小説 メルヘン #6

店が終わった後、一人で近くのバーに行った。雨は弱まって、傘を差さなくても平気だった。
コロナビールを頼んだものの、口に詰まったライムのやり方がわからなくてマスターに習った。マスターは五十ぐらいで、十八の頃からこの仕事をしているという。一月くらい前に店長とレイナさんと来た時、マスターは、「今度、ナナちゃん指名で行きますよ」と言った。でも、まだ来ていない。催促しにきたと思ってるだろうか。それも、間違いじゃない気がする。
「青い色の、お酒がきついやつ」
マスターは、きちんとそれを作ってくれた。
一口飲むと、もう、いっぱい飲んじゃおうと思った。だから私はせっせと飲む。なのに、いつも十パーセントくらい酔えないところがある。その子と私はうまくいってない。
マスターが私をタクシーまで送ってくれた。
自分のアパートを見た時、何かで泣きそうになったけれど、すぐに涙が引っ込んだ。
部屋の窓を、静かに開けた。春の後ろ、夏の前の匂いがする。
海苔の缶を開けて、封筒を見ていく。細野さんの番号って、こんなに素敵なんだ。もはや、暗号だった。〇〇〇ー〇〇〇〇ー〇〇〇 指が雪崩みたいに番号を押した。耳が洞窟の奥の音を聞こうと、待った。
「……もしもし」
どうして出るんだろう。細野さんの、寝室。
「あ、今、大丈夫ですか」
「いや……、大丈夫じゃないけど……」
「私、初めてお客さんに電話してるんですよっ」
「……」
「すみません。切ります」
ボタンを押すと、スマホをベッドの上、部屋の角に投げた。


目が覚めると、目が覚めなきゃいいのにと思った。瞼らへんが痛い。喉のすぐ下に胃があるみたいで、気持ちがわるい。お椀から溢れそうだよ。吐こう、まず吐こう。
そろりそろりとトイレまで歩く。

うがい。
あんな電話をしてしまった。あんな電話をしてしまった。ま、ま、まー、しょうがないー。音程を付ける。残り十パーセントの部分も酔えれば、電話しないで、嫌われないですんだのかな。私はベッドに突っ伏した。

布団に埋もれたスマホが鳴っているから、手さぐりして見つける。見ると、画面に暗号が出ている。
「……もしもし」
「あ、ナナちゃん、朝はごめんね。いやあ、結構朝だったからさ。今昼休みで、ちょっと外にいるから」
私は、正座する。
「細野さん。こちらこそ、急に電話したりしてすみませんでした」
明後日、木曜の夜に合う約束をした。「一緒にご飯でも食べる?」そう細野さんが言ったから。私は休みで、細野さんにとっては、そろそろ「メルヘン」の時間を作っても家族にうまいこと言えそうな日だ。

約束は六時にデパートの前。十分早く着いた私は、ショウウインドウを見た。夏の素敵レディを決めこんだマネキンから焦点を外し、窓に映る自分の格好を確認する。老人ホームで初めてお給料をもらった時に買ったワンピースは、茄子みたいな色。襟ぐりのカットがちょっと変わっていて、気に入っている。靴はベージュで、中敷だけ赤いバレエシューズ。中敷きは今は見えないけれど。
水色のワイシャツにグレーのズボン、ズボンと同じ色のジャケットを片手に持ち、細野さんが来たのは五時五十五分。欅並木の葉の擦れ合う音が、隙間なく降ってきた。

          つづく

# 7 メルヘン

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