる。ガレージや物置、自家栽培など、こちらでは自分で何でも作る人ばっかりだし、ここにはモノも場所も、都会のようには全然ない。お金を使って何か空虚を満たしてもらえる機会がない。

さらには起業するにあたって、自分たちで手に負えるサイズのお店をやろうとするならば、これまで好きで、何にもならなかったけど続けてきたことが、ぜんぶ、ぜーーーーんぶ、つながってまるごと必要になるのであった。

好きのかけらは、全部、一つ残らず意味があったのである。

「換金価値」のある無しは、その能力が自分にもたらす豊かさとは何の関係もないものだった。幸せとも関係がなかった。「換金価値」=「存在価値」…両項は全然イコールに見合ってなかった。

好きなものが多いなら、そのままそれだけ豊かになる。

わたしはそれを、何でもモノが揃わない環境に来て、初めてちゃんと理解したのだった。

ジミンくんがタトゥーを、ファンアートで描かれた絵を参考にして入れた、という話を聞いて、「すごいな…」と思ったんだけど、もちろん彼が気に入ったからとはいえ、描かれたファンにも、今後において責任を感じてしまいそうで、そういう「すごいな」でもあったんだけど、

自分の体、何より重要な、大切な身体に、消せない図案を描くという時、それが「ファンの創造物」だと言う時、

つまり人々の創造する意識を、大きな集合体として自分の一部のように感じている、自分の意識も身体はそこに属していて、自分の持つデータとそこにあるデータはイーブン、そこにあるデータは自分の一部としてイーブンに利用できる、

という感覚なのだったら、なおのこと「すごいな…」と思ったのだった。

島の人が、「後から来る人も買えるように」と言って残しておけるのは、後から来た人が買って感じる喜びを、自分の一部だと思うことが出来るからだ。

種類は違うが、ジミンくんも、彼の喜びが、遠く離れたところで自分が感じている喜びのように共有されている世界に自分が属している事を知っているだろう。痛みなら痛みが、素早く集合意識全体に広がる事を知っているだろう。その総体は、もはや自分の延長線上で、自分自身である。そこでの情報は、一方方向ではなく、循環して対等だ。

欲しいものが買えた、よかった、と思う喜びも、買えなくてがっかりするのも、それが別の全く知らない他人だとしても、自分なのだ。

だから、おもんぱかれる。

分断されていない。

わたしは今、豊かさとは、「ない」なら「ない」なりに、あったら、「どんどん分かち合っても減らない」、という感覚が、「豊か」ということなんじゃないだろうか、と思っている。

お金はエネルギーだから、これからやろうとしていることに必要な手段で、それは過不足なく起こる、と信頼していれば、そのタイミングで用意される。まあ、たくさん貯蓄したい人にはこの方法は効かないけど…。

つまりこれは、資本主義が設定している経済的価値から、自分がつける価値の設定を自由にする、というマインドの解放の話です。言うと簡単ですね。【Yet To Come】でJ-HOPEくんが歌ったみたいに、この社会が価値を高く評価するものに、自分が同じ価値の付け方をする必要はない。そして、そこで価値のつかなかったものに対して、あなたが価値を損なって感じてあげる必要もない。何度も、何度も、繰り返して、そこから開放するんだ、自分たちは解放されるんだ、と、歌詞は言っている。

【0X1=LOVESONG(I Know I Love You)】のMVで、登場人物は、親の実家で暮らす大人と子供の狭間で、「学生」という商品から「納税者」へ過渡中で、自分の好きなものを値踏みして、換金価値のないものを捨てないのであれば、社会的な価値を獲得する競争に勝ち残れないと認識していて、かつ好きなものを捨てるのは、宇宙的な自分のルーツ、「hometown」とのつながりを断つことになるのに感づいている。期待していない、どうでもよかった、こんなカオティックワンダーランド、自分を丸ごと捨てて社会人にアジャストしてもよかった、でもgirlが現れて、自分から生まれたloveはつながりを思い出させてしまった、そうだ自分「も」落ちてきた。

自分の好きなものを捨てたら、「自分」を捨てたら、この「愛」を感じる自分が存在する世界は終わる。つまり、彼女を愛するのは、カオティックなどうしようもない世界で、「自分」を生きなければならないということと同義で…それはあまりに途方もなく、やりきれる希望がなく、ドラッグみたいに緩慢に消費してくれ、やがて存在が消せるなら楽なのに…。そういう歌なのかな…、と、思いました。とてもきれいなMVですね。

終盤、ミリタリーっぽい制服を着ているのが、「この子たちに兵役をさせるのって…暴挙?」それって許される事?十分育った大人が解決してくれ、という気持ちになりました。だって…許されること…?

MVの少年がもし、「彼女の愛と生きる」方へ覚悟を決めたら、世界は実際にはただのカオス一色じゃない。覚悟を決めた途端に、無数の最良のサポートが一気に全方向から差し伸べられるのだ、この世はどうしようもない、下らないものだけが存在しているのではなくて、「カオティックワンダーランド」である以上に「ワンダーランド」で、考え得る最高の素晴らしさに素晴らしさを掛け算したようなものだって、無限にそこかしこに存在するから。

「経済」が付ける「存在価値」、それはそれで置いておいて、自分の存在を、自分の豊かな世界を、支配されずに保つこと。

この地上で、「天使」でいること。

だから、仮に明日経済が崩壊しても、幸せは変わらない。

わたし達には、目に見えない、もっと大きなシステムとつながることが出来るから、目に見える、人口がどんどん減っていく現行の資本主義のシステムに、すっぽり包まれて暮らしながらも、意識はそこを超越できる。

そういう、意識が、裏と表をひっくり返して地球に送り込まれて、今、その表裏がぐりんと、世界中で老若男女元が、戻ろうとしている、特に若者、その様相がエネルギーに満ちていて、まるで、カオスみたいだ。


…んー!天使(10月4日)に間に合わなかった…!


それではまた!!


(※なんか、むか〜〜し見た漫画の中表紙にこんな羽の絵があったような…『ようこそようこ』としか思い出せないのだけど、多分きっと、それじゃない)




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