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運命の出会い。。

音楽市場の開拓目的でアメリカへ

2006年頃。日本のCD販売市場が落ち込み始め、音楽市場がどのようになるかをリサーチしていた。
沖縄の音楽を海外に展開したいビジョンを共有していたAgentパートナー、タマケン(現 Japan Lithuania exchange centre)と一緒に、Los Ángeles、San Francisco、Maiami、New Yorkに行き、音楽プロデューサー、上原キコウさんがProduceした大城美佐子の作品や、Kachimbaの音源を持って、アメリカに渡った。

沖縄に住んでいたイタリア系アメリカ人、ゴンザレスGや、東京のサルバトーレの協力を経て、Los ÁngelesでPat Boone officeのChief manager Charlieさんにプレゼンを行った。同時に、ANTENNA SOUNDS.COMというDance musicの配信サイトを立ち上げていた、DJ KOUTAROU.AとMaiamiで合流し、Winter Music Conference2006に参加した。

Winter Music Conference

WMCではちょうど、デジタルマーケットの熱い議論が行われてたので、これからのコンテンツ市場の動向を勉強していた。Danny Tenaglia,Chus & Ceballosなど、さまざまなアーティストに刺激を受けた。世界中からBooking AgentやArtistが集まり、情報交換を行なっていた。

僕はDanceMusicも好きだったので、沖縄でこんなことがしたかったのです。WMCでは、ホテルのレジストから街の運営、ITの活用、いろんなこと参考になった。

Maiami - Columbia - Cubaのルート

Kachimbaの 太郎は、ジャンベ1本を持って来た。Nikki Beachのダンスフロアに乗り込み、DJに合わせてジャンベをたたき、周りと楽しんでいた。 太郎と一緒に行った目的は、Kachimbaが、定期的にキューバ公演を行いたいと思っていたので、Maiami - Columbia - Cubaのルート開拓をしたかった。具体的に計画するほど、お金と距離の問題になった。Charlieさんにも現実的な厳しい指摘を受けた。

そして台湾を目指した。

沖縄に戻って、別のプランを考える。

JASRACと、台湾の音楽著作権管理団体(MUST)と演奏権の相互管理契約を締結。そして、知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS協定)が発効されたというニュースをみて、地理的にも近く、コストが欧米に比べ安く収まるのではないかと考え、台湾に興味を示し、台湾の勉強を始めた。
そして、2006年に台湾へ足を運び、文化的な背景が似ている事とがわかり、台湾に渡航することになる。

高良レコードの高良さんから、台湾オリコンを発行するリリーさんを紹介され、貿易事業で台湾と取引していた、山城P博子と一緒に会いに行った。

その時リリーさんに会えず、がっかりして入ったcafeが東區にあったSofa~Lounge Bar だった、そこにはKayleeというDJがCD屋さんを開いていた。
Hana Lin(林美花)ちゃんというオーガナイザーもそこで働いていった。彼女らの紹介で、数珠繋ぎに音楽関係者と会うことになる。DJ Noodle 、DJ Mykal、そしてTHE WALL Livehouse を紹介された。

(東核亞洲) east core asia

台北のライブハウスTHE WALLのオーナー Freddy(現 立法委員)とMIYUKI(今はCREATIVEMAN)と意見交換をした。
沖縄を中継して日本の音楽シーンと台湾の音楽シーンをつなぎたいと話に行った。(東核亞洲) east core asiaという、東アジア・日・米の音楽ネットワークを繋ぐビジョンをFreddyから聞いた。そこから、小さくとも少しずつ目標が動き始めた。

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當山貴史(Shaolong To The Sky)と一緒に訪問し、演奏できる場所を求めた。師大路にある地下社会にブッキングしてもらい、会場リハが終わって外に行くと、88BALAZが公園でイベントをしていた。そこで出会ったのも今後の繋がりになっている。

沖縄に日本と海外の音楽事業者のネットワーク

2008年、沖縄県から調査事業を受託した。東京・大阪・福岡・台湾・香港を廻って、音楽事業者やメディア・WEBプラットフォーム・政府機関との意見交換を行い、沖縄に日本と海外の音楽事業者のネットワークを繋ぐための訪問調査をしていた。

僕が台湾を訪問する際に、県知事名で、華僑総会の新垣 旬子会長(当時)に委任状が発行され、ご協力を頂き各所への訪問依頼が送られた。
県台北事務所の江さん、同行してもらった友人の新垣昌人も一緒に、台湾の新聞局や、MUST、日本交流協会への表敬を行なった。その時、交流協会の文化室長だった馬場さんに初めて出会った。

馬場克樹さんとの出会い

昼間挨拶に行って馬場さんと意見交換した後、中琉文化交流協会にいた、趙さんから電話があり、その夜に馬場さんのライブがあることを知った。現 沖縄県人会長の黒島氏にも飲みに誘われていたので、一緒に、河岸留言 公館に足を運んだ。(多分、昌人はいなかったので、別でお姉ちゃんの店に行ってたと思う。)

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青木由香との出会い

馬場さんは当時、Sumingと一緒に歌を歌う活動をしていた。
会場で、黒島から青木由香を紹介され、青木由香からSumingを紹介された。

マイナス14歳

それから数年後、2010年3月、沖縄国際音楽祭 musix 2010というイベントが、沖縄の国際通りと沖縄市近辺で開催されることになる。
2009年頃、僕は県の嘱託職員として事務局に参加していた。

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台湾のみんなが沖縄に来ることに

新聞局や、MUST、配信サイトINVIEVOXのPochang wu(回聲樂團 Echo 主唱)や、StreetVoiceのLydia Luの後押しもあり、台湾から多くの参加申し込みがあった。その中で、海外からの参加団体受付アドレスに、青木由香という日本人の名前でエントリーがあった。過去の名刺を確認すると2008年頃、台湾であったことがある人を思い出す。音楽祭に申し込みがあったのは、Sumingが友人と組んだTOTEMというバンドだった。別のメールで、馬場さんも個人で、馬場band(ピアノに黄裕翔)としてエンリーの申し込みが来ていた。TOTEMは、写真家の若木信吾さんが監督で、青木由香は文化監修、日本での上映先と、バンドのライブを計画しているところだった。

同時に、沖縄でもTOTEMの映画、TOTEM Song for Home が上映される計画が進んだ。



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